俺は恥ずかしかった。とても、とても……恥ずかしかった。もう、お家に帰りたい。何かを思っただけなのに、ウィーン、ウィーンと頭の上で踊る猫耳。それを動かすモーターから、頭皮に伝わる小刻みな振動に、不快な気分しか感じない。
なぁ、ゆきよ。いつからお前は、そんな悪い子になったんだい? 恨めしい目で俺が睨むと、ウインクで返すゆきである……どこで、そんな仕草を覚えたか? 俺、知ってんだ。ゴールデンウィーク明け、フラウ・ボウのコスプレで、アムロとここに来てたこと。「セルフ、行きまーす!」って、うどんを注文したって、ゲンちゃんから聞いたんだ。まぁ、それはそれとして……なぁ、ゆきよ。後生だから、俺の頭の猫耳を、サクッと外してはくれまいか? うさぎの耳にはしゃぐゆきには、俺の想いが届かない……。俺の隣のツクヨもゆきと同じようにはしゃいでいた。
「ツクヨは猫ちゃんライダーになりました! ねぇ、オッツー。似合う? 似合う?」
「とても似合うぞ、ツクヨっち!」
ゆいの言動にへそを曲げたツクヨであったが、今は変身ベルトを腰に巻き、ゆきの猫耳にご満悦のようである。つい最近まで、同人作家のアケミの影響下にあったツクヨだが、今現在。ツクヨはコスプレゆきの影響を多分に受けている。俺はちょっぴり叔父として、ツクヨの将来を案じてしまう。この子はこの先、どんなレディに育つのか?……と。そして未来のツクヨに俺は念じた。乳だけは……しまっとけ。
レジカウンターの向こう側。ゲンちゃん夫婦が仕事をしながら、俺たちの様子をチラ見して、俺と視線が合うたび目をそらす。そのたびに、ふたりの肩が揺れている。そうなのか? 似合わねぇ~んだろ? そうなんだな! 自治会長、青年会の山田さん、向こう隣の田中さん……あの子は、後輩の山下君だっけ? 今日に限って、どうして知り合いばかりと会うのだろう。
お盆のお昼のゲンちゃんは、さしずめ地区の大運動会のようであった。顔見知りと目が合うたびに、俺は苦笑いで会釈を交わす。挨拶は生活の基本である。だから挨拶するのは当然だ。けれども今は、それがとても辛くて恥ずかしい。だって俺、猫耳だもの……。
口数少なく、俺は一気にうどんを胃袋へ流し込む。けれども、女子たちのペースは一向に進まない。一本、一本……麺を啜っては、他愛もない会話を交わす。どんな話題を振られても、俺は苦笑いで解放の時を待つ。のんはゆいとの再会を楽しんでいる。ここは我慢……我慢、我慢。
そうしながら我思う。俺の親友は偉大であると。オッツーは、きっちり女子会の中に溶け込んでいた。社交性が高いのか? そもそも、何も考えていないのか? この時ばかりは、彼の適応力が羨ましい……でも、この苦行はもうすぐ終わる。ごちそうさまでした、ありがとう。ようやく俺は、猫耳の呪縛から解放されると、新たな火種が───
「尾辻君。じゃ、行きましょう!」
ゆいの言葉が波紋を呼んだ。ゆいって子は、もしかして、トラブルメーカーなのだろうか? のんの顔に目をやると、のんは微笑みを返すだけだった。
「ダメーーーーー!」
「……」
ゆいの言葉に、ツクヨと忍の視線が鋭くなった。小さくとも女は女? そこは、俺の経験不足だが、険悪なムードになったのには違いない。ゲンちゃんうどんで、たったの10分。その間にゆいと打ち解けていたオッツーなのだが、ゆいの誘いにオッツーも困り顔だ。
「ごめんね、ゆいちゃん。行くって何処へ?」
オッツーが遠慮気味にゆいに問う。オッツーの手を握り、ツクヨは臨戦態勢に入っている。相も変わらず、忍は沈黙を貫いている。
「決まってるでしょ? 散髪屋さんよ。さっき、約束したじゃない?」
「あ~……、うーん……。約束したよね……じゃ、行く?」
ゆいは用意周到な女だった。うどんを食べながら着々と、言葉巧みにオッツー改造計画の準備を整えていたのだ。うどん屋で、俺はそこまで気が回らなかった。猫耳だからしょうがない……。てか、アケミもゆきも、ゆいの計画を知っているようだ。そっくりそのまま……それは、のんにも適応された。
「じゃ、サヨちゃん。私をグリムに連れてって!」
「お、おう……」
アケミが俺に軽く言う。俺は戸惑いながらもアケミに答える。昔のアニメにあったよな、“タッちゃん、私を甲子園に連れて”って。俺には〝じゃ、〟が付いてるけどな。俺とのん、アケミとゆき。四人の行先はグリムになった。オッツーとゆいは、オッツー行きつけの散髪屋へ向かうそうだ───つまり……これは、如何!
オッツーの「行く?」は、ツクヨの地雷を踏みぬいた。見る見るツクヨの鼻息が荒くなる。
「オッツーは、絶対に行かせないんだから!」
「……せやな」
ツクヨと忍の抵抗が始まると、ゆいが困ったような顔をした。
「ツクヨちゃん。だって、さっき、私と尾辻君との会話を聞いてたでしょ? 散髪屋さんのお話も……」
それはそれ、これはこれ。無言で忍は、ゆいに向かって間合いを詰めた。この場において、最も恐怖なのは忍であった。フランス人形を思わせる、端正な顔立ちの美少女が、無言で無表情なのである。その表情から何ひとつ読み取れない。もしかしたら……太宰じゃないが、忍はゆいを刺すかもしれない。流石のゆいも、忍に押されて距離を取る。ゆいはツクヨと忍の目の高さに顔を合わせて、こう言った。
「ツクヨちゃんも、忍ちゃんも一緒に行こう! これから、オッツーを美男子に改造するのだ!」
一瞬で、ツクヨの目の色が裏返る。脅威が興味に変わったようだ。たぶん〝改造〟の響きが、ツクヨの胸を刺したのだろう。ギュィィーーーーン!とツクヨの腰のベルトが鳴った。
「わたしのオッツーが、イケメンになるの? ゆいちゃんが、オッツーの髪を切るってこと?」
「それは違うわ、ツクヨちゃん。美男子よ。美男子はね、イケメンとは全然違うの。滅多にお目にかかれぬ高貴な存在。それが美男子よ。私はまだ美容学生さんだから、代わりに散髪屋さんにやってもらうの。尾辻君に私が、とっておきの魔法をかけたげる」
ゆいの自信たっぷりが、ふたりの少女を信用させた。これもまた、ゆいの魔法なのだろう。それでも、ゆいからオッツーを守るように、ツクヨと忍がオッツーの両脇を固めている。なぁ、ゆいさん。その案件、かなり責任が重大だぜ? 俺の心配なんてどこ吹く風で、四人は散髪屋へ向かって歩き始めた。ゲンちゃんから今井理髪店まで徒歩5分なのだが……
「お盆なのに、散髪屋って開いてたっけ?」
お盆である。俺の疑問も当然だ。
「はい。わたし、先ほど予約を取りました。ゆいちゃんの事情も説明したので、要望も通ると思います。オッツーさん、どうなるんでしょうね? わたし、とても楽しみです」
のんも用意周到な女だった。まぁ……今井の若旦那も、あんな美人にお願いされたら、ニヤケ顔で協力するのに決まってる。つまり、果報は寝て待て……というわけだ。グリムで待つこと二時間後。時計の針が、おやつの時間を指している。
「みなさーん。おやつの時間ですよぉ~」
「わたし、お手伝いしますね」
グリムの奥さんが、シュークリームの用意を始めた。のんは奥さんのお手伝いをしている。ゆきの頭のうさぎの耳は、依然としてクリスマスツリーが如く、ピカピカと点滅を繰り返す。制服とうさぎ耳……今日、ゆきはこれで通すのだろう。ゆきのコスプレへの胆力は本物だ。
「三縁さん。ここにシュークリーム、置きますね」
のんが俺にそう言うと、カランコロン……グリムのドアが開いてベルが鳴った。
「あんた……オッツー君? え? 赤い子がゆいちゃん? あんた……凄いわねぇ~。私のヘアも頼めないかしら?」
グリムの奥さんが、一目散に駆け寄った。オッツーではなくゆいにである。奥さんに向かって、ゆいは両手を横に振っている。
「まだ私、美容師の免許持ってないんです。免許を取ってからでもいいすか?」
「うん、大丈夫よぉ~……にしても、あれがこうなるのねぇ~」
あれが……こうなる……か。
褒めてるのだか、貶しているのだか。奥さんの視線が、オッツーを舐め回すように動いている。アケミとゆきは、魔法にでもかかったかのように、その場で固まってしまった。俺たちは、幼稚園からの友である。この変化に驚かない方がどうかしている。俺はイケメンではなく、美男子の意味を理解した。確かにこれは……悔しいな……。
オッツーの仕上がりにご満悦なのが、ゆいである。自らの作品を愛でるように、俺の隣に座ってオッツーを眺めている。
「ゆいちゃん……すげぇーな」
「三縁さん。ゆいちゃんって、凄いでしょ? でも……大丈夫かしら、ツクヨちゃん」
「どうしたぁ……のん?」
「なんかねぇ~、ちょっと……」
オッツーの髪型とまゆ毛の変化で、こうも印象が変わるのか? 美男子化したオッツーに、みんなの視線が釘付けだ。一般客までもがそうである。のんちゃん親衛隊のたぬき先輩、口が開いたままですよ……。ゆいは本物の魔法使いだった。真夏のゆい旋風が吹き上げる中で、のんだけがツクヨの異変に気付いていた───
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