八月の満月の夜。山の中腹の祠の前に、老いた猫の姿があった。雪が如き体毛と、闇を思わす漆黒の虎柄が神々しい姿で佇んでいる。山里の猫たちに閻魔と呼ばれる老猫は、静かに月を眺めながら仲間たちの集結を待っていた。時折、己の運命を呪いながら、閻魔は深いため息を漏らして……いた。
一間半(273センチ)ほどの巨体を持つ、閻魔はこの地の者ではない。生まれて間もなく、この地へ迷い込んだのだ。閻魔が生まれた世界では、人間の手厚い愛情を受けながら、ゾウ、キリン、サル、フクロウ……。様々な動物たちに囲まれて、閻魔は楽しく暮らしていた───チャッピー。幼き閻魔は、そう呼ばれていた。
ある晴れた日。チャッピーは、檻の外で人間たちと写真を撮っていた。入れ替わり立ち替わり、人間がチャッピーと並んでポーズを決めた。チャッピーの姿に、人間の子どもは大はしゃぎだ。初めて外の風に触れたチャッピーは、心の底から興奮した。隙をみて逃げ出して、外の世界を駆け回る。胸の内からの欲望が火山のように噴火した。吹き出る衝動に、チャッピーは我が身を任せた。
チャッピーは、檻の外で自由を感じた。大空を羽ばたく鳥のように、翼が生えた気分になった。嬉しかった、爽快だった、このまま何処までも走りたかった。そして人間が軽トラと呼ぶ、鉄の動物の背中に乗った。鉄の動物が動き始めると、目の前の世界に異変を感じた。目に見える全ての景色が、飛ぶかのように流れてゆく。そして、チャッピーはこの地に舞い降りた。
初めての土地でチャッピーは迷子になった。あんなに優しかった人間の子どもが、チャッピーの姿を見ると追いかけ回した。何かしらの危険を感じたチャッピーは逃げ惑うた。何日も食事にさえ有りつけず、心身ともに疲労したチャッピーに、若き茶トラが声をかけた。
「腹、減ってんのか?」
チャッピーは、茶トラの言葉にたゆとうた。不安が頭をかすめたからだ。再度、茶トラはチャッピーに声をかける。
「おい、小僧。俺はお前に、腹が減ってないのかと訊いている。散々な目にあったようだが、俺はお前の敵ではない……もう一度訊く。腹、減ってんのか?」
コクリとチャッピーが頷くと、茶トラが一匹の魚をくれた。ボラという名の魚らしい。チャッピーは、一心不乱にボラを食べた。これまで食べた何よりも、極上の味だとチャッピーは思った。ボラのためなら誰かを殺めても構わない。それはチャッピーの胃袋に、悪魔が宿った瞬間だった。食欲という名の野生の本能が牙をむいた瞬間、茶トラが言った───
「美味いか? 小僧。この味のためなら、誰かを殺しても構わんと思ったろ? でもな、それは違う。これから、俺の縄張りに案内してやる。今日から貴様は、俺の仲間だ!」
それが今は亡き友、光秀との出会いであった……。月を見上げて閻魔は吠えた。大きく口を広げると、鋭い牙があらわになった。誰もが恐れおののく姿を呪い、声にならない声で泣いた。
「光秀さん。わたしゃ、お前に会いたいよ……」
真夏の夜の月光に閻魔の涙が輝いた。
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