家康が海の木陰で涼んでいると、信長が少女を連れてやってくる。タマタマを消失してからというもの、信長は謎の少女と仲良しになっていた。
「家康ぅ~」
「光秀か……」
「信長じゃ!」
茶トラとキジトラ。二匹の猫が合流すると、女の子は何処かへ消えた……。
「誰や? あの女」
「ちゅーるちゃんや。いつも俺に、ちゅーるをくれるんやで」
家康の問いに、ニヤケ顔で信長は答えた。家康は知っている。猫も気まぐれだが、人間だって気まぐれだ。子どもなら尚のこと。さてさて……信長のちゅーるは、これから何日続くやら……。一ヶ月? いや、長くて一週間ってところだろう。人間の子どもは飽き性だから……。
それはそうと、信長は今夜のことを覚えているのか? 家康は、確認を兼ねて信長に問う。
「今日は満月の夜や。分かってんやろな? 信長」
そう……満月の夜は、猫の集会。閻魔様と会える夜。
「───何が?」
信長は首を傾げて考え込んだ。忘れたか? 忘れたのか? お前の前世は、にわとりか? 三歩で記憶が飛ぶやつか? 信長の反応に、家康は苛立ちを覚えた……。
「閻魔様や。お前が会いたい言うたんやろが! 死んだ金魚みたいな目をしやがって」
〝閻魔様〟の響きに、信長の目に生気が戻る。
「そうやった、そうやった。閻魔様ぁ───俺見たい!」
遠足にでも行くような信長の顔に、家康は不安になった。こいつは空気が読めないタイプ。それは、コイツの今までが証明している。閻魔様に粗相があっては大変だ。家康は信長に向かって注意を促す。
「いいか、信長! 閻魔様にタメ口、禁止!」
「はい!」
信長は、元気な声で返事する。その軽さに家康の不安がさらに増す。
「余計なことを言わない!」
「はい!」
ホントに分かってんのか? コイツ……。
「閻魔様の前ではキチンと座る! できるか?」
「はい、はい、はい!」
「〝はい〟は一回!」
「うん!」
信長の返事に、殺意が湧く家康であった……。
夏の夕日がとっぷり暮れて、巨大な月が天に昇る。いつもの満月とは、また別の……今宵はスーパームーンの夜である。闇に目が効く猫にとって、暗い夜道が昼間のようだ。家康は、月を眺めて信長を待つのだが───来ない!
この地には、讃岐時間という言葉がある。それは、集合時間頃に家を出るというものだ。集合時間にではなく、集合時間〝頃〟である。つまり、約束の時間から三十分後に信長はやって来るはず。アイツのことだから、晩飯を食ったら忘れているかもしれないな。一抹の不安を胸に秘め、いつもの屋根の上で縄張りの監視を始める家康であった。
「家康ぅ!」
どうして、コイツはこうなのか? 信長の声に家康は、心の中でため息をつく……。
「あのな、光秀……」
「信長じゃ!」
まん丸眼で言葉を被せる信長に、待ちくたびれた家康は呆れ顔だ。こいつは、気の毒な猫だ……怒ってはいけない。家康は、自分の気持ちをグッと押さえた。
「もういい。閻魔様のとこに行くぞ!」
「はーい」
どうしてワシはこいつと……。肩を落としながら家康は閻魔様の元へと向かう。信長は長いしっぽをピーンと立てて、家康の後ろを付いていく。
閻魔様は、山の中腹にある祠に住んでいる。山の麓から先へ進むと、徐々に猫の数が増えてゆく。それは猫の集会に向かう、各エリアのボス猫たちだ。ボス猫と言っても、三割はメス猫である。もし仮に、メス猫の比率が五割に増えれば、猫の勢力図が大きく変わることだろう。中腹へ伸びる細道に入ると、メスボスたちの井戸端会議に花が咲く。さしずめ、縁日のような賑やかさだ。
「あら、家康さん。お元気だった? その若い子、舎弟ちゃん?」
隣町を牛耳っているオリクが家康に声をかけた。通称、皆殺しのオリク。年は四つ。見かけも、口調も、おっとりとしている三毛のメス猫だ。そう見えても、ボスはボス。プチンと切れたら、もう誰にも止められない。腕に自信を持つ家康も、オリクを止めるのには苦戦するのだ。この三毛猫は兵だ。何も言うなよ───信長! 家康が心で念じるその前に、信長の口が先に動いた。
「おばちゃん、こんばんは」
家康の思いは届かない。地雷がひとつ弾けて飛んだ。
「あら、面白い子ね。ねぇ、家康さん。おばちゃんって……誰かしら?」
オリクの言葉に、家康の顔が青ざめる。信長は素知らぬ顔で家康を見つめている。
「ごめんな、オリクさん。こいつ───バカなんだ」
その場を取り繕うように家康は、信長の後頭部に猫パンチを食らわせた。
「家康ぅ! どうしたんやろか? 俺……頭がものすごく痛い!」
前足で後頭部を押さえながら、辺りをキョロキョロ見渡す信長に、オリクからの先制攻撃が始まった。
「あらあら、この子。おバカちゃんなの? でもね、口の聞き方を違えるとね。おバカちゃんが、幽霊ちゃんになるかもよ。ふふふふふ……相手を見てから、お話しなさい」
目を細めて笑うオリクは、遠回しに威嚇する。その瞳の奥で光る目は、獲物を見つけた猛獣である。オリクの鋭い眼光に、どんな猫でもひるむのだが、家猫信長には通用しない。
「ごめんなー、おばちゃん。俺、信長。これから閻魔様に会いに行くんやで。おばちゃんも、そうなんか?」
無知とは恐ろしいものよのう……ワシも腹を括らないと。家康は、万が一に備えて体勢を整えた。オリクは信長の鼻先まで己の顔を近づけた。信長、絶対に手を出すなよ。正当防衛が成立した途端、オリクはお前の息の根が尽きるまで、猫パンチを繰り出すつもりだ。オリクの〝皆殺し〟の異名は伊達じゃない。そして、オリクのもうひとつの異名は……〝絶望〟だ。
「あらあら、茶色いおバカちゃん。三回も言ったわね〝おばちゃん〟って……仏の顔も三度までって言葉……知らないの?」
おばんちゃん三回……その重みを、屁とも思わぬ信長である。
「家康ぅ~、仏って……食えるのか?」
信長の質問返しに〝シャーっ〟とオリクが威嚇した。今にも飛びかかる勢いだ。
「家康さん。このバカ、月に向かってお仕置きね」
本性をあらわにしたオリクは、もう誰にも止められない。信長を見つめて家康は呟く。
「信長が、ここまでバカだったとは……ワシの大きな計算違いだった」
オリクの指から鋭く伸びる長い爪に、かつて〝四国の覇権〟の名を轟かせた家康は、身を低く構えて応戦体勢に入っている。その横で、ポカンと口を開ける無知な信長と、後に控える閻魔様。それぞれの長き夜が、ゆっくりと幕を開ける。
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