パワースポットと呼ばれる場所がある。
ブログ王を完成に導いた場所は、八栗寺(四国八十八箇所第八十五番札所)の境内だった。境内にある青いベンチに座ると、不思議とアイディアが浮かぶのだ。そして俺には、もうひとつのパワースポットがある───喫茶グリム。老夫婦が営む店内は、カフェと呼ぶにはほど遠く、俺のじいちゃん好みの昔ながらの雰囲気だ。
この店で俺は、ブログ王にさらなるブラッシュアップを施した。謎の編集者、青葉さんに奨められた新人賞に〝のんちゃんのブログ王〟を応募するため。そして俺たち放課後クラブが、高校最後の打ち上げをした店でもある。
ただ、ひとつだけ……俺には不思議に思うことがあった。この店を桜木が提案したことである。きっと、それには何かの意図があるのだろう。これまで、桜木が場所や店を指定するなど、一度たりともなかったからだ。その答えが分かるのは、ゴールデンウィーク最終日まで待つことになるのだが……。
「あの桜木君が決めたのよ。ねぇ、ゆきちゃん! そりゃ、ここで決まりでしょ?」
「そうですわぁ~。その店にしましょうよ。ね、みなさん!」
「そうだな。桜木が店を決めるなんて珍しいからな。で、オッツーは?」
「オレも異議なしだ!」
打ち上げの店は、満場一致で喫茶グリムに決定された。アケミはすぐさま、グリムの場所をスマホで調べ、ニヤリと笑ってこう言った。
「電車で行くなら、さぬき大学農学部前駅で下車すればすぐ近くね。サヨちゃん、打ち上げにはツクヨちゃんも連れてくるのよ。オッツーと一緒に電車に乗せてね」
すかさずオッツーは口を挟む。
「オレ、自転車がいいなぁ……。そっちの方が時短だし」
打ち上げ会場まで、自転車なら20分。電車を使えば1時間。オッツーの意見は当然だった。
「ダメよ、オッツー。電車に乗りなさい!」
アケミはオッツーの意見を却下する。その口は止まらない。
「サヨちゃん! アンタ、ふたりの邪魔すんじゃないわよ。これからはツクヨちゃん。いつオッツーと会えるか分からないんだからね。もう、アンタだって大人なんだから……分かるでしょ?」
「お……おう」
ふたりって、ツクヨはまだ小学生だぞ……。俺は心の中でツッコミながらも、アケミの気遣いに感謝した。そろそろツクヨも〝わたしのオッツー〟から卒業する年頃になるのだろう……。よき想い出をオッツーと作れよ、ツクヨっち。俺はアケミの指示に従った。
───打ち上げ当日。
俺はアケミの指示通り、ツクヨを連れて電車に乗った。電車に揺られながら、ツクヨはオッツーの隣で終始ご満悦な顔を見せた。なぁ、ツクヨ……いや、ツクヨさん。お前、どんだけオッツーが好きなんだ? とはいえ、誰の目から見ても、どう見ても。オッツーとツクヨは年の離れた兄妹にしか見えないけれど。
桜木、アケミ、ゆきの三人は、ゆきパパの高級車で送迎だ。俺たちよりも、一足早くグリムに到着した三人は、俺たちの到着を今か今かと待っていた。ツクヨがグリムの扉を開くと、チリンチリンとベルが鳴る。ツクヨは店内を見渡して、アケミとゆきの姿を見つけると
「ジャ~ン! ツクヨ、見参!」
ツクヨは決め台詞も高らかに、2号ライダーのポーズをキメた。
「ツクヨちゃーん、こっちこっち」
アケミとゆきがツクヨに向かって手招きをする。
「行くぞっ! オッツー!」
テテテテ……!
ツクヨはオッツーの手を引いて、ふたりの席へと駆け出した───置き去りにされた俺は思う。いつもお前は自由だなと。
「サヨちゃん! 遅刻!」
俺はアケミに叱られた。
「え? 俺? あ……すまん」
「あら、今日はやけに素直ね?」
叱るというより、アケミのそれはツッコミに近い。幼稚園時代から続いたツッコミだ。それも今日で卒業か……そう思うと、俺は少しおセンチ気分になっていた。
俺とゆきは地元大学へ進学し、アケミは東京の大学へ進学する。オッツーは念願の警察学校への入学を決め、桜木は天下のT大へとサクラサク。俺たちは、新しいステージに胸の高鳴りを感じていた。オッツーと会える機会が減ることを予感してか? ツクヨはオッツーにベッタリだ。
「ねぇ、オッツー! 写真、写真!!!」
ツクヨはオッツーとツーショット写真を撮りまくる。楽しげなツクヨを眺めていると、桜木が俺に語りかけた。それが真の目的だった。
「飛川君。どうです? この店の雰囲気。飛川君の執筆に最適な環境だと思うのですが? よろしければと思って、僕はこのお店を提案しました」
「そうだな、桜木。あのカウンターの奥なんて、静かでよきかなって感じだな」
俺は桜木の言葉を疑わない。それは、今も昔も変わらない。これまで裏切られたことがないからだ。桜木の言葉を信じて、俺はグリムで執筆を試す。
「確かに……俺の筆が止まらない」
第一印象で目をつけた、カウンター奥の席でポメラを開くと、秒でゾーンに入ってしまう。最適な執筆環境……それは、桜木の言うとおりだった。ふたつ目のパワースポットを俺は手に入れた。
賑やかな打ち上げの日から、数えて三度目の入店時。マスターが俺に声を掛けた。
「お兄ちゃん、いつもありがとう。先日は、たくさんのお友達と来てくれたよね? ところで、その機械はパソコンかな?」
マスターが興味深げに俺のポメラを指さした。
「こちらこそ、ありがとうございます。先日は騒がしくてすみませんでした」
打ち上げのお礼が先だ。
「いえいえ。若い子の来店は珍しいからね。私たちもうれしかったよ。こちらこそ、ありがとうございました」
マスターが深々と頭を下げる。慌てて俺も頭を下げた。
「これはポメラと言って、文字を打つだけの道具ですよ。パソコンよりも文房具に近いですね。紙と鉛筆って感じです」
文字を打つだけ。その言葉がマスターの心を刺激した。
「いつも何を書いているの? あ、ごめんごめん」
マスターの質問に俺は答えた。
「小説です。新人賞に応募するんです。このお店で書くと調子が上がるんです……あ、いつも一杯のコーヒーだけで、何時間も粘っちゃって申し訳ありません。ご迷惑……ですよね……」
別に隠すこともない。俺はマスターに事情を説明し、謝罪した。すると、マスターの声が1オクターブ上がった。
「ほう、お兄ちゃんは未来の作家先生だ。おい、コーヒー追加だ。これ、店のおごりだからね。お兄ちゃん、遠慮せずに飲んじゃって!」
マスターの声に、レジにいた奥さんが話に加わる。
「あら、お兄ちゃん。作家先生なの? あら、あらあらあら。ケーキも食べる? そうだ、一緒にケーキを食べましょう!」
桜木ぃ~。お前ぇ~、ふたりに何を吹き込んだ? 謎の歓迎に、俺は正直引いていた……ドン引きだった。軽い恐怖を感じるほどに。
「あ、お気になさらず……。なんか……すんません」
「いーやねぇ……私も70歳を過ぎてから、こんなお客さんと出会えるなんてぇ。都会ならまだしも、作家志望の若者が、こんな田舎にいるなんて……ホント、こんなこともあるんだねぇ。事実は小説より奇なりだ。長生きもしてみるもんだ」
「あら、バイロンの〝ドン・ジュアン〟の言葉ね。この人ってね。若い頃には、本の話ばかり私にしてたのよ……懐かしいわね。そうそう、このお店の名前はね。グリム童話からもらったの。もう、こんなおばあちゃんになったけど、あの頃の私も乙女だったわね。ふふふふ……」
マスターは昔からの小説好きで、若い頃には自ら小説を手掛けたそうだ。細い目をキラキラさせて、夫婦で想い出話に花を咲かせていると……思いついたようにマスターが俺に提案した。
「だったら、閉店から2、3時間。ここで小説を書いて帰る? ポメラのお兄ちゃん」
マスターの提案に奥さんも乗っかった。
「そうね、未来の作家先生だもの。ここでゆっくり書いてもらって構わないのよ。何なら、このお店の後継ぎになる? 私たち、もうこんな年だし。息子も東京で自立しちゃってるし。この先、何年続けられるかも分からないし……」
出会って三度目でそんなこと……。
「あははははは……。僕がプロになれるとは限りませんよ。この小説は、とある方から応募するように奨められて……(汗)」
俺は冗談だと受け止めた。けれど俺の意に反して、奥さんは本気だったと後で知る。この日を堺に、俺はグリムに入り浸った。これが桜木の狙いなのか? でもそれは違っていた。マスター夫婦との会話はイレギュラー。偶然の成り行きだった。桜木はこの店に、まったく別のギフトを用意していた。それは上京した桜木からの、とっておきのサプライズだった。
ゴールデンウィーク最終日。俺のブラッシュアップが完了した。俺はブログ王を書きながら、新たな別の物語を考えていた。それを書くつもりも、書く予定もなかった。ただ、輪廻転生の物語が、頭の中に浮かんだだけだ。つまり、喫茶グリムも今日で終わり。マスター夫婦へのお礼とご挨拶を兼ねて、俺がグリムの扉を開くと───
「いらっしゃいませ。え? えっと?」
エプロン姿の〝のん〟がいた。耳まで顔を赤らめて、のんはその場で俯いてしまった。
「のののののののの、、、、うぉぉぉうぉぉ……ぉぉぉぉ!!!!」
これが白昼夢というものか? あまりの驚きに俺だって、何を言っているのか分からない。でも、漏れ出す声が止まらない。心臓がバクバク鳴っている。
「三縁さん。声がゆいちゃんみたいになってるよ?」
ゆいちゃんは知ってる。でも、俺には〝ゆいちゃんみたいに〟が分からない。
「なんで、ここに……のんちゃんいるの?」
クリスマスのデートの後からも、のんとは毎日のように連絡を取り合った。のんが国立大学へ進学したのも知っている。農学部の道を選んだのも知っている。桜木の話から、のんが超優秀な頭脳の持ち主なのも知っている。俺はてっきり、桜木と同じT大へ進学したとばかり思っていた。T大も国立だし、日本にはそれ以上の大学もない。そうなれば、のんは高嶺の花どころか、別世界の住民だ。そんな彼女が、こんな田舎町で終わるはずがない。冴えない俺とは違うのだ。そう、俺は彼女に不釣り合い……。俺はそう思い込んでいた。
呆然と立ち尽くす俺に向かって、愛しいつむじがこう言った。
「三縁さんの近くにいたかったの。なんかね~……よつぼし苺の研究もしたかったし。だから……来ちゃった……。こっちの大学、選んじゃった。なんかねぇ~……ごめんなさい」
それは決して、のんが謝ることではないけれど。
「え? えーーー! ってことは、この近くに住んでるの?」
「なんかね~……住んでいます」
住んでるの?
「どこの大学?」
「さぬき大学農学部……です」
〝不思議〟と〝なんで〟のふたつの糸が、捻って交わる螺旋道? ってか? 頭の中で〝俺の嫁は世界一スイング〟がブンブンと音を立てて回っている……これが夢なら……覚めないで。
「どうして……俺に教えてくれなかったの?」
そこはハッキリさせておきたい。
「桜木君がね……。えっと、桜木君から連絡があったの。わたしのことを知らせなくても、ふたりは必ず会えるって……。そうなる運命だからって」
「桜木が? それって、三月の話?」
「うん」
俺には桜木の意図がうっすら見えた。
「だから今は、三縁さんを執筆に専念させてあげてほしいって。わたしと会うと浮足立つからって。彼が小説家になれるかどうかの瀬戸際だからって。僕が神の伏線を張ったから大丈夫だって。わたし……今日、このお店に来たの……偶然なんです。バイトの面接に来ました。で……今、研修中なの。でも、三縁さんと偶然に会えた……。わたし、それがうれしい……」
俺は、のんの頭を無意識に撫でていた。ツクヨの頭を撫でるように。顔は見えないけれど、俺には分かった。のんが涙ぐんでいたことを……。
「そろそろ……いっかな? おふたりさん。にしても、事実は小説より奇なりだねぇ。長生きもしてみるもんだ」
マスターの細い目が、消えて無くなるほど細くなった。
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