オッツーが美男子になった翌朝、のんが俺の家に来た。
「おはようございます。わたし……早川花音と申します。三縁さん、いらっしゃいますか?」
玄関に爽やかな風が吹き抜けて、オカンの奇声がこだました。
「さ、さ、さ───三縁ぃぃぃぃぃ! 美人が来たよぉ~!」
それはたぶん……絶叫だった。二階の部屋から階段を降りると、オカンがすがるような目で俺を見る。オーバーオールに白いパーカー。白い野球帽を手に持って、ボーイッシュな出で立ちから、滲み出る美しさ。のんである。そうかい、そうかい。それは、そうなのだろうけれども。可愛い我が子に、そのリアクションは酷くはないか? 階段から降りる俺を見た、のんのリアクションも独特だ。
「三縁さんのオールインワン……」
俺を見るなり、のんは顔を赤らめ俯いた。チラチラと俺を見ては目を伏せる。オカンは卓球のラリーでも見るかの如く、俺とのんとを交互に見ている。美人がウチにやってきた! 飛川家の玄関で、のんが発する次の言葉を、ジッと待つ母子であった……その間、オカンが舐め回すようにのんを見ていた。
「あのねぇ……ツクヨちゃん……ご在宅でしょうか?」
───そっちかーーーい!
俺とオカンは、目を合わせて苦笑した。
のんは、言う。オッツーが美男子になってから、ツクヨの様子がおかしいと。胸に小さな悩みがあるかのようだと。それが気になって、俺の家に来たのだと。俺はオカンにママチャリを借りた。のんが乗る自転車だ。ツクヨがいるであろう港まで、自転車で十五分───
夏休みの午前中、ツクヨは港で過ごしている。野良猫の観察をするためである。港から少し離れた木陰に、ツクヨの姿を見つけたのだが、いつもセットの忍の姿が見られない。忍は休みか……と、俺は思った。
「三縁さん、ありがとうございました。ここからは、女の子同士でお話しします」
そう言って、のんはツクヨに向かってママチャリを走らせた。ひとりで港から帰宅すると、オカンが俺に小声で言った───
「今夜は赤飯だね、三縁。じいちゃんちのも作らないと! あ、それとこれ。金の無い男はモテないからねぇ~」
なんかそれ。去年のクリスマス前に、アヤ姉からも言われた気がする。そんなところは、母娘だな。続けてオカンの言葉が止まらない……
「頑張るんだよ、これが最後のチャンスかもしれないからねっ! 遠慮はいらない、取っときな」
オカンにとって、さっきの出来事が奇跡のように思えたのだろう。ニヒヒと笑って、俺に小遣いを手渡した。手のひらの万札を握りしめ、俺もニヒヒと微笑み返す。とても悪い笑顔の母子であった……。ちょうどその頃、のんはツクヨの隣にいた……。
☆☆☆☆☆
「おはようねぇ~」
「あ、のんちゃんだっ!」
ツクヨはのんに笑いかけ、のんはツクヨの隣に座った。
「その子、可愛いねぇ~」
野良猫の観察をしているうちに、ツクヨと野良猫の間に信頼関係が生まれていた。暑いであろうに、ツクヨの膝の上でキジトラ猫が気持ちよさげに伸びている。少し離れた場所で、茶トラ猫は誰かを待っているようであった。
「この子の名前は、サヨリちゃんなの。ほら……あそこのおじさんが、サヨリが釣れると、ご飯をくれるの。それをくわえて戻ってくるの。可愛いでしょ」
「三縁さんと同じ名前ね。うん、可愛い」
いつもの元気爆発娘から、いつもの元気が消えていた……
「ねぇ、ツクヨちゃん。昨日……何かあったかしら? それがね、気になってきちゃったの……ごめんなさい」
「そんなこと……」
猫の頭を撫でながらツクヨは返事をするのだが、それっきり沈黙が続いた。のんは釣り人を眺めている。それは、釣りガールの宿命なのだろう。釣り人を眺めながらツクヨの口が開くのを、のんはずっと待っていた。しばらくすると竿の動きが激しくなった───始まったわね。そう、のんは直感した。時は来たれり! それを察したキジトラ猫が、堤防へ向かって歩き始めた。膝の上が寂しくなったツクヨが、のんに向かって声を出す。
「ねぇ、どうしてサヨちゃんなの?」
ツクヨのストレートパンチに、のんは膝小僧に顔を伏せた。顔を隠しながらのんは言う。
「ど……どうして分かったの? ツクヨちゃん」
三縁が好きだということを、のんは隠しているつもりであった。誰にも気づかれていないはずなのに……ツクヨちゃん、天才ですか? のんはツクヨの読心術に驚いた。
「え? そんなの最初からバレバレじゃん。みーんな、知ってるよ。黙ってるだけ……」
知ってる、それ嘘でしょ? わたしの気持ちが皆にバレている? それがのんにはショックだった。バレちゃったものは仕方ない。のんは腹を決めた。
「時は来たれり。すべてをツクヨちゃんに打ち明けましょう。でもこれは、女の子同士の秘密だよ……わたし、ずっと三縁さんのことが好きでした。ずっと、ずっと、大好きなの」
「うん、めっちゃ知ってた……でも、ありがとう。のんちゃんには、大切な秘密だったのね……分かるよ、その気持ち……うん。すごく分かる……わたし、応援するね。のんちゃんの純愛つーのかな?」
「……ありがとね、ツクヨちゃん」
のんは少しだけ涙ぐむ。女子大生が小学生に慰められている。それをふたりは、大真面目にやっていた。のんの純愛にツクヨも腹を割った。
「わたしも、時は来たれり。ねぇ、オッツーが格好良くなったでしょ? グリムでわたし思ったの。ゆきちゃんと、アケミちゃんと、お店の女の子の顔を見て、わたし思ったの。わたしじゃ、誰にも勝てないって……。わたし、キレイじゃないから。サヨちゃんに似ちゃったから……」
この世の終わりの顔をして、暗い顔でツクヨは言う。ツクヨの〝時は来たれり〟に、のんは笑って即答した。
「オッツーさん。ゆいちゃんの魔法で格好良くなったけど、ツクヨちゃんしか見てなかったよ。オッツーさんは、ずっと、ツクヨちゃんだけを見ていたの。それは、わたしが保証します。それと、ツクヨちゃんはキレイだよ」
「ホントに……」
ツクヨの顔が、少しニヤけた。
「うん。わたしが保証します! それと、わたしの気持ちは秘密にしてね。女の子同士の秘密……よ」
ツクヨの顔が、さらにニヤけた。
「ねぇ、のんちゃん。屋島に行かない? 屋島には〝かわらけ〟ってのがあってね、願いを込めて展望台から投げるの。わたしはね、かわらけに願いを書いて投げているの。小さい頃、ゆきちゃんに教えてもらったんだ。その時だって、オッツーいたんだ。わたし……〝おっつーがだいすきです♡〟って書いて投げたんだ。その時、誰にも見せなかったけど……これものんちゃんと、女の子同士の秘密だよ」
「うん。秘密、秘密。じゃ、三縁さんも誘ってみるね。そうしたら、オッツーさんも来るかもね」
そう言って、のんはスマホを手に取った。
「すぐにサヨちゃんに連絡してぇ~!」
ツクヨの顔のニヤケが止まらない。
ここまでの話の中で、俺に伝えられたのは〝ツクヨの悩み〟と〝屋島に行こう〟だけである。「わたし、キレイじゃないから。サヨちゃんに似ちゃったから……」この問題発言を俺が知るのは、これから五年の時間を要する……。
☆☆☆☆☆
のんから連絡を受けた俺は、ツクヨの事情をそっくりそのまま、オッツーに電話で伝えると
「サヨっち、時間を引き伸ばしてくれ! せめて、二時間。よろしく頼む」
オッツーが慌てたように俺に言う。
「任せとけ!」
口からでまかせを、俺は言った。電話を切って頭を抱えた……文字通りのノープラン……二時間か。俺はのんにメールを飛ばす───できるだけ、ゆっくり帰ってきて……と。それから一時間後、ツクヨが家に帰ってきた。のんと忍を引き連れて。
「ただいまぁ~! のんちゃんと屋島に行くのじゃ。サヨちゃんも、おともせい!」
その声は、いつもの元気なツクヨであった。時間伸ばしを続行しないと。のんの顔を見て、俺は咄嗟に思いつく。困った時は、飯だよ、飯。
「腹へったろ? 俺、そうめん作るわ。のんも一緒に食べよう。オカンから臨時収入があったから、屋島の代金は俺に任せて」
ウンウンと、ツクヨが首を縦に振る。ツクヨの隣で忍も頷く。
「三縁さんのお母様は?」
お母様……そんなのオカンが聞いたら、うれしくて倒れっぞ!
「パートに行った。お盆はこれがいいんだって」
俺が親指と人さし指で輪っかを作ると、のんの表情がやわらいだ。オカンに緊張していたのだろう。朝の美人にオカンも緊張していたのだけれど……そうそう。オトンは朝から親戚の集まりだ。きっと今頃、酔いつぶれていることだろう。
「それなら、わたしもお手伝いしますね」
のんは気を利かせて俺に言う。
「なんでやっ!」
忍がのんの言葉を遮った。のんの顔を忍が睨む。この小さな体のどこから、この威圧感が出せるのだろう……忍の背中から、今にも闘気のチャクラが飛び出そうである。
「こいつの手料理……貴重」
「そ、そうね……忍ちゃん。ごめんなさい」
「こいつ……うどんも上手。だから……そうめんへの期待も大」
そう言うと、忍はツクヨの耳に手を当てて、コソコソ早口で何かを喋りだした。ツクヨは口に手を当てて、笑いが止まらなくなっている。のんに小学生コンビを任せると、俺は台所でそうめんを茹でた。うーん、今日のそうめんも上出来だ。麺がピカピカ輝いている。艶々だ。
「三縁さん。ゆいちゃん、ゆきちゃん、アケミちゃんも屋島に来るそうです。みんなに愛されていますね、ツクヨちゃんは」
そうめんを前にして、のんがうれしそうに俺に言う。
「オッツーは? わたしのオッツーは? 屋島、来る?」
ツクヨが俺に向かって問いかけた。
「オッツーも来るよ。少し遅れるとか言ってたけど……」
それとなく、俺は防衛線を張った。
「でも、来るんでしょ?」
「お、おう」
オッツーが来ると知った、ツクヨの顔はゆるゆるだった。
俺たちがバスを使って屋島に登ると、すでに女子三人が待っていた。時折、屋島山上ではコスプレ大会が行われている。つまり、俺にコスプレイヤーへの抵抗感がまるでない。だからこそ、密かに俺は、ゆきのコスプレ姿に期待を寄せた───ところで、お前は誰なんだ? 今日のゆきは、ナース姿のゾンビだった。頭にナイフが刺さっている。うつろな瞳でふらふらと、ナースゾンビが俺の前に立っている……
「ゆき……そいつは、お盆なのに悪趣味じゃないか?」
「昨日ね、アケミちゃんと観てたの、オブ・ザ・デッド。それに、ハロウィンも近いのよ。ゾンビ歩きの練習しなくちゃ! ホラーナイトは待ってくれない……」
「あ、そうですか……」
俺たちから少し離れて、ふらふらとナースゾンビがついてくる。ゆきを目撃した観光客たちは、おのおのスマホをゆきに向け、ゆきはそれにポーズを取って、ファンサービスに勤しんでいた……もしもし、ゆきよ。ゆきさんよ。お前の青春は、それでいいのか? 少しだけ、俺はゆきの未来が不安になった。
「サヨちゃん、お金。忍ちゃんのも!」
もう、待ち切れないツクヨである。俺に小さな手を差し出している。ツクヨに小銭入れを手渡すと、ツクヨと忍は脱兎の如く消え去った。走るのはえ~な、小学生。
「あの子たち、若いわねぇ……あんな頃があったのねぇ……」
「ホントにねぇ……羨ましい……」
ふたりの背中にゆいとアケミが、ため息まじりに笑っている。小学生女子たちが、かわらけにマジックで願い事を書いている。それを互いに見せ合って、ケラケラと笑っている。かわらけに落書きやってもいいのだろうか? 俺はいつも思うけど、怒られたことなど一度もなかった。展望台から大空へ、かわらけがふたりの手から離れると、風に乗ってかわらけは、ふわりふわりと舞い上がる。それを眺めるツクヨの背後に、背の高い男が立っていた。その姿に俺は察した。そっか、そっか。それで二時間、欲しかったのか……。
天に舞うかわらけが山の中に消えるまで。かわらけが描く放物線を、ツクヨは最後まで目で追った。かわらけが山の中に消えると、小さな両手を合わせて何かを願う。ツクヨがくるりと振り向くと、坊主頭のオッツーが微笑んでいた。大きな体に向かって小さな体が宙を舞う。きっと、ツクヨの望みが叶ったのだろう。誰にも見られないように、のんは涙を拭っていた……
「ねぇ、飛川君。後でアンタに話があるから」
真面目顔で、ゆいが言う。
「そんな気がしていました……ゆいさんが、ここに来た目的はそれでしょ?」
「まぁね……にしても、ツクヨちゃんには敵わないわね。私の魔法も……まだまだね」
ゆいが、ぽつりと呟いた。
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