五月七日は、ボクの誕生日である。その前日、ゴールデンウィークの最終日。
お昼のうどんを済ませたボクが、部屋で三島文学を満喫しているのは、偶然ではなく必然だった。飛川さんの邪魔はない。それを見計らったかのように、ボクのマンションのチャイムが鳴った。
「ガクちゃん。広瀬さんって子が、玄関にいるんだけど。それが、とても美人なの……」
予期せぬ美少女の訪問に、ママが驚いたのは語るまでもないのだが……。
何事も、度を越せば恐怖である。ママの複雑な表情が、そのすべてを物語っている。広瀬さんが美少女すぎるのだ。だからママに罪はない。
「ボクが話すから大丈夫だよ、ママ」
玄関へ飛び出すと、広瀬さんが立っている。なんの用事か知らないけれど、今日も広瀬さんはキレイだな……と、ボクは思った。
「誕生会」
広瀬さんの言葉には、いつものように主語はない。
「え。それ、どんなリトマス?」
「お迎え」
無表情で言う広瀬さん。
「は?」
誰の? ボ……ボクのぉ? そんな話なんて聞いてない。
「初耳だけど?」
「サプライズ」
ボクの困惑を、すかさずママが察知した。
「あらあら。ガクちゃんに、お誕生会をしてくれるの?」
ママはとてもにこやかだ。そんなママを大人だなと、ボクは思う。
「そ」
電話じゃ、あんなに流暢に話したのに、広瀬さんはいつもと同じ口調である。
「うちの子と、ふたりだけで?」
ママの顔が若干曇るが、それはない。
「七、八人」
「どこで?」
ママの質問が止まらない。その口調は、まるで小さな子どもに問うようだ。
「喫茶グリム」
「喫茶って、喫茶店?」
「そ」
喫茶の響きに、ママの表情が険しくなった。
「中学生だけで喫茶店?」
すると、黒いスーツ姿の紳士が、会話の中に割り込んだ……おじさんは、広瀬さんのお父さん?
「大変申し訳ありません。わたくし、近藤と申します」
違った……。
「失礼ですけれど、どちらさま?」
「失礼いたしました。わたくし、こういう者でございます」
ママに名刺を差し出す近藤さん。
「あら、それはそれは……に、二階堂?」
ママが名刺を二度見した。とても大きな会社のようだ。
「二階堂家の一人娘。ゆきお嬢さまのご要望で、わたくし近藤が、責任を持っておふたりを送迎いたします。お母さまもご安心ください」
ママに向かって、深々と頭を下げる近藤さん。
「ガクちゃん……ドラマみたいね。でも、子どもだけじゃないようだから……」
そう。お嬢様とか紳士だとか……こんなのドラマのワンシーンだ。ただ、近藤さんの素性を理解すると、ママは誕生会への参加に合意した。
「あら、高級車。これ、高級車よね? ガクちゃん。やっぱり、大手さんの車は違うわねぇ~」
「そうだね。これが、ベンツだよ。ゆきさんちはお金持ちらしいから……何台も高級車があると思う」
「そりゃそうよ、老舗の大手さんだもの。パパにも名刺を見せないと───びっくりするわよ、きっと」
名刺に書かれた会社名は、ボクの知らない名前だけれど、ママの顔色から察すれば、誰もが知る会社であるのに違いない。
「ガクちゃん、しっかり楽しんできてねぇ。広瀬さん、よろしくね」
「はい」
ボクがベンツに乗り込む時の、ママの顔。綻んだあの顔を、ボクは一生忘れないだろう。財力って怖いな……と、ボクは思った。
「広瀬さん。喫茶グリムって、どこにあるの?」
「二十分」
まったく答えになっていない。それからは、永遠とも思える沈黙が続く……。車内は、終始無言だ。
静寂の中で、ボクは津島君との会話を思い出す。
「黄瀬君、僕には無理だよ。広瀬さんは美人だけれど、あの沈黙には耐えられない。なんだか責められているようで。僕は……生まれて、すみません……そんな気持ちにさせられた。黄瀬君、広瀬さんはヤバいよ……気を付けて」
広瀬さんとのデートに失敗した、津島君からの助言である。その嘆きにも似た言葉の意味が、今のボクにはよく分かる。この沈黙は……拷問だ。
「ここ」
ようやく、広瀬さんが口を開いた。それだけで救われた気持ちにボクはなる。
小さな喫茶店の扉を開くと、カランカランとベルが鳴った。すると、聞き慣れた甲高い声が、ボクに向かって飛んできた。
「きいちゃん。こっち、こっち。私の隣が、きいちゃんの席だお~!」
飛川さんが、ボクに向かって手を振っている。飛川さんの前には、ゾ……双璧のゆきさんが、ステキな笑顔を振りまいている。
なぜだか、テーブルの上に二枚のタブレットが置いてあるのだが。もしや……タブレットで注文するシステムだろうか? こんな小さなお店でぇ?
飛川さんに呼ばれるがまま、ボクは彼女の隣に着席する。店内を見渡せば、カウンターの中で飛川先生が働いている。
「飛川さん。カウンターの中で、先生は何をしてるのでしょう?」
「あ、サヨちゃんね。今日は、喫茶グリムでバイトしているの」
作家先生がバイトですと? あり得ない……ボクの脳内で、悲しい憶測が渦巻いた。
「飛川さんに、こんなことをお尋ねするのは、ボクとしても大変心苦しいのですが……先生のご家族に、大病を患っている方がいらっしゃるのでしょうか……?」
すると、ゆきさんが大声で笑い始めた。
「違うわよぉ~、ドラマじゃないもの。でも、そんな考え方もあるのねぇ~」
ゆきさんは、セーラー服の上に薄いピンク色のパーカーを羽織っている。大学生なのに、妙にセーラー服がよく似合う。
にしても……先生は黒、先生の隣の女性は白。飛川さんはピンク、広瀬さんもちゃっかり赤いパーカーを羽織っている。背中には、謎の秘密結社〝放課後クラブ〟のプリントがあるのだろう。
「みなさん、揃いましたね」
コロコロとした丸い声。な……なんだ? この美人さんは! ボクたちの席にケーキを運ぶ、白いパーカーを羽織った女性の顔立ちが、軽々と広瀬さんの美貌を超えている。
ボクは思う───この人を野放しにしてはいけないと。時代が時代なら、一国が傾くぞ……とも。
「黄瀬さん、初めまして。わたし、早川花音と申します」
「は、初めまして……黄瀬学公と申します」
まだあげそめし前髪の───島崎藤村の詩が浮かぶ。得体の知れない感覚に、ボクはしばしたゆとうた……。
「黄瀬さんは、ツクヨちゃんのボーイフレンドさんですね。ふふふ……」
違う! 断じて違う! 飛川さんは、友だちだ。
彼女の笑顔が眩しくて、その輝きに目がくらむ。キュっと心臓が音を立て、ボクは初めて恋をした。この人は天使だ。ボクと結婚してください! 心で念じるボクである。
「のんちゃんは、サヨちゃんの彼女だお」
うぉぉぉうぉぉ……ぉぉぉぉ!!!!
それ今、言う? なんで、言った?
ボクの初恋が一瞬で、飛川さんに打ち砕かれた。屈託のない、飛川さんの笑顔が悪魔のようだ。
「どうしたぁ? きいちゃん。元気ないね。お腹でも痛い?」
お前が言うな!
「特製、バースデーケーキで~す。朝から、三縁さんと作りました」
ボクたちが囲むテーブルの真ん中へ、丁寧にホールケーキを置く早川さん。麗しの指先が、ロウソク一本一本に火を灯す……。
すると、ふたつのタブレットの中から声がした。ゆきさんが、タブレットを立てると、そこには桜木さんと……あなたさまは、どちらさま?
「黄瀬君、お・は・つー。私、近藤アケミ。よろしくねん♡ 今日、君を迎えに来た運転手さんは、私の叔父さんだよ。イケメンだったでしょ?」
「は、はい。とても、紳士な方でした……えっと、初めまして。黄瀬学公です」
口ぶりから察すれば、とても軽そうな性格だ……。
「アケミちゃんは女子大生で、BLの同人界隈では、とても有名な作家さんなんだよ。私が表紙絵を描いているの」
軽々しくBLを口にする飛川さん。知人を紹介する声が、とても楽しそうで何よりだ。
BLとは……〝仮面の告白〟チックな何かなのだろう、たぶん。
画面のふたりをよく見れば、桜木さんは青色で、近藤さんはオレンジ色のパーカーを着ている。そういえば……
「ボク、ゆきさんの苗字を知らないのですが? 運転手さんの名刺には、二階堂グループって書いてありましたけど」
念のための確認である。
「あ、ごめんね。わたしのフルネームは、二階堂ゆきちゃんです」
〝二階堂〟のその響き。何度聞いても強そうだ。
「それでは三縁さん、お願いします」
早川さんが先生に目配せすると、誕生日のメロディーが流れ始めた。
「「「ハピバースデー、ツーユー……」」」
こんなのやるんだぁ~、実際。
みんなが歌い始めると、一般のお客さんまでもが歌い始めた。なかんずく、キツネ目の女性の歌声が、まるでオペラ歌手のような声量だ。歌い上げるって感じである。隣のたぬき顔で眼鏡の女性は、まがうことなき音痴だった。
「時は来たれり」
それは、漁港で飛川さんが発した言葉。そっか、そっか。早川さんの受け売りなのか。
「さぁ。おふたりで、ロウソクの火を消してください」
早川さん、やっぱり好きです。
「待って、願い事、願い事」
胸の前で手を合わせ、祈りを捧げる飛川さん。
大人になったら、いつでも思い出せるよう、この光景を瞳の奥に焼きつける。もう、二度とないであろう。家族以外の誰かと祝う、ボクの誕生パーティの光景を。
「じゃ、きいちゃん。火を消そう」
ロウソクに向かって、ふたりで息を吹きかける。ロウソクの炎が消えると、店内が歓声と拍手に包まれた。ボクにとって、非現実だった光景が、現実になった瞬間である───もしかして……VR? 現実を受け入れられないボクである。疑心暗鬼で頬をつねると、痛いだけだ。
「ねぇ、ツクヨちゃん。何をお願いしたの」
ゆきさんは、飛川さんの願い事に興味津々のようである。
「もうすぐ、叶うよ」
自信たっぷりな顔つきで、予言者のように答える飛川さん。すると、カランカランと扉のベルが鳴り響く。
「遅れてすまねぇ~、ツクヨっち!」
カーキー色のパーカー巨人が、店内へ飛び込んだ。巨人に向かって、ふにゃりとした笑顔を見せる飛川さん。もしや、この巨人がっ!
「わたしの、オッツーぅ」
やっぱり。
戦地から生還した恋人を、出迎える乙女のように、巨人を目がけて小さな体が宙を舞う。すると店内が、さらなる拍手に包まれた。
なんだこれ?
こんなのラノベの世界じゃないか。その光景を、現実だと受け止め切れないボクがいた。
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