白い本棚

ブログ王スピンオフ
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───今日、本日。

 十二月一日(日)は、早川花音はやかわかのんの十九回目の誕生日である。朝早くから、放課後クラブのメンバーたちが、俺の家に集結し、さながら文化祭前夜のような騒ぎになっていた───もちろん、お誕生会の準備である。

「おはよう、ツクヨっち。早起きして偉いぞっ!」

「わたしのオッツーが来ましたわよぉ~!」

 モーニング・オッツーを見るや否や、ツクヨのうれしさ爆発だ。その隣でゴシゴシと、忍がしきりに目を擦る。黙っちゃいるが、忍はとても眠そうだ。そんな忍に、俺は感謝の気持ちを言葉にした。

「忍ちゃん。のんのために、朝早くからありがとな」

「……お前もな」

 俺に対する忍の塩対応は、二十四時間変わらない。偶にはニッコリ笑ってほしい……。とはいえ、張り切っているのがもうひとり。

「じゃ~ん! メイドさんのお出ましよ」

 上京したアケミに代わって、誕生会を仕切るゆきである。スカートの端っこをちょこっと持って、ゆきが華麗にお辞儀する。ゆきがまとうメイド服は、アニメキャラのじゃなくてガチなやつ。知り合いのプロのメイドさんから借りたそうだ。メイド姿で、のんのお世話に徹するという。

「ゆきちゃん、おは……ぉぉぉお! メイドさん!」

 ピチピチギャルのメイド姿に、オトンの鼻の下が伸びたのは言うまでもない───。

 新人賞受賞式の直後。俺は密かに、のんにデートを申し込んでいたのだが、隠密行動が仇となる。それを知らないゆきとアケミが、これもまた秘密裏に、のんの誕生会を計画し、ゆきから案内メールが送信された。その題名は───続、時は来たれり。

「せっかくのご好意ですから……お断りするのも心苦しいですね……動物園、どうしましょう? ホワイトタイガーさん、月曜日でも見られるでしょうか? カワウソさんの握手会も……」

 日曜日。俺たちは、ふたりで動物園へ行く予定だった。思えば去年、シロクマと会うために夜の動物園へ行ったのだ。こっちの動物園は、あっちと違って小さいけれど、のんなら喜んでくれそうだ。

「スマホで調べてみたけど、しろとり動物。月曜日も営業してるね。大学の講義、俺はブッチしちゃうけど。のんの予定は? 月曜日、空いてる?」

「はい。月曜日、午後からの講義は、休講ですから大丈夫です。ホワイトタイガーさんとカワウソさん、楽しみです。よかったら、お弁当の準備しますね」

 のんの手作りお弁当だって! あんなかな? こんなかな? のんが作る料理なら、たとえそれが、おむすび一個だとしても。四つ星シェフのフルコースよりも、その価値は───チョモランマよりも遥かに高いっす!

「ありがとう。楽しみにするね」

 弾む気持ちをグッと抑えて、そう答えるのに精一杯な俺であった。

 つーことで、俺たちはデートを一日ずらした。慣れない土地で、のんが初めて迎える誕生日である。俺としても、みんなで賑やかにお祝いしたい。みんなが彼女を受け入れてくれた。それがとてもうれしかったのだが……おーい、ゆきさん! これは、いくらなんでも、やりすぎなんじゃねーの? 八畳しかないリビングに、巨大なモニタが設置されている。いつの間に、こいつを部屋の中へ入れたのか?……謎である。

「おい。俺んちは、お前んちと違うんだよ! 規模ってもんがあるだろ? 限度ってもんがっ!───で、俺んちのコタツは、何処行った?」

 ゆきをまくし立てると、売り言葉に買い言葉───

「何言ってのよ。アケミちゃんと桜木君を、大画面で見たいでしょ! コタツは倉庫に片づけたわよ。サヨちゃんパパとママの了解済みよ。サヨちゃんは、やるべきことをやりなさい!」

 呆気に取られてモニタを見つめる俺を、ゆきが遊ばせるはずもなく

「サヨちゃんは、おうどんでしょ? 早く、こさえてくださいな!」

 いつになく、テキパキ働くゆきである。アケミの分まで頑張るつもり満々だ。

「へいへい。お嬢さまの、仰せのままに……」

 ゆきとオッツー。ツクヨと忍は、会場設営の担当だ。バースデーケーキとオードブルは、ゆきが手配をしているそうだ。きっと、規格外の料理がテーブルの上に並ぶのだろう……。いつもそう、いつだってそう。金持ちのやることに、俺の想像が追い付かない。のんにだって、好き嫌いがあるだろう。事前に俺は、のんにリクエストを訊いていた。

「のん。お誕生会に、なんか食べたいものとかある? 取り仕切るのはゆきだから、贅沢できるよ」

 のんは、ニッコリ笑ったその後で、モジモジとつむじを見せた。

「もし……よかったら……三縁さんの……お……おうどんが食べたいなぁ~って……無理ですよねぇ……ごめんなさい。夏のそーめん。おいしかったの……だから……」

 それにつけても、のんは可愛い。

「そんなもので、よかったら……でも、そんなんで、いいの?」

「三縁さんが作った、おうどんが……い」

───なんて、いい子だ!

 つーことで。俺は昨晩、うどん団子を準備した。いつもの小麦粉は〝雀(すずめ)〟だけれど、今回は特別に、ゲンちゃんおススメの〝チャンピオン〟である。国産小麦粉は希少だから、素人の俺の手には入らない。事情を話してゲンちゃんに、粉を分けてもらったのだ。この粉で作ったうどんは、味もコシも異次元だ。のんは口が小さいから、麺は細めに切るとしよう。

 一晩寝かせたうどん団子を、粉を振りながら麺棒で伸ばし、折りたたんでから、包丁を入れる。今回は、手打ちじゃなくて、手織りうどん。見てくれよ、麺の肌艶。もう、俺。うどん屋になろっかな? 我ながら上出来、上出来。後は、麺を湯がくだけ───完璧だ。俺が、うどん屋気取りで腕組みしていると、オトンが俺に声をかけた。

「じゃ。後は、若い者だけで楽しくやりなさい。年寄りは、退散、退散……」

 それ、知ってんぞ! 昭和の見合いのセリフだろ? にしても……オトンが、嫌がるオカンの手を引いている。オカンは腰を落として、断固拒否の姿勢を取り、すがるような目で俺を見るのだが、ふたりで行くとこあるのかね? じいちゃんちか? じいちゃんちなんだな!

「ふたりして、何処へ行くんな? じいちゃんち?」

 俺が訊くと、その答えは意外だった。

「決まっとろうが、夫婦仲良くデートやろうが!」

 デートだと? オカンは必死で抵抗するが、オトンは構わず手を引いた。このふたり、仲がいいのか、悪いのか……。

「美人ちゃんに、あいさつだけでもぉ! これが、息子の最後のチャンスかもしれないのぉ! ラストチャ……」

 ツクヨのような抵抗も虚しく、オトンの手によって、オカンは家の外へと放り出された。玄関の向こうから「どんだけぇ~!」と、オカンの絶叫が微かに聞こえた。仲良きことは美しきことかな? ちなみにアヤ姉は、日曜出勤で朝から出掛けた。

 ほっと一息つきながら、俺はコーヒーカップに手を伸ばす。中学から使ってる、ニコニコ笑った猫絵柄のコーヒーカップだ。すると、ゆきから新たな指示が出た───今日のゆきは、人使いが荒いのな……。

「サヨちゃん。終わったの? できたのね?」

「後は、うどんを茹でるだけだ……が?」

「じゃ、のんちゃんのマンションまでお迎え頼むわ。家の前にベンツが止まっているから。運転手さんに事情も伝えてあるから。それに乗って行きなさい。こっちは任せて、お姫さまのお迎えに行っちゃって」

 ベンツでのんを迎えに行くの? どんだけぇ~! そう思いながらも、俺はベンツの後部座席に乗り込んだ。

「飛川さま。出発しても、よろしいでしょうか?」

「はい。よろしくお願いします」

 滅多に乗らない高級車のシートは、さながらベッドのような感触だ。俺なら、このシートで寝泊まりできる。にしても……なんか気まずい。シュッとした、執事のような運転手さんが、終始無言でハンドルを握る。男ふたり、静かな車内で沈黙の二十分……それが、まるで拷問のようだった。ようやく、のんのマンションに到着すると、運転手さんが俺に言う。

「飛川さま、到着しました」

 ベンツの窓から外を見れば、のんがマンションの前で、俺の到着を待っていた。いつものように、俺が電車で来ると思っているのだろう。ベンツの俺には気づかない。ふわっとした純白のセーターに、ゆったりとした白いロングパンツ。頭には白いニット帽。小さな口が忙しく、クチャクチャと動いている……ガムを噛んでいるのだろうか? 白い天使のお迎えに、俺の目が奪われた……。のんの周りだけが眩しく見えた。そう見えたのは、俺だけではなかったようだ。

「神々しい……」

 運転手さんから、溜息にも似た声が漏れた……。

 ベンツから降り、マンションを仰ぐと、数人の女性の姿が見えた。その中に、キツネとタヌキの姿もあった。日曜日なのにご苦労なこった。親衛隊の監視体制には、執念すら感じられる。三階の通路から、メッチャ俺を睨んでいる。ここは無視が得策だ。

「ごめんね、待った? 寒くない?」

 ドラマなら、彼女の手を握るシーンだ……。

「全然です。待つ時間も……楽しいし……」

 そう言って、のんは頬をピンクに染めた。それはとても可愛らしいのだが、俺は急に怖くなった。軽く膝まで震えている。だって、そうだろ? 今日、俺はのんに告ると決めている。夏休み、ゆいにもそう宣言した。だがしかし、俺とのんとでは月とスッポン……勝利の確率、残念ながらゼロパーセント。

「わたし……三縁さんの文章が好きなだけで……ブログと小説のファンなだけで……お付き合いとか……そういうのは……ごめんなさい」

 この可能性、かなり大! その思考が働くと、心が漆黒の沼へと引きずり込まれる。でも、プレゼントだけでも渡したい。そこからは、緊張の連続だった。家まで走る車の中で、のんと何かを話したけれど、その内容を覚えていない……。俺の闇を知ってか知らずか。ベンツから降りる俺に、運転手さんが小さく親指を立てて微笑むと、俺は小さく頷いた。そう、時は来たれり。これからが本番なのだ。

「のんちゃん、来たでぇ!」

 俺が玄関から、みんなを呼ぶと───

「のんちゃん。お誕生日、おめでとう!」

「おめでとう……花音さん。今日の服……ステキ」

 ツクヨと忍が飛んできた。その躍動感は、さながらゴムまりのようである、若い!

「ツクヨちゃん、忍ちゃん。ありがとうございます」

 のんの顔は、絵文字のようにニコニコだ。

「準備オッケーよ、サヨちゃん、早く。のんちゃんも、上がって、上がって」

 ゆきの声にリビングに入ると、そこはホテルのバイキング。テーブルの上がご馳走で溢れていた。大きなイチゴケーキには〝おたんじょうびおめでとう! のんちゃん〟と、チョコレートで書いてある。十九本のロウソクは、色とりどりの虹色だ。

「わぁ……ザ・ホテル」

 のんの口から声が漏れた。その後で……

「あ、ありがとうございます。こんなにしてもらって、とても……とても、うれしいです」

 さっきより、少し大きな声でのんが言った。すると、ハッピーバースデー・ツー・ユー♪ の大合唱。誕生会の幕開けだ。

「のんちゃん。お誕生日、おめでとう」

 巨大画面の中から、アケミが手を振っている。オッツーが、歌いながらロウソクに火をともす。

「お願いごと、お願いごと」

 手を叩きながらツクヨが言うと、のんは、胸の前で両手を組んで目を閉じた……。そして……ふ~っと。十九本の火を消した。のんは何を願ったのだろう。それを、ツクヨが激しく訊いている。けれど、のんはそれには答えなかった。いい感じの誕生会だが、大切なメンバーがひとり、足らんじゃないか! 

「桜木は?」

 俺がみんなに尋ねると、ケーキを切り分けながら、ゆきが答えた。

「サヨちゃんが、のんちゃんを迎えに出てすぐ。桜木君から、少し遅れるって連絡があったの。今、何かの実験をしていてね、スマホの利用はダメみたい。桜木君のことだから、きっと、すごい研究をしているのよ。だから、のんちゃんも少し待ってね」

「もちろんです」

 のんは笑って、頷いた。

「じゃ、サヨちゃん。うどんの準備に取りかかりなさい」

 ゆきがキッチンを指さした。

「そうだった、そうだった。二十分ほどお待ちあれ」

 俺がキッチンヘ向かおうとすると、のんが小さく手を上げた。

「じゃ、わたしも手伝います」

 のんが腕まくりした途端、忍の目がギラりと光る。

「何度も言わすな。コイツのうどん、貴重。今日、花音さんはお客さま。それに、きれいな服が汚れる。だから、コイツの手伝いは、忍がやる」

 それは、忍なりの気遣いだろう。負けじとツクヨも口を開く。

「ツクヨも忍ちゃんと、お手つだいするぅぅぅ! 高齢者のみなさまは、今しばらく、ご歓談ください」

 そんなセリフ、どこで覚えた? ツクヨの〝高齢者〟に、ゆきの顔色が秒で変わった。

「ツクヨちゃん。それは、どういう意味かしら?」

───ヤバい! 小五コンビを引っ張って、キッチンへとエスケープし、俺はたらいうどんの準備を始めた。たらいうどんの中身は釜揚げうどんだ。大きなたらいの中に麺を入れただけなのに、初見の民は必ず驚く。俺の狙いはそこだった。

 大鍋でお湯を沸かして、麺を入れて十二分。そのまま、うどん専用の〝木のたらい〟に、うどんを入れるだけ。小五コンビには、つけ出汁の配膳を頼もう。ついでに、たらいを置くスペースも確保してもらわないと……。

 そう考えていると、倉庫で眠っていたテーブルを、オッツーが引っ張り出していた……やるじゃん、相棒。

「食いねぇ、食いねぇ、麺、食いねぇ!」

 ツクヨがみんなに箸を配る。忍は薬味を運んでいる。その後で、たらいうどんをテーブルに置くと

「うわぁ~。すごいです、すごいです! 大きなたらいです! これが釜上げうどんですか?」

 ふわぁ~っと、のんの黒目が大きくなった。その場にいる誰しもが、うどんを食べるのんの動向に注目し、その感想に期待を寄せた。それは、うどん王国。讃岐人の習性である。

「おいしいです。なんかねぇ~。口の中で小麦の味がふわぁ~と広がって、麺が喉を滑るって感じがします。いつもの、おうどんと少し違いますね……なんででしょう? いい意味で、ぬめっとした感じ……かな?」

 俺のレクチャーを差しおいて、のんの問いに忍が答えた。

「これは、釜上げ。麺を水で洗わずに、そのまま食べる。だから、麺にぬめりが残る。讃岐のツウは、これを好む。でも、割高で待ち時間も長い。そして、今日の麺は粉が違う。こいつのいつもは雀を(すずめ)使う。でもこれは、チャンピオンの弾力。しかも、北海道産。お前、奮発したな?」

 なぁ、忍。お前の父ちゃん、うどん屋だっけ? すべてが、忍のお見立てどおり。俺は、深く頷いた。

「忍ちゃんは、すごいですね」

「そう……でもない……讃岐の常識」

 のんが言うと、忍は満更でもない笑顔を見せた。それは決して、俺に見せない笑顔だった……なんか寂しい。賑やかな昼食も、あっという間に終わりをみせる。じゃぁ、これからは、いつものようにダラダラタイムだ。パーティゲーム定番の大富豪でもやりますか? そんな俺の思惑とは別に、ゆきが俺に指示を出す。でもそれは、気遣いなのだと信じたい。

「じゃ、わたしたちで片づけしとくから。おふたりさんは、二階へ上がって。ふたりきりにしてあげるから。ほら、サヨちゃん。とっておきのプレゼント、のんちゃんにあるんでしょ? 早く渡してあげなよ。じゃぁ、みんな。二次会の準備するよぉ!」

 二次会とか……あるんですか? 戸惑う俺に、ツクヨが言う。

「サヨちゃん。桜木君が画面に出たら、ツクヨが真っ先に教えてあげるからね」

「そうだなツクヨ、すぐにだぞ」

「分かった! ビュンって、二階に駆け上るね」

 ツクヨとかたい握手を交わし、俺とのんは二階へ上がった。

「狭いけど、どうぞ」

 俺が部屋のドアを開くと、のんは俺の部屋を見渡した。のんの瞳が、部屋の隅々までメッチャ見てる。何かを探している雰囲気だった。

「ここで、ブログ王が生まれたんですね。あのぉ……ポメラは?」

───のんは、ポメラを探していたのか? 俺は、正面の机を指さした。

「ポメラは、ここだよ。てか、いつもグリムで見てるでしょ?」

「うん。でも……ここで、見たいの……ごめんなさい」

 机の一番上の引き出しを開いて、中のポメラをのんに見せた。超人気ラノベ作家、旅乃琴里たびのことりから引き継いで、俺が使い込んだポメラはボロボロだった。

「ポメラに触っても、いいですか?」

「どうぞ、どうぞ」

 のんは机の前の椅子に腰を下ろして、ポメラの天板を優しく撫でた。そして、ゆっくりとポメラを開くと……懐かしげにポメラを眺めている……どうした?

「……キー、叩いてもいいですか?」

「うん、いいけど?」

 ポメラの鍵盤に指を乗せて、のんが指を踊らせた。てか、のんのタイピングは高速だ……いや、光速だった。三分間ほど入力をすると、のんは打った文字をすべて消した……何がしたかった……の?

「こんなに大切に使ってもらえて……こんなになるまで、三縁さんを手伝ってくれて……キーの文字が擦り切れるまで……ありがとねぇ……よかった。あの時、勇気を出して……よかった」

 のんは感無量な顔で囁いた。のんの言動は謎だけれど、小説を渡すチャンスは今だ。

「これ、誕生日プレゼント……受け取ってもらえるかな?」

 去年のクリスマス。のんへのプレゼントは、俺が初めて書いた小説だった。その小説をもとにして、ブラッシュアップを積み重ね、新人賞を受賞した。そして、いよいよ書店に並ぶカタチになった。帯コメントを書いたのは旅乃琴里である。青葉さんの話では、旅乃琴里から帯コメントの申し出があったという。それは異例中の異例だそうだ。帯に旅乃琴里の名があるだけで、一気に売り上げが伸びるという。少女のカリスマ、旅乃琴里の人気は計り知れない。

「ふぁぁ……わたしに?」

 のんの顔から笑顔が溢れ、とろけそうな目で本を見ている。

「本のデザイン、真っ白に金の文字ですね。今は、色鮮やかなデザインが主流ですから、書店の棚に並ぶと目立ちますね」

 のんは、青葉さんと同じ感想を述べた。不思議なことに、帯の話題には触れなかった……。

「うん、処女作だから……白かなって? 青葉さんも、それがいいって……まさか、表紙のデザインにまで、俺に相談があるとは思わなかったよ……」

 それは嘘だ。ふと頭に浮かんだ、のんのウエディングドレス姿がイメージ元だ。でも、それは……恥ずかしくて、とてもじゃないが、言えやしない。

「すごいです、すごいです、すごいです……いただいても、いいの? なんかねぇ……」

「どうしたの?」

「あのねぇ……サインしてください!」

 伏目がちに俺に言う。

「……え?」

 それ、シミュレーションでやってない! どうしよう、どうすれば? 俺の背中に汗が流れる。

「……サインってどうすれば?」

 俺が本を手渡すと、のんはパラパラとページをめくった。

「〝飛川三縁〟と……ここにお願いします───『無期限パスを手に入れて、君は銀河鉄道の旅の中。数多あまたの銀河を駆け抜けて、旅の途中で出逢えたら……君に訊きたいことがある。なぁ、楽しんでくれたかい?』ここ、ここです! 去年、キュンキュンしながら読みました。読みながら、楽しかったです……って、言っちゃった。」

 のんが開いたページに俺が、自分の名前をペンで書く。それが、なんだか不思議な感覚だ。胸で両手を合わせて祈るように、のんが俺のペン先を見つめている。こんなことなら、ペン習字の練習しときゃよかったな……恥ずかしい。

「これで、いいのかな? 下手な字でごめんね……」

「これがいいです! ありがとうございます、飛川先生」

 俺が本を手渡すと、のんは満面の笑みを浮かべて、夢中で本を開いている。そのあまりの可愛さに、俺は我慢ができなくなった。そっと小さな肩に手を添えると、のんが俺の顔を見た───時は……来たれり……。

「よかったら、お……俺と……付き合って……くれます……か? 彼……彼女になっ……てくれますか?」

 想像と現実は、こうも勝手が違うのか? それを口にしただけで、俺の顔は真っ赤に染まり、小刻みに全身が震えた。不器用でポンコツな告白だった。のんは、しばらく黙っていた……。身の程知らずの言葉が浮かぶ。そうだよなぁ……俺だもの……。明日のデートは……ボツかもなぁ……。俺は、のんの返事をじっと待つ。

「ずっと……中学の時から待っていました……。わたしで……い?」

 のんが小声で、俺に訊く。

「のんが、いい」

 俺の返事に、のんが椅子から立ち上がった。何かを決した表情だ。

「わたしも言います。三縁さん、わたしの彼氏になってください!」

 え?……えーーー!!!

 落ち着け、落ち着け、落ち着こう……取りあえず、今は鼻血が抜けそうだ……我に返って、我思う。ここから先がノープラン。もう、どうしましょう? 俺は自然に任せて、のんの肩に腕を回した。ゆっくりと、のんに顔を近づける……。脳内で、何度も練習したはずなのに……やっべ、死ぬかも? 長いまつ毛に縁どられた、大きな瞳に吸い込まれそうだが……その瞳が瞬きもせず、俺の顔をメッチャ見ている。実に気まずい……。

「ご、ごめんね……目。つぶってくれるかな?」

「あ、ごめんなさい……キスというの……知らなくて……」

 そう言うと、のんはゆっくりと目を閉じた。三縁、行きまーす! 後、三センチ、二センチ、一センチ……俺の心臓は爆発寸前……もうちょっと! ゴールは近い。あゝ神よ、幸せをありがとう。生まれたことに感謝します───その時だ!

───ガシャ!!!

 俺の部屋のドアが大きく開いた。その音に、俺たちはビクっとした。

「サヨちゃん! 桜木く……がわぁぁぁ」

 ツクヨの甲高い声が耳を襲う。まさか、このタイミングで───なんでなん!

 俺たちを目撃したツクヨの動きがピタリと止まった。幽霊でも見たような顔で、両手を口に当てている……そして、一歩、二歩、三歩……音も立てずにゆっくりと、ドアからツクヨの姿が消えてゆく。俺とのんはツクヨが消えたドアを見つめ、静かに動向をうかがうと、ドアの向こうで声がした。

「チ、チュゥだっ……」

 小声でそう言い残すと、脱兎の如くツクヨが階段を駆け下りた。その直後である。「キャー!」とか「うっそぉぉぉー!」だとか。ゆきとアケミの絶叫が、階段を伝って駆け抜けた。きっとツクヨは、尾びれ背びれをくっ付けて、目撃談を語っているのだろう。いつも冷静な桜木までもが「それは、本当の話ですか!」と、ここまで響く声をあげた。

「しばらく、降りられないね……桜木の声が聞こえるけど……」

 俺の左肩に、のんが小さな顔を寄せた。

「そう……ですね……。マコちゃん、あんなに大きな声が出せたんですね……知りませんでした」

「……俺も」

 のんは子猫のように、俺を見上げて微笑んだ。なんだか急に可笑しくなって、俺たちは笑い合い、自然に唇を重ねていた。のんの柔らかい唇は、ほのかにイチゴの味がした。

 ロマンチックとは程遠い、短くて長いキスの後。

「ロウソクに何をお願いしたの?」

「なんかねぇ。たった今……叶っちゃいました……」

 のんの瞳が海の水面のように輝いて、ひと筋の涙が零れ落ちた。ふたつの弾む心音が、ハーモニーを奏でる足元で、リビングがいつまでも揺れていた……。

☆☆☆☆☆

───数日後。

 俺は、マンションの前にいた。

「三縁さんに、見せたいものがあるんです……よかったら、わたしのお部屋に来てくれませんか?」

 そう、花音に言われたからだ。

「よう、飛川三縁ひかわさよりぃ。待ってたよぉ~」

 マンションの前で腕組みしながら、キツネ先輩が立っている。あの夜と変わらぬ、気だるい雰囲気満載に、俺は咄嗟に身構えた。

「お久しぶりです。今日は、花音かのんに呼ばれてきました」

「へぇ~。花音、ねぇ……」

 のんと唇を重ねた日。のんからひとつの希望があった。

「三縁さん。これからは、名前で呼んでくれますか? なんねぇ~、彼女だから……よかったら、ごめんなさい……」

「じゃ、俺からも。これからは、俺に対して『よかったら』と『ごめんなさい』は……なしということで、いっかな?」

「はい」

 それから俺は、のんを花音と呼んでいる。

「あの子さぁ~あ。なんちゃらクラブのお誕生会つーの? あれからさぁ……変わったんだよねぇ~。それまでは、無垢な少女だったのにさぁ、女の色香が出ちゃってさぁ。飛川くぅーん、アンタさぁ。キスのひとつもしたんだろ? 所詮、男と女だ。それはとがめないよ。てか、昨日は大変だったよぉ。本棚を作るの手伝ってさぁ……あ、ひこうき雲だ!」

 キツネ先輩の意識が空へ飛んだ。見事な白い一直線が、水色の空に浮かんでいる。

「あの子ねぇ~え。たまぁ~にさ。空に向かって、指で何かを書いてんだわ。何を書いてんだか、分かんねぇ~けどぉ……。でさ、お盆だったか? アンタが新人賞を取ったってねぇ。ニコニコしながら、空に向かってなんか書いてた。あの日も空に、こんなひこうき雲があったんだ……。あんなに幸せそうな顔。アンタにしかできないね。悔しいけどさぁ~あ……あー! なんかさぁ、腹立ってきたぁ……」

 キツネ先輩の指先がゆっくりと、ひこうき雲をなぞっている。お盆と言えば、ゆいも同じような話をしてたっけ……。キツネ先輩が、俺の顔を覗き込む。何かを思い出したようである。

「そうだった、そうだった。花音から伝言があったんだ。部屋の鍵を開けているから、中で待ってろってさぁ……。グリムでさぁ~あ、コーヒー豆。もらってくるんだってぇ~。このマンションって、オートロックじゃん。だから、アンタが来るのを待ってたんだ……じゃ、開けようか」

 それを先に言え!

 キツネ先輩が気だるそうに、頭をボリボリ掻きながら、オートロックを解除した。あたしの後ろをついてきな! とばかりに、無言でエレベーターへ向かって歩き出す。エレベーターの中でも、キツネ先輩は終始無言だ……なんか、気まずい。キツネ先輩と花音の部屋とは隣同士である。花音の部屋のドアノブに、俺が手を掛けると

「飛川くぅーん。どうして、花音が本棚を買ったのか? よーく、その意味を考えるんだね。あの子はさぁ、そんなに簡単じゃないよぉ~。これからが……大変だ。まぁ、しっかり、がんばんな。あの子を泣かしたら、殺すからぁ~」

 長い髪をかき分けて、キツネ先輩がそう言った。これまでとは違って、彼女の表情はやわらいでいた。

「分かりました」

 俺は軽く頭を下げた。

「あぁ? いい顔になったじゃないかぁ~。ネットでアンタの本も買うからさぁ~あ。今度来たら、サイン書いてねぇ~。じゃぁ~ねぇ~」

「ありがとうございます。了解っす!」

 あらためて、俺はドアノブに手を掛ける……すると

「もう一個あったわぁ……忘れてた。年を取ると、物忘れが多くていけねーわぁ……」

 あなたはいったい、幾つだよ?

「来週ねぇ~。花音、里帰りするんだってぇ。彼氏ができたから、パパに報告に帰るんだってさぁ……親父に彼ピの報告だなんて。あたしにゃ、信じられないよぉ~……マジメか?」

 まぁ。そういうところは、花音らしい。キツネ先輩はニヤリと笑い、ようやく自分の部屋に入っていった。俺は、ようやくドアを開く───花音の部屋に入るのは、これで二度目のことである。あの日の部屋と違うのは、ベッドの横に置かれた白い本棚。三段ある本棚の、一番上の棚の中には、のんの願いを叶えたブログ王。そして、花音の夢を叶えたブログ王───二冊の本だけが並んでいた。

 それらの本を手に取ると、カブトムシから始まった。過去の記憶たちが、映画のように動き始めた……小学生の夏休み。俺がブログを書かなければ、花音が俺の存在を知ることもなく、この現実はなかっただろう。俺の小説が読みたいと、花音がおねだりしなければ、この二冊の本は……ここにない。その、どれかひとつでも欠けていたら……それもまた、偶々偶然。それを表す〝邂逅〟の二文字が、ふと……俺の脳裏に浮かんでいた。そのすべてが、遠い昔の出来事のような。つい、昨日のことのような……俺が想い出に浸っていると、のんが部屋に帰ってきた。

「ごめんなさいね、三縁さん。待ちました?」

「いや、全然。さっきまで、隣の先輩と話をしてた。ところで……いいね。白い本棚」

「はい!」

 本を棚に戻しながら微笑むと、誇らしげに花音が答えた。

 冬の夕日に照らされた、ふたつの影がひとつになる。これから俺が書く物語で、この本棚の空き地を埋め尽くそう。のんの温もりを感じながら、俺は密かに胸に誓った───

 のんちゃんのブログ王───第二部(完)

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