この数日、信長は違和感を感じていた。
ずっと誰かに見られているような、何者かに尾行されているような……そんな気がしていた。それがとても気持ち悪い……。それと同じ感覚に家康も、臨戦態勢を取っていた。飼い猫と野良猫とでは、危険予知能力に雲泥の差がある。判断を誤れば、夏の扉どころか地獄の門が開くからだ。感覚を研ぎ澄ませる家康は、ニャルソックにも余念がない……。野良猫とはそういうものだ。家康とは対称的な家猫が、いつものようにやってきた。
「家康ぅ!!!」
海の木陰で釣人を眺める家康に、信長は泣きつくような声をあげた。その声に、軽くギャン泣きが入っている。
「秀吉か……」
「胸で草履を温めるサルとちゃうわ! 信長じゃ!」
家康の変化球をしっかりと捕球する信長である。家康の隣に腰を落とし、信長は神妙な顔をしている。いつもと違う信長の雰囲気に、家康も対応を変えた。
「さっきはすまんかったな……で、どうした? 光秀!」
追い込みだった。
「信長じゃ!」
信長は条件反射でツッコミを入れる。
「そんなことはどうでもええ。家康ぅ! セミが鳴き始めてから、なんや俺。誰かに見られてる気がするんや……これが噂の貞子やろうか?」
目を伏せて、信長が家康に問う。
「ご主人様は、ビデオデッキとか持っとんのか? 貞子つーったら、ビデオから飛び出る世界一不幸な少女やからな。ご愁傷さま……お前とは、短い付き合いだったな」
気の毒そうな目で、家康は信長を見つめた。
「ご主人様は、ビデオデッキなんて持ってないわ。もっぱら、ユーチューブ動画しか見てへんわ。だから、貞子の線は消えたで」
祈るように、信長は貞子説を否定する。
「最近の貞子は、ネット動画からでも呪うって噂やで。VRにも出るらしい。背に腹は代えられないってヤツやろな。なんや、エロいの観ながら逝った兄ちゃんもおるらしい……お気の毒さまおめでとう」
「……お前、いちいち言うことが悪趣味やな」
恐怖に顔を引きつらせる信長に、攻撃の手を緩めない家康である。
ちなみに〝お気の毒さまおめでとう〟とは、ズームイン朝で活躍した植松おさみ(元西日本放送アナウンサー)が、遠い昔に発売したCDのタイトルだ。深夜のテレビCMでも宣伝していた名曲である。つまり、讃岐の高齢者なら誰でも知る歌である。きっと年老いた釣人が、鼻歌交じりに歌っていたのを家康は覚えたのだろう。
「ワシも同じことを思っとった……あの気配は、女やな。ワシは複数人やと睨んでいる……こわいなー、いやだなーって。ワシが視線を感じる方へ目を向けると……」
家康は真顔になり、声のトーンを少し下げた。その口調は稲川淳二そのものだ。大きな目を見開いて、信長に話しかける。
「それで、それで───」
仲間を得た信長はうれしそうだ。信長は、恋する乙女の顔で家康を見つめた。これぞまさしく吊り橋効果。オス同士の年の離れたカップル誕生? 今にも抱き合いそうな雰囲気だ。
「振り返ると、ざざって音がして誰もいないんや。一日の間に、同じようなことが何度もあった。でも……不思議なんや」
「なんでや? 家康」
信長が身を乗り出す。
「お日さんが沈むと、その気配が朝まで消えるんや。もののけの類なら、活動時間は夜って決まってんのに。そんなの、元禄の昔からの常識やで……それとはちゃうんや」
そう言うと、家康は目を細めてギラギラと輝く太陽を見る。
「俺は日が沈むと家に帰るからな。それで、いつも見られるような気がしてたんか……ってことは……お化けじゃないと?」
脱走は、日中が基本の信長だった。
「せやで……あれはたぶん人間や」
人間? 確信めいたことを告げる家康の言葉に、信長の顔色がどんどんよくなる。人間なら怖くない! 俺は強い! 人間なんかに絶対負けない! 信長は、家康の推理の続きが待ち切れない。
「で、で、で!」
「あの……ねちゃっとした感覚は女だな。それも、かなり背丈が小さい。機敏に動く小さな人間や。だから、ワシの目を持ってしても確認しづらい。だが、ワシらを狙っているのは確かや───気ぃつけーよ、光秀っ!」
「信長じゃ!」
蝉時雨冷めやらぬ、真夏の午後が過ぎてゆく……。海の木陰で語らう二匹を、背後から見つめる少女たちの姿があった。それは家康の推理が、概ね正解だったことを示唆している。
「順調?」
「バッチリよ、夏休みの自由研究。わたしのオッツーに見てもらうんだ」
「猫の観察日記だっけ?」
「そだお。でもね、最近ビクビクしてるの……猫ちゃんたち。どうしてだろうね?」
お前のせいだ。
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