───明日から八月である。
梅雨が明けてからというもの、海の木陰で家康は夏の暑さをしのいでいた。猫カフェでバイトをしたい気持ちもあるが、老猫にお呼びがかかる場面など稀である。
───平成の猫カフェじゃ、ナンバーワンとうたわれたワシなのにな……年は取りたくないものじゃ。
この数年間、家康は釣人のおこぼれで生計を立てていた。それが、老いた野良猫の末路である。けれど、家康はたくましく生きていた。
───そろそろか……。
堤防で釣りをするふたり組。それに的を絞り込む。竿が引いた瞬間、釣人の横に座っておこぼれを待つ。それが家康のオペレーション梟。
男女の組み合わせなら、高確率で魚を得られる。男が釣った魚をくれるのだ。それは野良猫に対するお情けではなく、女へのアピールだ。〝俺って優しいやろ?〟的な、小賢しいオーラが癪に障るのだが、この時ばかりは愛想を振りまき魚をもらう家康であった……背に腹は代えられない。
今日のふたりは、若い男同士であるけれど、これまで何度も魚をもらった経験があった。つまり、このふたりには期待が持てる。
「サヨっち、今日は調子よさげやな」
大柄の男が小柄な男に話しかける。
「まぁまぁかな……こいつの餌も釣れそうだわ、オッツーは?」
「ぼちぼちでんな(笑)」
今日もビンゴだ。ふたりの会話に、わくわくしながら糸の先を見つめる家康であった。
「おっ、これは猫行きだな」
サヨっちと呼ばれる男が、魚の口から針を抜く。そのまま魚を家康の前に放り投げると、家康はそれをくわえて木陰へ戻った。これで二匹目ゲッとだぜ。もう一匹ほど頂けば、今日はそれで手打ちにしよう。上出来だ。釣り場の祭りは突然始まる。
「サヨっち、仕掛けを変えようや!」
「オッケー、オッツー」
潮目が変わると、ふたりの仕掛けがサビキへと変化した───ひゃっほーい! ビッグウェーブ到来だ。海面では、きっとアジとイワシが群れている。こうしてはいられない。家康は足取りも軽く、ふたりの横まで駆け戻り、ちょこんと座って待機に入る。
「キタキタキター」
入れ食い状態に入ると、竿を上げる度に二、三匹の魚が釣れた。チャンス到来! 今ならバケツの魚を盗んでもバレやしない。バケツの中で泳ぐ魚から、家康はターゲットを絞り込む。
───このデッカイのを頂こう。
ロックオンを完了した家康が、ゆっくりとバケツの中へと手を伸ばす……と。
「あ、キジトラちゃんだっ!」
おかっぱ頭の女児が、家康に向かって突進してきた。家康は思う───こいつと関わるのは厄介だ。早く仕事を終わらせてトンズラしないと……だが、時すでに遅しであった。
「ほら、見てみて(笑)」
家康の鼻先で小さな指が揺れている。どうしてワシはこうなるのか? 頭では拒みながらも、家康はどうしても指に鼻を近づけてしまう。そうしていると、女児のもう片方の手が伸びる。小さな手のひらで、家康の頭は撫で回されてしまうのだ。
「可愛いねぇ、キジトラちゃん」
キャッキャと笑いながら、己の身体を弄る女児に、家康はこう思う……この悪魔めと。悪魔はワシの身体を撫で回しながら、膝の上で抱っこするのだ。このクソ暑いのにも関わらずである。そういうのは、猫カフェでやってこい!
ガブリと噛みつくなり、鋭い爪で引っ掻くなりして、家康には逃亡する手もあった。だがしかし、この悪魔は釣人の連れだ。もしかしたら、どちらかの娘なのかもしれない。つまり、ここで暴れてしまえば、自分のこれからが不利になる。我慢、我慢、ここは堪えて……家康は、明日のために耐えていた。
「家康ぅ~! 何やっとん?」
「お───いいところに来たな、光秀っ!」
「信長じゃ! クソジジイ」
渡りに舟とはこのことだ。家康は咄嗟に信長に向かってデマを流す。
「信長! この悪魔……いや、女の子がちゅーるくれるってよ」
「マジで、マジで!」
信長の目がキラリと光った。
───チョロいなっ!
信長は、女児の足元で自己アピールを開始した。さすがは飼い猫である。媚を売るのが実に上手い。幼女が手を放した隙に、家康はアジをくわえて木陰へ走り去る。許せ、信長! これが野良の生き様だ。
「茶トラちゃん、可愛いねぇ」
「うぉぉぉ! 謀ったな、家康ぅぅぅ!!!!」
女児につかまった猫の末路は想像に難くない……てか、さすがは飼い猫信長である。女児と意気投合している。女児が猫の扱いが上手いのか? それとも、信長が人間のあしらいが上手いのか? ひとりと一匹は楽しげだ。その光景を家康はアジを食べながら眺めていた……。
女児は小さなバケツに魚を入れて、木陰に佇む家康の前に置く。
「お供えものです。キジトラさんも食べてね。あと、バケツは返してね」
そう言うと、女児は両手を合わせて拝み始めた……なんだか、お地蔵さんのような扱いだ。女児の後ろで信長は大きなアジをくわえている。
「おい、それどうすんや?」
家康が信長に訊く。
「これは、ご主人様へのお土産や」
信長は、ご満悦の笑顔である。
「ところで、信長よ」
うれしげな信長に、家康は疑問を投げかけた。
「お前。ここに脱走してきたのなら、そのアジでご主人様に脱走したことがバレると思うのだが? そこら辺は大丈夫なんか?」
信長が、小膝叩いてニッコリ笑う。
「それなぁ~」
家康の言葉に我に返った信長は、くわえたアジを、そっと小さなバケツに入れた。
「家康にお中元です」
そう言い残すと、信長は家に帰っていった。女児は家康の前に座り込んだままである。ひたすら〝可愛いねぇ〟を連発している。さて、これからどうしたものか? 家康が考えていると、ふたり組の小柄な方が、女児に向かって声をかけた。気づけば西の空が赤く染まっている。
「もう帰るぞぉ~! ツクヨぉ!」
「はーい」
彼の一声で、女児は家康の前から姿を消した。家康は記憶した。女児の名前はツクヨであると。そして、父親があの男。
野良猫家康。今日の正解率は、五十パーセントである。
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