魂をガッツリと削られた。太宰の〝人間失格〟に続いて、三島の〝金閣寺〟で道草をしている。どんなに遅読な僕だとて、そろそろ読み終えてよい頃なのに、三分の二の辺りでうろうろしている……おっぱいが金閣寺。その後で、主人公が金閣寺を燃やしちゃると決断した辺りでうろついて、今日もサヨリは元気です(笑) たくさん、夜のご飯も食べました───エラい!
どうにもこうにも先に進めないのは、三島が語彙の魔術師だからだ。悪魔的と言ってもいいほどに、サラリと読み流すのがとても惜しい。美しい音韻の数々が、きっと何処かで使えるはずだ。なので最初から、基本中の基本の勉強法で金閣寺を読み進めた。
気になる言葉をノートに写し、意味を調べて読み返す。これをやってるものだから、時間ばかりが過ぎてゆく。付箋でも貼り付けて、後で調べればよいのかもしれない。けれどこっちは、ファミコン並の脳みそである。三歩あるいて、忘れるのが怖いのだ。覚えているうちにやらないと、余計に時間をロスしてしまう。若い方には不思議だろうけれど、年寄りの記憶力を侮ってはいけない。眼の前に置いた老眼鏡ですら、何時間も探すのだから(汗)
金閣寺の中で、お気に入りの言葉は多々あれど、今のイチオシは〝たゆとうた〟である。漂う、決心できずに迷う、ためらう……などの意味を持つ。人生で初めて見た言葉だけれど、ほれ、なんか……字面と響きがよくないですか? セルフうどんの天ぷらの前で、ツクヨはしばしたゆとうた……なんかこれ、よさげだ(笑)
僕の三島のイメージは、武闘派の筋肉マン。それと、東大900番教室での記録映画。自らを筋肉ゴリラと称した文豪が、書く文章に興味を持ったのが、金閣寺を読み始めたキッカケだった。
光の遍満のうちを金いろの羽を鳴らして飛んできた蜜蜂は、数多い夏菊の花から一つ選んで、その前でしばらくたゆとうた。
新潮文庫 金閣寺 P200より引用
よく分からんけど、なんかいい……。
主人公の友人、柏木が「殺し方が足らんさ」というセリフを吐くのだが、読んでるこっちは、三島に相当やられてっから。おかげで寝不足だし、ノート一冊文字だらけになるし、頭の中がお花畑だし……言葉責めとは、このことだ。下品な罵声や罵倒じゃくて、上品で美しい響きの言葉責め。書く身としては、いばらのように言葉のトゲが胸に刺さって、素通りできぬほどイタいのだ(汗) こっちだって、人生の先なんて見えている。読書なんかしなくても、持ってる言葉で小説は書けるもの。だからドンドン読んで、ガンガン書いて、もっと先に進みたいのだが、この道草も悪くない。遠回りに見えても、近道のように感じているし、それが正解だと確信もしている。
人間は死ぬ。
必ず死ぬのだけれども
今すぐ死ぬわけではないということだ
死ぬには間がある
この間があるということを
決しておろそかにしてはいけない
これは、故上岡龍太郎の言葉である。僕も人生の後半戦。若い頃に、もっと勉強とか読書をすればよかったのに……そう嘆いたとて、時計の針は戻らない。だったら、インスピレーションを信じて、思った時がやる時なんよ。だって残された人生の、今が一番若いから(笑)───たゆとうている場合じゃない。ねぇ、相棒。この使い方で……合ってます?(汗)
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