今日は、六月第三日曜日───全国的に父の日である。
父の日だからって、我が家の夕食はいつもどおりだ。かろうじて、母の日の名残りはあるのだが、父の日はごくありふれた日曜日。けれどツクヨが我が家の一員となった今、状況が少し変わった。ツクヨには父と呼べる存在がいない。それを気遣い、お茶の間をピリピリさせていたのは、俺とオトンだけであった……。
口チャックにテレビまで消して、父の日情報を遮断する。父の日は───ツクヨに禁句だ。
いつものように夕食を始めると、思い出したように、ツクヨがテテテと部屋に戻っていった。条件反射で俺は訊く。
「アヤ姉、ツクヨは?」
トボけた感じでアヤ姉が答える。
「そっか、今日は父の日か……」
父の日……その響きにオトンと俺の箸が止まる。飯の途中でそんなの言うな! いつもそう、いつだってそう。デリケートゾーンにアヤ姉は土足で踏み込む女である。もしかして……アヤ姉は魔女か? 魔女なんだな? 俺はアヤ姉を睨みつけて、そう……言えない。布の服でラスボスに挑む愚行など、俺はしない勇者なのだ。中学生の俺にとって、アヤ姉の存在は恐怖でしかなかった。
「サヨちゃん、どうぞ」
部屋から戻ったツクヨが、つま先立ちで背伸びをしながら、俺に画用紙を差し出している。そっか、これは野菜のイラストなのだろう……畑の天下一武道会シリーズ。新しいお話をツクヨに書いてあげないとな……。
「お、ありがとな」
俺はツクヨの頭を撫でて、有り難く画用紙を受け取った。そこまではよかったのだが……描かれた絵を見て絶句した。そこには、俺の顔が描かれていたのだ。俺の顔の横に〝パパいつもありがとう〟の文字を添えて。なぜだか俺は、嫌な予感を感じた。目に見えぬ……とても悪い予感だった。
───視力、聴覚、嗅覚、味覚……そして、触覚。
人間には五感がある。それに加えて第六感。そのシックスセンスからの警報が止まらない。でも、危険の原因が理解できない。それがとても不気味だった。不安な気持ちを押し殺し、俺はツクヨに話しかける。
「俺、ツクヨのパパなん?」
それは俺の照れ隠し。うれしくないワケじゃない。でも、手放しで喜べない。何かにジッと見られているような、誰かに狙われているような、その感覚が俺を襲う。
「そうよ。サヨちゃんは、いつもおむかえにきてくれるし、いつもいっしょにあそんでくれる」
まぁ、ギャラが発生するからな……。
「ようちえんのおともだちのママだって、サヨちゃんは〝ちいさなパパ〟っていってるよ。だから、ツクヨのパパなの。ツクヨにパパはいないから……うれくないの?」
そこは、うれ〝し〟くないの? だな……。
「そりゃ……まぁ、俺だってうれしいよ」
俺とツクヨの会話に、オカンがエプロンの裾で目頭を押さえている。それは、韓流ドラマを見ながら、偶にオカンがやっている仕草だった。気になるのはオトンの方だ。ビールのピッチがいつもより早い。
「きょうはパパのひだから、きょうだけ……サヨちゃん、パパってよんでもいーい?」
思春期の中学生にも、父性と呼べるものがあるのだろうか? 俺はウンウンとツクヨに向かって頷いていた。その瞬間、俺のニュータイプフラッシュ(ガンダムのあれ)が光る───殺される! なぜだか俺は、そう思った。額に鋭利な刃物を突きつけられているような……。その感覚を辿った先にオトンがいた───オトンが邪悪なオーラを放っている。
恋人の浮気相手を見るような眼光で、オトンが俺を睨んでいるのだ。普段は口数の多いオトンの沈黙に、底しれぬ恐怖を俺は感じた。オトンは静かに二本目のビールに手を伸ばした。それに気づいてくれたのか?
「ツクヨに返事してやりなよ、パーパ。フフフ……」
アヤ姉からの助け舟……になってねぇ! むしろ、火に油を注ぎやがった!
「きょ……今日だけな……へへへへ」
ヤバい、ヤバい、ヤバい……俺はそう答えながらも、頭では別のことを考えていた。孫は目に入れても痛くない。その言葉のまんまのオトンである。その激愛っぷりたるや、息子の俺でも常々思う───どんだけツクヨが好きなんですか? ツクヨを目に入れろと言われたら、オトンは喜んで目の中に入れるだろう。そんなオトンが、ビールを一口飲む度、オトンの喉仏が動く度、ジワジワと俺の恐怖が高まっていく───次のツクヨのひと言が、オトンの血圧を一気に上げた。
「パパぁ。きょうは、パパのおひざのうえで、たべていい? ツクヨのほんとうのパパはね、いつも……おひざのうえで、ごはんたべさせてくれたよ」
さらに、アヤ姉が煽る。
「三縁パパ、そうしてやんな」
アヤ姉は……魔女なんかじゃなかった。悪魔のような女だった。
「じゃ……お言葉に甘えて……はい、どうぞ」
俺がそう言うと、ツクヨは膝の上にチョコンと座った。そして、小さなハンバーグを食べ始めた。ツクヨのつむじを眺めながら俺は思う。膝の上で針のむしろが座っている。もう俺には、夕食の味など分からない。ツクヨの言葉に相槌を打つだけだ。頷きロボット、三縁さんだ。
「ごちそうさま。パパ、おいしかった。バーバ、おちゃください」
ようやくツクヨの食事が終わる。これまでの人生で、こんなに長い夕食を俺は知らない。食事を終えたツクヨがお茶を飲んでいると、アヤ姉がツクヨに向かって質問をする。
「ツクヨちゃ~ん、そこの我が娘。何か忘れ物はありませんかぁ?」
ツクヨは天井を見つめて、しばらく何かを考えていた。
「あっ!」
アヤ姉の声に思い出したのだろう、ツクヨは慌てて部屋に戻る。テテテというよりもドドドであった。膝の上の最強の防御壁を失くした俺は、完全なる無防備になった。ビールを三本目に突入したオトンが、俺に向かって声をかける。それは、これから始まるとばっちりだ。
「おい、三縁」
「はい!」
それは、ドスの利いた声だった。目に見えぬ圧への恐怖に、俺の視線はツクヨの絵へ。なぁ~に……軽い現実逃避さ。てか、オトンの顔が恐ろしかった……。だって俺、ちょっと前まで小学生だから。こんなときの機転が利かない。〝一触即発〟の四文字だけが、俺の脳内を駆け巡る。すると、ドドドドド……部屋から戻ったツクヨの背中に、後光の輝きを俺は見た。救世主、ツクヨ様のご帰還である。ツクヨ様、お前だけが頼りだ。助けてくれたら、後で何か買ってやる!
「ジージ、はいどうぞ」
ツクヨはオトンの膝の上に座ると、紙切れの束を手渡した。
「ジージにくれるの?」
阿修羅の顔から仏の顔とはこのことだ。
「ジージはね、おおきなパパなの。ツクヨにはパパがふたりいるの」
ツクヨの笑顔にオトンの怒りは消し飛んだ。俺は、ほっと胸を撫で下ろす。俺は生還できたのだ。グッジョブだ! ツクヨ様! 一時はどうなるかと思ったぜ。
「ツクヨ。それ、ジージに何か教えてやりな」
アヤ姉がツクヨに言う。はっはーん! これは、アヤ姉のドッキリだな。悪質な遊びだろ? 俺を誰だと思っていやがる? 俺は、アンタの弟だぜ。オトンが手に持つ紙切れの束。それを見て俺は察した。噂でしか知らないけれど、アヤ姉が幼稚園時代にやったヤツだ。
「ジージはおおきいパパだから。とくべつにつくったの。ツクヨはたくさんつくりました。これ、すきなときにつかってね。なくなってもだいじょうぶ。らいねんもあげるから」
───かたたきけん、おてつだいけん、いっしょにあそんであげるけん……そうこれは〝父の日券〟
もうこんなの、幸せの百裂拳じゃん。
「いっしょにあそんであげるけん。今からコレ、使ってもいいかな?」
さっきまでの眼光なんてどこへやら。オトンは、ツクヨ姫にデレデレだ───おい、オトン。うれしさで顔が溶けてっぞ! 危機的状況から脱した俺は、オカンに向かって茶碗を出した。
「やっぱ、おかわり」
「アンタ……ごはん、終わったんじゃないの?」
オカンが残念そうな顔をしている。とっとと片づけを終えてから、風呂に入りたいのだろうけれど、復活した食欲が抑えきれない。すまないオカン……育ち盛りなんだ、俺。
「まぁ、いいじゃないの。さっきまで、この子は生死の境を彷徨っていたのよ。ニヒヒヒヒ……」
悪魔が悪魔の顔して笑ってる。
「まぁ、今夜は食が細いかなって思っていたから……いいけどねぇ。はい、おかわりどうぞ!」
「ありがとうございます……」
オカンから茶碗を受け取り、ご飯に塩を振った。おかずがなかった……。
「ほら、食べな。玉子焼き、うまいぜぇ~!」
アヤ姉は、己の愚行を反省したのだろうか? それは違う……アメとムチ。その使い分けが上手いのだ。にしても……いつ食ってもうめぇ~のな、アヤ姉の玉子焼きの味は。絶品だった。
ツクヨが寝静まった風呂上がり。オトンはひとり寂しくビールの続きを飲んでいた。それはいつものことだけれど、いつもと違うのは老眼鏡だ。まじまじとツクヨからの〝父の日券〟を眺めている。俺は見逃さない。オトンの目が潤んでいたことを。
「なぁ、オトン。うれしくて泣いてんの? 風呂、入ったら? 空いてるよ」
そう言って、俺はオトンをからかった。これは、さっきのお返しだ!
「アホか? さっき、そこの目薬をさしたんだ。だ、誰が、これくらいで───男が泣くかっ!」
そんな嘘などバレバレだ。だって、その目薬はずっと前から空っぽだから。
───ツクヨのハレの日……。
初孫のドレス姿に涙するオトンがいた。
俺は知っている。
その手のひらに、あの日の〝父の日券〟が握られていたことを……。
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