001 悪しき習わし自己紹介
あがり症のボクにとって、自己紹介とは学校の悪しき習わしだ。刹那にボクの顔面が、血の赤に染まるのが分かる……ドクドクと心臓が波打って、焼けるように顔が熱い。ボクの後ろの席から伝わる、背中の振動と相まって、生き地獄とはこのことだ。早くお家に帰りたい。ボクの気持ちなどつゆ知らず、己の才能と知識を見せびらかすように、クラスメイトの自分語りが始まった。こんなの、自己紹介という名の自慢大会じゃないか! 承認欲求の塊に、ボクの叫びは届かない……憂鬱だ。
ボクが通う明光中学は、県下有数の進学校である。中学生といえどもプライドは高く、夢のスケールもかなり大きい。医者、学者、官僚、弁護士……錚々たる職種が、クラスメイトの口から飛び出して、ビッグマウスのオンパレードだ。
三島由紀夫ラブのボクは「出版関係の職種に就きたい」と、それこそ膝を震わせ、血を吐く思いで、己の夢を語ったのだが、クラスの反応は薄かった。でも、それでいい。目立つ行為は、イジメの対象に直結するのだ。前の席の広瀬さんは微動だにせず、そこはかとなく甘い香りを漂わせている。息してますか? 生きていますか? そう思えるほど動かない……。
「次、飛川月読さん」
後ろの席のガタガタが止まった。
「はい!」
小学生のような甲高い声が、教室の中に轟いた。ボクの次に未来の夢を語るのは、さっきまでネームプレートを磨いていた、後ろの席の飛川さんだ。おかっぱ頭の幼顔。どうせ彼女は見た目どおり、お子ちゃまみたいな夢を語るのだろう……。だた、背中に感じた謎の圧に、ちょっぴり期待しているボクがいた。
「飛川月読です。クラスのみんなとお友だちになりたいです。そこの広瀬忍は、私の大切な親友です。だから、イジメは絶対に許しません!」
イジメを許さないだって? 飛川さん、今、いいこと言った! 広瀬さんは、表情を表に出さず、口数も少なく、話しかける隙もない。だが、暗キャではない。むしろ、逆。
ガラスのように透き通る肌。パッチリとした褐色の瞳と、鼻筋のとおった端正な顔立ち。肩まで伸びた黒髪が、隠しきれぬ輝きを放っている。今をときめくアイドルだって、彼女を目の当たりにすれば、尻尾を巻いて逃げるだろう。美少女としてのステージがあまりにも違うのだ。きっとこれから広瀬さんは、ボクの世界と遠く離れた、光の中で生きるのだろう。
数日中に、広瀬さんが告白される未来が見える。彼女の笑顔を手に入れる幸運の持ち主は誰なのか? その相手が、ボクじゃないことだけは確かである。広瀬さんの友だちにすらなれやしない。
ボクは大人になって思うのだろう。中学時代、ボクの前の席に超絶美少女がいたことを。ふ〜っと、彼女から漂う香りの中で、少しばかりの時を過ごせたことを。それをボクは、心の支えに生きてゆくのだ。さらば……広瀬さん。そして、ありがとう。席決めの……あみだくじ。
「飛川さん。もし……イジメを見つけたら、飛川さんならどうします?」
先生が問う。
「正義の味方に変身します!」
どっと、笑い声が教室を包んだ。どうやら飛川さんには、笑いのセンスがあるようだ。だがそれは、イジメの本質を理解していない。ボクは、そんな君を軽蔑するよ、心からね。
とはいえ、本丸はこれからだ。さぁ、飛川月読。君の夢とやらを存分に述べるがいい。自己紹介を終えたボクは、安全地帯から様子をうかがう無敵の人になっていた。ボクはゆっくりと目を閉じて、胸の前で腕を組む。ボクの期待どおりなら、これから何かが始まるはずだ。
「私の将来の夢は、オッツーの花嫁になります!」
なぬ、花嫁だと! その一言で、ボクの腕組みが秒で解けた。
ざわざわ……クラスメイトの呟きが、さざ波のように広がった。
こんな自己紹介って、ある? そんなのは、明後日の方向から飛んできた手りゅう弾。それをボクらは、まともに喰らった。一瞬のフリーズの後、戦慄の突風が教室の中を駆け抜けた。
飛川月読の花嫁宣言が、思春期の好奇心を煽りに煽る。刹那にボクは振り返り、飛川さんの顔を見た。彼女は自信に満ちた表情で、ゆっくりとボクを見下ろした。その笑顔に、しばしボクはたゆとうた。飛川さんの机の上に置かれたネームプレートが、窓から差し込む太陽光に反射して、ギラギラと輝いている。そのギラギラにボクは思う。花嫁さん。いい仕事、しましたね。
「飛川さん、とてもステキな夢ね。先生も頑張らないと……そうね、先生も頑張るわ」
花嫁の言霊が、うら若き教師の胸に刺さったようだ。先生は可愛らしい系の美人である。細身なのに胸が大きい。つまり、彼氏がいないという考察は否定され、彼氏との喧嘩の筋が妥当な線だ。教壇で苦笑する花園すみれ先生の複雑な表情に、恋愛とは縁遠い、ボクでさえもがシンパシーを感じてしまう。
「先生、分かるよ。その気持ち。だって先生は、私と同じ香りがするんだもん。辛いよねぇ……恋って。でも、がんばって。すみれ先生!」
それ、言う? 飛川さん。
「ありがとう、飛川さん。先生、勇気をもらったわ」
それに乗るんだ、先生も。飛川さんは腕組みしながら、うんうんと先生の返事に頷いている。彼氏の顔でも思い出したのだろうか? 先生の表情が一瞬だけふにゃっとなった。
将来の夢。なりたいではなく───なります! 結婚とは、相手の承諾を得て初めて成立するものである。それは、古からの理だ。なのに飛川さんは「なる」と断言した。オッツーとは、何者か? 昼休み、クラスがその話題で持ちきりになったのは、第二次成長期の性であり、当然の帰結でもある。
花嫁のパワーワード。それを発した、飛川月読の存在が、この教室を支配している。ただひとり、それに動じない女子がいた。ボクの前の席の広瀬さんだけが、俯いたままで動かない。小刻みに可憐な背中が揺れている。今、彼女は何を思うのか? 原稿用紙三枚以内で、ボクに詳しく教えてほしい。
結局のところ、クラスの自己紹介でボクに強烈な印象を残したのは、飛川さんの花嫁と、平岡君のワールドカップだけだった。付け足すのなら、もうひとり。色白美男子の津島君が少し気になる。登校中に津島君が、二組の中原君に追いかけられていたのだ。イジメを受けたボクとしては、それが妙に気になっていた……。
───パンパンパン。
花嫁のざわめきをかき消すように、先生が手を叩く。
「はい、ちゅうも~く。それでは、昨日の入学式でお伝えしたように、これから学級委員長と副委員長を任命します。その他の委員については、それぞれ立候補してくれるとうれしいです」
進学校ならではの緊張感が教室の中に張りつめて、クラスメイトの眼光が鋭くなった。今回に限り、学級委員長の称号は、入試トップを意味するからだ。この緊張感にも飲まれずに、後ろの席の飛川さんは、ネームプレートの最後の仕上げに入ったようだ。カタカタのピッチが小刻みになっている……。
コメント