これから学級委員長の発表だというのに、飛川さんはネームプレート磨きに精を出し、広瀬さんは時が停止したように、ぴくりとも動かない。
我が明光中学は、ひとクラス三十名の三組編成で、受験テストの順位で振り分けられる。上位の三十名は、ボクが所属する一組だ。そして、新入生が慣れていない今回に限り、入学試験の成績トップが学級委員長に任命される。副委員長は二番手である。スクールカースト……いやだ、イヤだ、嫌だ……。そんなものになりたくない。
ボクは図書委員になると決めていた。夏は冷房、冬は暖房。設備環境が整う図書室で、ボクは三島文学を満喫するのだ。図書委員の肩書きさえ手にすれば、誰にも邪魔されることはない。三島どころか、あらゆる文豪たちの作品が、図書館にはあるはずだ。
「一学期の委員長は、飛川月読さんにお願いします」
「「「うぉぉぉ〜! 花嫁ぇ!!!」」」
どよめきでクラスが揺れた。ネームプレート職人がトップだと? これは何かの間違いか?
「副委員長は、黄瀬学公君ね。はい、ふたりに拍手!」
え? ボクが副委員長? やりたくない。それも何かの間違いだ。自分でも驚きの結果に、再びボクの心臓が波打って、口から臓器が飛び出しそうだ。ドクン、ドクン……最悪だ、激しい動悸に気持ちが悪い。クラスメイトの拍手に紛れて、飛川さんの声がする。
「謀ったわね、忍!」
その声に振り返ると、飛川さんが般若の形相で広瀬さんの背中を睨んでいる。広瀬さんの可憐な背中は、また小刻みに揺れていた。飛川さんの怒りの原因。それは、ひとつしかあり得ない。だが、それを意図的に実践するなど、果たして常人に可能なのだろうか……いや、それはない。即座にボクは、己の推理を否定した。
オッツーの花嫁は、学年トップの秀才だった。当然のように、クラスの注目は花嫁に集まった。それを花嫁は自覚している。その笑顔、そのうちブーケでも投げそうだ。ボクの本能が叫んでいる。底が見えない飛川さんには逆らうな。飛川さんだけには敬語で接しよう。それをボクに告げたのは、過去のイジメの経験則だ。そう、彼女の地雷だけは踏んではいけない。
怒涛の展開を見せたホームルームは終わり、午前の授業もつつがなく終了した。さてと……三島小説と弁当を机の上に並べて、ボクはひと時の余暇を楽しむとしよう。どうせ、一緒に食べる友だちもいないのだ。小説の続きに目を通す。なぜなんだ、節子ぉぉぉ! ボクが気分を盛り上げたまさにその時。ボクに不幸が訪れた。
「飛川さん。一緒にご飯食べようよ」
女子のひとりが口火を切ると
「「「私もーーー!!!」」」
数人の女子が賛同した。言い出しっぺは、ボクから図書委員の座を奪った大西さんだ。なんつーか……ちょっとシャカシャカしていて、締め切り前の漫画家さんって感じの女子だ。大西さんに合わせるように、飛川さんの周りに机を合体させて、女子たちが集結する。その机の中には、ボクの机もあるのだが?
「黄瀬君は、あっちで食べてね。だって、男子なんだから」
大西さん。ボクから図書委員のバッジだけでは物足りなくて、机までも奪うのか? それは、あまりにも理不尽だ……
「でも……ボクの机が……」
登校初日から便所飯? 嫌な響きが脳裏をかすめた。
「だから?」
女子の「だから?」に抗える男子がいるのだろうか?
「ねぇ、ねぇ。飛川さん、オッツーって誰? 彼氏、彼ピ、許嫁?」
そう言いながら、大西さんはボクの机で弁当を広げた。なんだか、土足で部屋に入られた気分だ。何が、彼ピじゃ!
「オッツーはねぇ、背が高くて、優しくて───卒業式の日に、このネームプレートを渡すんだ。大西さん、知ってる? ネームプレートを交換したカップルは、将来必ず結ばれるんだよ」
その件は、ボクがさっき否定した。
「知ってるよ、それ。ロマンチックよねぇ。もう、そんなのオッツー君だっけ? 彼に渡しちゃったら、飛川さんって、瀬戸の花嫁決定じゃん」
「「「瀬戸の花嫁だってぇ~」」」」
てか、ネームプレート、ネームプレートって。我が校は、ネームプレートに呪われているのに違いない。ネームプレート職人の飛川月読を中心に、呪いの伝播が広がってゆく。
「ほら。私のネームプレート、凄くね?」
「「「すご~い。ピカピカしてるぅ~!!!」」」
飛川さんがホームルームの時間を費やして、磨き上げたネームプレート。それを、羨むような女子の目に、そのうち、飛川職人に注文依頼が殺到するのだろう。黄色いプラスチック板が、琥珀のように輝いている。
「でさ、飛川さん。オッツー君とは、どこまでいったの?」
「聞きたい? ねぇ、聞くぅ?」
話したい飛川さんと、話を聞きたい女子たちと、需要と供給とが合致している。わちゃわちゃと始まった、恋バナを横目に我思う───オッツーなんて、どうでもいい。
色とりどりの弁当箱が、ボクの前でパカパカ開く。たこさんウィンナーひとつとっても、女子のおかずは、お母さんの細工がすばらしい。お父さんかもしれないが……。
弁当箱と文庫本を手に持つボクは、行くあてもなく呆然と、女子の弁当の中身を見つめていると
「黄瀬君。こっち、こっち」
ボクを見かねた男子のひとりが、ボクに向かって手招きをする。これが後に、サッカー部を県大会へと導く平岡修斗君との出会いであった。自己紹介で発表した将来の夢が、ワールドカップの彼である。
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