後ろの席の飛川さんは変わり者だ。その表現に問題があるのなら、先駆者と言い換えてもいいだろう。パイオニアだ。
「きいちゃん、おはよう」
学校の下駄箱の前。甲高い声で、朝のあいさつをする飛川さん。
「飛川さん、おはようございます……げっ!」
制服のスカートの下に体育のジャージをはいている。これって……セーフなの? 教室に向かって並んで歩くと、飛川さんが歩を進める度に、パカパカと上履きが音を出す。
飛川さんの制服姿は、上着の袖は指先まで覆い、スカートは膝小僧をすっぽりと隠す。上から下までブカブカだ。これもまた、小柄な飛川さんの成長を見越してのことであろうけれど……。
ボクは飛川さんの服装について触れなかった。それはボクなりの気遣いだ。地雷を踏んで、飛川さんに泣かれて、女子にハラスメント認定でもされたなら、ボクの人生が終わってしまう……そんなのたまったものじゃない。ボクにとっての飛川さんは、ニトログリセリンくらい危険な存在なのである。
「あ……学級委員は、すみれ先生が職員室に来るようにだって。運んでほしい荷物があるって」
上履きをパカパカ鳴らせて、飛川さんがボクに言う。
「かしこまりました、飛川さん」
ボクは気持ちよく、飛川さんに返事をした。
「デュワッ!」
机に着いた飛川さんが、ネームプレートを装着した。カキーンって感じで、飛川さんの胸に輝くネームプレートは、メタルヒーローみたいにピカピカだ。ボクも磨こうかなぁ……ネームプレート。そう思いながら、ボクはふにゃって感じでネームプレートを装着する。
「では、職員室へ参りましょう」
「ほい、いってら」
もしかしてだけれど……飛川さんは、学級委員長だったよね? 君はこの場に残るのか?
「どうしたの? きいちゃん。行かないの?」
「飛川さんは、学級委員じゃなかったっけ?」
「いいの。ホントなら、忍の仕事だから」
飛川さんは、広瀬さんに聞こえるようにそう言った。本を広げた広瀬さんは、飛川さんの嫌味に振り向きもしない。
「ボクが……ひとりで行ってきます」
腑に落ちない気持ちを押し殺し、職員室へ向かうボク。その道中で校内を見渡せど、飛川さんスタイルの女子はいない。やっぱりな、そうだよな……
「失礼します」
朝のざわついた職員室の中へ入ると、花園先生の目がテンだ。
「あれれ、黄瀬君だけ? 飛川さん……委員長は?」
先生が、隣にいるはずの飛川さんを目で探す。
「飛川さんは忙しそうなので、ボクが全部運びます」
咄嗟にボクは嘘をつく。
「あら、そう……」
これは、広瀬さんの仕事だから……なんてとても言えない。花園先生から教材を受け取り教室に戻ると、クラスメイトがざわついていた。もちろん、スカートの下のジャージである。
こんなところは進学校だ。誰もが生徒手帳を開いて校則を確認する。だが、それについての記載はない。つまり、ギリセーフ。きっとこれまで、その想定がなかったのだろう。ちなみに、ルーズソックス禁止との明確な記載はあった。
「ねぇ、きいちゃん。ルーズソックスって何?」
「存じませんねぇ……すいません」
ルーズソックスとはなんなのか? クラスの話題がそっちへ移行したのは言うまでもない。
入試トップの奇行に、誰が異議を唱えるだろう。少なくとも、それを口にする者は皆無であった。飛川さんの制服姿は、誰の目から見てもヘンテコだけれど、幼げな小学生のコスプレのようで、誰の目から見ても可愛く見えた。そのうち、学校側から指導が入るだろう。それまで、そっとしておこう。
その大いなる先駆者が、ボクの背中をツンツンつつく。
「ねぇ、きいちゃん」
後ろの席の飛川さんは、いつも笑顔で問いかける。てか、すべての休み時間でそれやるの、やめてもらっていいですか? 読書を封じられたボクとしては、早くも鬱陶しくなっていた。
「ねぇ、きいちゃん」
「なんですか? てか、なんでボクが〝きいちゃん〟なんですか?」
これは、かねてからの疑問である。
「あれれ……黄瀬君だからきいちゃんだよ。ずっと前から、きいちゃんだったよ」
こいつはダメだ……。
「そんなことより、オッツーがねぇ。私に酷いことを言うんだよ」
飛川さんが話す話題は、往々にしてオッツー君だ。あんなに集まっていた女子たちも、他人の彼氏の話題に飽きたのだろう。飛川さんの前の席に座るボクだけが、彼女にとって絶好のターゲットになっていた。
「それは、とても大変ですね」
ボクも拒否すればよいのだけれど、拒否のやり方が分からない。クラスメイトの目には、学級委員長と副委員長が、何かの相談をしているようにしか見えていない。
飛川さんが、プーっとほっぺを膨らませて、オッツー君の愚痴を語る。それこそ、親友の広瀬さんに話せばいいのに……広瀬さんは、本を見つめて動かない。それは、鉄壁の防御であった。
「ツクヨっちは、中学生になっても可愛いねって。もう、子どもじゃないもん。なのにオッツーは、私を子ども扱いばかりするの。ねぇ、酷いでしょ? 嫌になっちゃう」
彼女の愚痴は主にのろけだ。
きっとオッツー君は、別の中学の生徒なのだろう。ボクの推測では、同級生ではなく、たぶん先輩。残念だけれど、ボクは彼の個人情報に興味はない。ただひたすらに、ボクは休み時間を耐え忍ぶ……てか、忍と言えば広瀬さんだ。広瀬さんが、なんの本を読んでいるのか? 意を決して、ボクは飛川さんに訊いてみた。
「あの……広瀬さんは、ずっと本を読んでますよね?」
飛川さんが親友と呼ぶ広瀬さんは、休み時間の間、謎の本を読んでいる。広瀬さんがどんな本を読んでいるのか? ボクとしては、オッツー君よりも興味深い。
「だから?」
出た!〝だ・か・ら〟……ボクはこの言葉が嫌いだ。
「いつも、広瀬さんが同じ本を読んでいるように見えたので……好きな作家さんとかいるのかなと……思いまして……広瀬さんは、読……読書が好きだとか?」
「そう。忍は大好きな作家さんの本を読んでるの。でも、読書は嫌いよ。あぁ見えて、忍はアウトドア派なの。てか、きいちゃん。どうして、私にだけ敬語なの!」
飛川さんが、小さな口を尖らせる。え、そこ責める?
「……」
ボクはそれには答えなかった。飛川さんが怖いから……なんて言えやしない。でも、有力な情報をボクは得た。広瀬さんにも、好きな作家がいることを。弁当の時間に、津島君に教えてあげよう。広瀬忍攻略の糸口をつかんで、きっと彼も喜ぶさ。
「でも……広瀬さんは、同じ本を何度も読み返してる気がするんですよ。ともすれば、同じページばかりを眺めているような気がして……」
「忍にとって、あれは釣りの餌みたいなものだから。気にしないでいいと思うよ」
飛川さんが紡ぐ言葉は、オッツーありきで組み立てられる。だから、彼女が語る意味が理解できない。そして、あえて訊くことをボクはしない。だから、この数日の間。ボクは彼女と、ふわっとした会話をしているのにすぎなかった。それもこれも、席替えまでの辛抱だ。二学期が待ち遠しい……。
「そうそう、サヨちゃんがね……」
それは、誰だ?
ボクがなんでも知っているかのように、飛川さんは、さらっとボクに話すけれど、オッツー君と同じくサヨちゃんだって、ボクの知らない人である。ただ……飛川さんの口から「サヨちゃんがね……」という枕詞が出る度に、背中まで伸びた広瀬さんの黒髪がビクンと揺れる。その後で、ボクたちの会話に聞き耳を立てる。そんな気配を感じていた。
広瀬さん推しの津島君には悪いのだが、広瀬さんにとってサヨちゃんという人物は、何かしら特別な存在のようにボクには思えた。それでもボクは、津島君を応援するけど。
「あ、そうだ。ねぇ、きいちゃん。入る部活って、もう決めた?」
飛川さんはマイペース。すぐに話題がコロコロ変わる。
「今のところは……まだですけれど」
「やったぁ!」
両手を合わせる飛川さんの微笑みに、ボクは悪い予感しか感じない。その顔から察すれば、悪巧みを企てているようだ。彼女の笑顔に底知れぬ恐怖を抱き、ボクはギュっと身構えた。決して、彼女の口車に乗ってはいけない。
心の中でそれを誓った。
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