後ろの席の飛川さんが、食事を済ませて席を立つ。
「きいちゃん……私。必ず生きて帰るから」
大げさな、死にはしない。職員室でお叱りを受けるだけだ。
「飛川さん、御武運を」
「うん、月読がんばる!」
大きなリュックを背たろうて、飛川さんは職員室へと旅立った。飛川さんがいない教室は、驚くばかりの静けさだ。
これぞまさしく読書タイム。喜び勇んで〝仮面の告白〟に手を伸ばす。中学生のボクにとって、三島作品は刺激が強い……だが、そこがいい。いただきます。
本に視線を移すや否や、前の席の広瀬さんが、ボクの方へ振り向いた。無言で見つめる眼差しに、ボクは気まずさを感じてしまう。いつ見ても美しい顔だ……。
「本、好き?」
広瀬さんが、ボクに話しかけるだなんて……皆既日食くらい稀である。
「まぁ……そうだね」
「何、読んでるの?」
広瀬さんが、本の表紙を覗き込む。咄嗟にボクは本を隠す。
「エッチな本?」
え? エッチじゃないと言えば噓になる。ちょっぴりボクは恥ずかしい。
「広瀬さんも本を読んでいるよね? いつも同じ本のようだけれど、お気に入り?」
話題の矛先をすり替えると、彼女の瞳孔が大きく開いた。
「読む?」
広瀬さんが机の上に、愛読書をそっと置く。本に添えた彼女の細い指は、爪の先まで見惚れるほどに美しい。
本のデザインはシンプルで、白い表紙に金の文字の題名だけだ。『のんちゃんのブログ王』……この作品をボクは知らない。
作者名は飛川三縁……それも知らない。でも、飛川さんと同じ苗字なのが引っかかる……漢字の読み方が違うのか?
「読んでみて」
好きな作家の作品は、より多くの人に読んでほしい。ボクにも、その気持ちがよく分かる。
広瀬さんに言われるがままに、ブログ王を手に取ると、刺すような鋭い視線をボクは感じた。教室内を見渡すと、視線の主は津島君。
〝刺す〟───この文字は、津島君こそ相応しい。
(津島君。これからボクは、広瀬さんの愛読書の謎を解明するよ。それを君に教えてあげよう。君だって知りたいだろ?)
ボクが津島君に目配せすると
(よろしく頼む)
と言わんばかりに、津島君が頷いた。
「じゃ、広瀬さん。お言葉に甘えて……」
どうせ、ラノベか何かだろう。これなら流し読みで十分だ。広瀬さんは、ボクから目を離さない。
誰もが認める美少女が、冴えないボクを凝視している。嫌でもクラスの視線がボクらに集まる。それに優越感など感じない。むしろ、居心地の悪さを感じてしまう……。
「作家さんの名前が、飛川さんと同じ苗字だね。読み方も〝ヒカワ〟かな?」
「そ」
「好きな作品なの?」
「そ」
ボクの問いに「そ」だけで答える広瀬さん。「そ」だけじゃ、会話がまったく膨らまない。AIの方が饒舌多弁だ。沈黙を恐れたボクは、ブログ王に視線を戻す。
ボクと広瀬さんが気になる津島君は、お昼のサッカーの誘いも上の空。このまま、教室に居残るようだ。
───にしても、年季の入った本だよな……。
劣化具合から察すれば、何度も読み返した本であるのに違いない。表紙も背も角も何もかもが傷んでいる。それだけで、広瀬さんの作品への想いが伝わった。
この作品を手掛けた小説家は幸せ者だ。ボクは敬意を表して、丁寧に表紙をめくる。さぁ、ショータイムだ。
いつか、あなたの小説が読んでみたいの……無理を言って、ごめんなさい。忘れてね……。彼女は俺のブログの読者であった。顔も知らない、声も知らない。文字を介した交流から六度目の秋。その言葉に心臓が揺れた。ブロガーに小説が書けるのだろうか? それは、今でも心の中で燻ぶっている。
のんちゃんのブログ王〝000 プロローグ〟より引用
ほっほう……これぞまさしく恋愛小説。流れるような文体が、太宰に似ている気がするのだが、それにも増して───カブトムシさんの文体に近い。
カブトムシさんは、ボクが敬愛するブロガーだ。そんな彼に似た文体が、ボクを物語へと誘い、瞬く間に時は流れた……。
「返して」
ブログ王を読了するには、昼休みは短すぎた。
「ちょっと待って!」
ボクはぶっきらぼうな返事をした。
「返して」
もう一度、同しセリフを発する広瀬さん。
「広瀬さん、少し黙ってくれるかなぁ! これからが面白いんだよ」
ボクの発した荒ぶる声に、教室が静まり返った。自分の声に自分でも驚く。そこまでボクは、ブログ王に没頭していた。
「あ……ごめん、なさい……」
慌ててボクは、広瀬さんに頭を下げた。
「この本、ボクに貸してくれるかな? 一晩だけ、お願いします」
ボクが小声で懇願すると
「嫌よ」
いかにも広瀬さんらしい返事である。けれど、広瀬さんの顔が笑ってる。それが気に入らないのが津島君。鬼の形相でボクを睨む。ボクは津島君から視線を外した。
ごめんね、津島君。それどころじゃなくなった……この続きを、ボクは読みたい。
「買う?」
「え?」
こんなに大切している愛読書を、広瀬さんはボクに売るんですか?
「お、お幾らで?」
「百万円」
「は?」
ぼったくりだ。
「冗談、定価で」
広瀬さんも冗談を言うんだな。とても冗談とは思えない無表情な顔つきで。それが許されるのも、美少女が持つ特権である。世の中は不公平なものなのだ。美少女というだけで、何かしらの価値が生まれる。
そう、この本は……幾度も広瀬さんの指が触れた本。言い換えれば、美少女の手垢がたっぷりの本である。ボクは頭の中で電卓を弾く。
こりゃ、プレミア物だ。津島君へ視線を移すと、彼の顔がほころんだ。
「その本、買った!」
津島君なら、二倍、三倍……いや、もっと───それでも、彼なら買い受ける。だって、彼の家は不動産王なのだから。
ボクが代金を支払うと、広瀬さんがキャリーバックに手を伸ばす。そして、バッグの中から新品の本を取り出した。
その時、バッグの中身が少し見えた。背表紙から察すれば、同じ本が何冊も入っている。これはいったい、どういうことだ? もしかして広瀬さん、それって本屋の闇バイト? バッグの中身はノルマですか?
「ありがと」
広瀬さんが愛読書を取り戻すと、代わりに新品の本を机に置いた。手渡しの神対応はないようだ。
取り戻した愛読書を、恍惚な瞳で見つめる広瀬さん。がっかりだ。これで儲けはなくなった。
肩を落として新品の本を手に取ると、職員室から飛川さんが戻ってきた。
「大変でしたね」
ボクが労うと、返事はあっさり。
「ちっとも」
地獄のような時間だったろうに、彼女に凹んだ様子は見られない。いつもと変わらぬ、元気ハツラツ飛川さん。ボクの手元で視線が止まる。
「ブログ王……」
ボクの本を見つめながら、飛川さんが広瀬さんの背中を叩く。
「忍、釣れ……じゃなくて、売れたの?」
「そ」
「忍にしては、随分と手こずったわね」
「これからよ」
このふたり。何を言ってるのか、さっぱりだ。
「それは、どういうことでしょうか?」
ボクの話など聞きもせず、リュックの中に手を突っ込む飛川さん。小さな女子が、大きなリュックに食われているようだ。
「きいちゃん。これに名前をちょうだい!」
リュックから謎の用紙を取り出すと、飛川さんが用紙の一点を指でつつく───トントントン。その指先には署名欄。まさか……連帯保証人なんかじゃないよな?
「海洋生物研究会の入会届よ」
へぇ、そんな研究会があるんだ。知らなかった。
「さっきね、花園先生に顧問になってもらったの。忍の用紙もあるわよ」
今、なんと? 花園先生に飛川さんが、新研究会発足を直談判したってこと?……ゾンビ動画のお説教中に?
「ありがと」
広瀬さんは、迷うことなく入会届を受け取った。あっさりって感じである。
「研究会の発足には、会員が五名必要だから。残りの二名は、きいちゃんに任せるわ。海洋生物研究会員として、初めてのお仕事よ」
今こいつ、ボクに丸なげしやがった!
広瀬さんの持つペンが、入会届の上で踊っている。飛川さん、職員室で何してきたの? ボクは、ダメ元で抗った。
「ボクには友だちがいないから……」
「平岡君と津島君がいるじゃない。一緒にお弁当食べてた仲じゃない。それはもう、心の友よ。ひゃっはっはぁ~」
ボクの抗いを、豪快に笑い飛ばす飛川さん。こいつはダメだ。そういうことじゃ、ないんだよ。
「でも、飛川さん。ふたりはサッカー部員だよ」
「いいの、いいの。きいちゃんが、名前だけ借りてきて。悪いようにしないから」
ボクは知っている。「悪いようにしないから」これを多用する人間は、信用に値しない。
「広瀬さん。僕にも、その本を一冊くれる?」
キター! ついに、津島君が動き始めた。この絶妙なタイミング。ここからが、美少年の本領発揮だ。
「ありがと」
広瀬さんから、本を受け取り、お代を払って、にこりと白い歯を見せる津島君。だが、ここで終わるような彼じゃない。
「広瀬さん。今度の日曜日、僕とデートしない?」
うわぁ~。三島作品なら接吻チャンスだ。太宰なら今夜はお泊り。
「土曜なら」
ちらりと広瀬さんがボクを見た。その意味は分からない……自慢か?
広瀬さんは、あっさりとデートの申し出を受け入れた。美男美女の指先が、ブログ王に添えられている。教室の中に注ぎ込む、春の日差しと相まって、ふたりの姿が映画のようだ───
おめでとう、津島君。ボクは何かを成し得た気分だ。
「津島君、これも」
広瀬さんが、そっと海洋生物研究会の入会届を差し出した。もう、津島君は逃げられない。完璧な勧誘だ。もしこれが、すべて計算どおりなら……広瀬忍、恐るべし。
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