後ろの席の飛川さん〝008 担任教師の落とし方〟

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 目の前で繰り広げられる、恋愛ドラマをボクは見た。

 デートの誘いを直視するなど、最初で最後の見納めだ。その興奮が冷めやらぬうちに、午後の授業が終わってしまう……。

 ボクの後ろの席では、五枚の入会届をニヤニヤ見つめる飛川ひかわさん。いかにも悪代官って顔をしている、悪い笑顔だ。

 デートをキメた津島君は、その場で入会届にサインした。平岡君は、活動不参加を条件にサインした。

 平岡君にサインをさせたのは、他でもなく津島君だ。結局のところ、ボクの出番はどこにもなかった。

 午後の休憩時間で、ブログ王が三冊売れた。お客は男子のみである。広瀬さんとお近づきになれる。そのチャンスは、ブログ王だけある。きっと明日から、飛ぶようにブログ王は売れるのだろう。

 新品の本を定価で渡す。ならば、校則にも抵触しない。どんな指摘があろうとも「おつかいです」と言えば、それまでだ。

 とはいえ、ブログ王を書店で買っても意味がない。広瀬さんから買ってこそのブログ王。そのトリガーを引いたのが、言わずと知れたボクである。広瀬さんの言う〝友釣り〟の一匹目がボクなのだ。

 ボクがブログ王に喰らいつく瞬間を、広瀬さんは粛々と待っていた。そう考えれば、何から何まで合点がいく。

 そのあざとさと計画性。味方にすれば心強いが、敵に回せば脅威となろう。次の席替えが終わるまで、ボクはつつましく生きてゆく……。

 このふたり……どう考えても曲者くせものだ。

「ねぇ、きいちゃん」

「はいっ!」

 ボクの後ろの席の飛川さんは、いつも笑顔で問いかける。

「いつから活動しようかな?」

 飛川さんの目がギンギラギンだ。

「なんの活動ですか?」

「決まってるでしょ? 海洋生物研究会だよ」

 どうせ、今日からって言うんでしょ?

「来週からでは、どうでしょう?」

「ねぇ、きいちゃん。それは、いけないわ」

 そうきたか。

「なぜですか?」

 ボクは、細やかな抵抗を試みる。

「きっと、忍のデートは失敗するもの。だから速攻で、津島君にサインもらったの。今日は水曜日でしょ? 潮目がいいの。今日を逃すと、木曜と金曜しかないもの。土曜日はダメよ。オッツーが遊びに来るから」

 飛川さんが、しれっとオッツー君の話題をねじ込んだ。リア充の話なんて聞きたくもない。ボクの清い鼓膜が汚れてしまう。

「え? デートの前から、恋の破滅予告はよくないですよ」

「だって、友釣りよ。釣り針は、いつだってフリーじゃないとね。ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ」

 飛川さんがほくそ笑む。またしても、悪代官のような悪い顔だ。でも、その予告は外れるだろう。

 津島君ほどの美男子は、そんじょそこらに存在しない。裏を返せばクラスの女子の全員が、津島君を狙っている。

 ほら、大西さんの目だって、さっきまでとはまるで違う。「何よ、あの女……」って感じのキツイ目だ。

 さりとて、あれもこれも、なんだって。すべては、飛広コンビの策略だった。ボクがそれを知るのは、もう少し先の話のことになるのだけれど……。

「ところで……飛川さんは、どんな手口で花園先生を口説いたんですか?」

 素朴な疑問だ。

「それは、なんのことだろう?」

 とぼけんな!

「海洋生物研究会ですよ。花園先生だって、昼休みの僅かな時間で、そう簡単には落ちませんって」

「意外と鋭いのね、きいちゃんは。ニヒヒヒ」

 楽しげに、リュックからスケッチブックを取り出す飛川さん。それを広げてドヤ顔をする。

「ジャーン!」

「こ、これは!」

 スケッチブックの中で、今にも動きそうなイラストたち。その吹き出しには、格好いいセリフがずらりと並んでいる。

 まさにこれは、丁寧に描き込まれた、上質な漫画って、感じである。不本意だけれど脱帽だ。

「す……すごいですよ、飛川さん」

「きいちゃん、もっと褒めて。月読ちゃんは褒められると、羽ばたくの」

 そこに描かれていたのは、海洋生物研究会の活動内容だ。イラスト化すれば、ひと目で活動内容が把握できる。この完成度、とても中学生の仕業とは思えない。

「すごいですね。これを見せられたら、安易に断る理由が見つかりません」

「でしょ、でしょ! 春休み中に描いたんだぁ。最後まで見てよ、きいちゃん」

 春休み? 小学生の作品だった。

「もちろんです。にしても、似ている感じが……」

 そのイラストの雰囲気が、なんとなく、どことなく。テントウムシさんの絵と似ている気がした。

 テントウムシさんは、ボクに明光中学受験を勧めた、イラスト描きのブロガーだ。この学校のどこかに、テントウムシさんがいるはずなのだが……飛川さんとは思えない。

「飛川さん。これは、素晴らしい研究ですね」

 海洋生物研究会の活動内容は、瀬戸内海の生物を観察して、その生態調査が主たる研究の目的である。

「新生物を発見しようものならば───きいちゃんも、わくわくしない?」

「それは確かに!」

 新生物を発見すれば、自分の名前を命名できる。歴史に名前を刻む発見。地味なようで、夢のある研究だ。

 飛川さんの夢を垣間見たボクは、その夢を美しく信じた。そして、飛川さんを見直した。

「いつから活動しようかな?」

 もう一度、飛川さんがボクに訊く。

「来週からでは、どうでしょう?」

 それはそれ、これはこれ。ボクはこれから、ブログ王を読むのだから。

「忍ぅ。きいちゃん、オッケーだって!」

「そ」

 ボクの予定は、けんもほろろに消えるのか?

「忍ぅ。サヨちゃんも、来るって」

「……」

 広瀬さんの背中がピクリと動く。

「黄瀬君。校門の前で月読と待ってる、必ずよ」

 広瀬さんが、頬を赤らめてそう言った。それは、ボクに対する反応ではなく、サヨちゃんに向けての反応である。それくらいのことならボクにも分かる。

 教室の清掃当番を終えたボクが、校門前にさしかかると、飛広コンビはお喋りをしていた。そこには、教室では絶対に見られない、のびのびとした広瀬さんの笑顔があった。

 いったい何を語らっているのだろうか? 広瀬さんの横顔が、いつもにも増して美しい。隣ではしゃぐ飛川さんだって、見ようによっては可愛いけれど、さりとて、広瀬さんの引き立て役になってしまう。神さまって、不公平だよな。

「きいちゃん、遅い!」

 ボクの姿を見つけると、広瀬さんは、通常モードに戻ったようだ。すーっと、広瀬さんの顔から笑みが消えた。その切り替えが、ボクにはとても寂しく感じた……。

「学校から最も近い海までは、歩いて二十分ほどありますけれど? おふたりの大きな荷物は、海まで持っていくのでしょうか? ボクは、ロッカーに自分の荷物を置いてきましたが?」

 まさか……「これ全部、きいちゃんが持つんだよ」とは言わないよな? ボクがビクビクしていると、校門前の公道に、一台のベンツが停車した。ゆっくりと、赤いベンツの窓が開く。運転席には、猫耳頭のお姉さん? 意思を持つかのように、頭の耳が自由気ままに動いている……。

「ツクヨちゃん、その子が噂の同級生? うふ、可愛いね」

 ふわっとした、猫耳頭のお姉さんが、ボクを見てにこりと笑う。この人、どこかで見たことあるような……。

「さぁさぁ、みんな。乗って、乗って」

 飛川さんは助手席へ、広瀬さんは慣れた様子で後部座席に乗り込んだ。

「早く、乗って」

 広瀬さんの手招きに、ボクは広瀬さんの隣に座った。

「きいちゃんです。よろしくね」

 飛川さんが、ボクを紹介すると

「緊張しなくていいのよ。ふふふふふ……」

 お姉さんが微笑んだ。お姉さんが発する言葉に反応しているのだろうか? 猫耳がまた動く。この人、絶対にどこかで見たはずだ。ルームミラー越しに、お姉さんの胸に目をやると、そこにはチョモランマの双璧が……

「きいちゃん。この人が、ゆきちゃんです!」

 この人、やしまーるのおっぱいゾンビだ。

「き……黄瀬学公きせがくです。今日は、よろしくお願いいたします」

 ボクは冷静に対処する。本物のゾンビは、車の運転などしないのだから。

「あら、礼儀正しい子ね。ピチピチして、おいしそう」

 これは、喜んでもいいのだろうか? いつの間にやら、ボクはゾンビの車に乗っている。飛広コンビに乗せられたと言うべきか?

 国道を疾走する赤いベンツ。だが、このコース。ボクが思い描いた目的地とは、向かう方角がまるで違う。この車はどこへ向かっているのか?

「大丈夫、怖くない」

 広瀬さんが、ボクの隣でにこりと笑う。その氷のような微笑みに、ボクの不安が煽られた……。

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