目の前で繰り広げられる、恋愛ドラマをボクは見た。
デートの誘いを直視するなど、最初で最後の見納めだ。その興奮が冷めやらぬうちに、午後の授業が終わってしまう……。
ボクの後ろの席では、五枚の入会届をニヤニヤ見つめる飛川さん。いかにも悪代官って顔をしている、悪い笑顔だ。
デートをキメた津島君は、その場で入会届にサインした。平岡君は、活動不参加を条件にサインした。
平岡君にサインをさせたのは、他でもなく津島君だ。結局のところ、ボクの出番はどこにもなかった。
午後の休憩時間で、ブログ王が三冊売れた。お客は男子のみである。広瀬さんとお近づきになれる。そのチャンスは、ブログ王だけある。きっと明日から、飛ぶようにブログ王は売れるのだろう。
新品の本を定価で渡す。ならば、校則にも抵触しない。どんな指摘があろうとも「おつかいです」と言えば、それまでだ。
とはいえ、ブログ王を書店で買っても意味がない。広瀬さんから買ってこそのブログ王。そのトリガーを引いたのが、言わずと知れたボクである。広瀬さんの言う〝友釣り〟の一匹目がボクなのだ。
ボクがブログ王に喰らいつく瞬間を、広瀬さんは粛々と待っていた。そう考えれば、何から何まで合点がいく。
そのあざとさと計画性。味方にすれば心強いが、敵に回せば脅威となろう。次の席替えが終わるまで、ボクは慎ましく生きてゆく……。
このふたり……どう考えても曲者だ。
「ねぇ、きいちゃん」
「はいっ!」
ボクの後ろの席の飛川さんは、いつも笑顔で問いかける。
「いつから活動しようかな?」
飛川さんの目がギンギラギンだ。
「なんの活動ですか?」
「決まってるでしょ? 海洋生物研究会だよ」
どうせ、今日からって言うんでしょ?
「来週からでは、どうでしょう?」
「ねぇ、きいちゃん。それは、いけないわ」
そうきたか。
「なぜですか?」
ボクは、細やかな抵抗を試みる。
「きっと、忍のデートは失敗するもの。だから速攻で、津島君にサインもらったの。今日は水曜日でしょ? 潮目がいいの。今日を逃すと、木曜と金曜しかないもの。土曜日はダメよ。オッツーが遊びに来るから」
飛川さんが、しれっとオッツー君の話題をねじ込んだ。リア充の話なんて聞きたくもない。ボクの清い鼓膜が汚れてしまう。
「え? デートの前から、恋の破滅予告はよくないですよ」
「だって、友釣りよ。釣り針は、いつだってフリーじゃないとね。ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ」
飛川さんがほくそ笑む。またしても、悪代官のような悪い顔だ。でも、その予告は外れるだろう。
津島君ほどの美男子は、そんじょそこらに存在しない。裏を返せばクラスの女子の全員が、津島君を狙っている。
ほら、大西さんの目だって、さっきまでとはまるで違う。「何よ、あの女……」って感じのキツイ目だ。
さりとて、あれもこれも、なんだって。すべては、飛広コンビの策略だった。ボクがそれを知るのは、もう少し先の話のことになるのだけれど……。
「ところで……飛川さんは、どんな手口で花園先生を口説いたんですか?」
素朴な疑問だ。
「それは、なんのことだろう?」
とぼけんな!
「海洋生物研究会ですよ。花園先生だって、昼休みの僅かな時間で、そう簡単には落ちませんって」
「意外と鋭いのね、きいちゃんは。ニヒヒヒ」
楽しげに、リュックからスケッチブックを取り出す飛川さん。それを広げてドヤ顔をする。
「ジャーン!」
「こ、これは!」
スケッチブックの中で、今にも動きそうなイラストたち。その吹き出しには、格好いいセリフがずらりと並んでいる。
まさにこれは、丁寧に描き込まれた、上質な漫画って、感じである。不本意だけれど脱帽だ。
「す……すごいですよ、飛川さん」
「きいちゃん、もっと褒めて。月読ちゃんは褒められると、羽ばたくの」
そこに描かれていたのは、海洋生物研究会の活動内容だ。イラスト化すれば、ひと目で活動内容が把握できる。この完成度、とても中学生の仕業とは思えない。
「すごいですね。これを見せられたら、安易に断る理由が見つかりません」
「でしょ、でしょ! 春休み中に描いたんだぁ。最後まで見てよ、きいちゃん」
春休み? 小学生の作品だった。
「もちろんです。にしても、似ている感じが……」
そのイラストの雰囲気が、なんとなく、どことなく。テントウムシさんの絵と似ている気がした。
テントウムシさんは、ボクに明光中学受験を勧めた、イラスト描きのブロガーだ。この学校のどこかに、テントウムシさんがいるはずなのだが……飛川さんとは思えない。
「飛川さん。これは、素晴らしい研究ですね」
海洋生物研究会の活動内容は、瀬戸内海の生物を観察して、その生態調査が主たる研究の目的である。
「新生物を発見しようものならば───きいちゃんも、わくわくしない?」
「それは確かに!」
新生物を発見すれば、自分の名前を命名できる。歴史に名前を刻む発見。地味なようで、夢のある研究だ。
飛川さんの夢を垣間見たボクは、その夢を美しく信じた。そして、飛川さんを見直した。
「いつから活動しようかな?」
もう一度、飛川さんがボクに訊く。
「来週からでは、どうでしょう?」
それはそれ、これはこれ。ボクはこれから、ブログ王を読むのだから。
「忍ぅ。きいちゃん、オッケーだって!」
「そ」
ボクの予定は、けんもほろろに消えるのか?
「忍ぅ。サヨちゃんも、来るって」
「……」
広瀬さんの背中がピクリと動く。
「黄瀬君。校門の前で月読と待ってる、必ずよ」
広瀬さんが、頬を赤らめてそう言った。それは、ボクに対する反応ではなく、サヨちゃんに向けての反応である。それくらいのことならボクにも分かる。
教室の清掃当番を終えたボクが、校門前にさしかかると、飛広コンビはお喋りをしていた。そこには、教室では絶対に見られない、のびのびとした広瀬さんの笑顔があった。
いったい何を語らっているのだろうか? 広瀬さんの横顔が、いつもにも増して美しい。隣ではしゃぐ飛川さんだって、見ようによっては可愛いけれど、さりとて、広瀬さんの引き立て役になってしまう。神さまって、不公平だよな。
「きいちゃん、遅い!」
ボクの姿を見つけると、広瀬さんは、通常モードに戻ったようだ。すーっと、広瀬さんの顔から笑みが消えた。その切り替えが、ボクにはとても寂しく感じた……。
「学校から最も近い海までは、歩いて二十分ほどありますけれど? おふたりの大きな荷物は、海まで持っていくのでしょうか? ボクは、ロッカーに自分の荷物を置いてきましたが?」
まさか……「これ全部、きいちゃんが持つんだよ」とは言わないよな? ボクがビクビクしていると、校門前の公道に、一台のベンツが停車した。ゆっくりと、赤いベンツの窓が開く。運転席には、猫耳頭のお姉さん? 意思を持つかのように、頭の耳が自由気ままに動いている……。
「ツクヨちゃん、その子が噂の同級生? うふ、可愛いね」
ふわっとした、猫耳頭のお姉さんが、ボクを見てにこりと笑う。この人、どこかで見たことあるような……。
「さぁさぁ、みんな。乗って、乗って」
飛川さんは助手席へ、広瀬さんは慣れた様子で後部座席に乗り込んだ。
「早く、乗って」
広瀬さんの手招きに、ボクは広瀬さんの隣に座った。
「きいちゃんです。よろしくね」
飛川さんが、ボクを紹介すると
「緊張しなくていいのよ。ふふふふふ……」
お姉さんが微笑んだ。お姉さんが発する言葉に反応しているのだろうか? 猫耳がまた動く。この人、絶対にどこかで見たはずだ。ルームミラー越しに、お姉さんの胸に目をやると、そこにはチョモランマの双璧が……
「きいちゃん。この人が、ゆきちゃんです!」
この人、やしまーるのおっぱいゾンビだ。
「き……黄瀬学公です。今日は、よろしくお願いいたします」
ボクは冷静に対処する。本物のゾンビは、車の運転などしないのだから。
「あら、礼儀正しい子ね。ピチピチして、おいしそう」
これは、喜んでもいいのだろうか? いつの間にやら、ボクはゾンビの車に乗っている。飛広コンビに乗せられたと言うべきか?
国道を疾走する赤いベンツ。だが、このコース。ボクが思い描いた目的地とは、向かう方角がまるで違う。この車はどこへ向かっているのか?
「大丈夫、怖くない」
広瀬さんが、ボクの隣でにこりと笑う。その氷のような微笑みに、ボクの不安が煽られた……。
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