後ろの席の飛川さん〝009 海には保護者同伴で行きましょう〟

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 ベンツを操るおっぱいゾンビが、広い国道から狭い山道へと進路を変えた。ボクらを乗せた赤いベンツだ。

 山道に入った途端、車内がシーンと静まり返った。頑なに、ゾンビを否定するボクだとて、この沈黙には並々ならぬ恐怖を感じる。

 あの飛川ひかわさんが、ひと言も喋らない……。

 ボクは密かに腰を浮かせ、ドアのレバーに指をかけ、逃亡準備に取りかかる。こんなところで、喰われるものか!

 アップダウンを繰り返した山道の先で、ウインカーを上げ速度を落としたおっぱいゾンビが、小さな駐車場でエンジンを止めた。

 船着き場、漁船、堤防……どうやら、目的地は漁港のようだ───人がいる!

 こんなうれしいことはない。車窓から見える人影に、安堵のため息が漏れ落ちた。

「じゃ、ごゆっくり」

 おっぱ……ゆきさんが、スマホを開きながらボクらに言う。

「わたしはここで、大学のレポートを書いてるね」

 心の中で、ボクはゆきさんに詫びていた。一瞬でも疑って、ごめんなさい……。

「ほえ~」

 飛川さんが、気の抜けた返事をする。お前、さては寝ていたな! 広瀬さんは、何事にも動じない。

「それと晩御飯。ゆきも一緒に食べるからって、サヨちゃんに伝えといてね、ツクヨちゃん」

「任されてぇ~。月読、出ま~っす!」

 飛川さんが目覚めたようだ。

「きいちゃん、降りるよ」

「あ、はい」

 ボクは飛川さんの指示に従った。水色の空には、大きな雲がゆっくりと流れている。インドア派のボクだけど、この感じは嫌いじゃない。瀬戸の海の潮風と、春の日差しが心地いい。なんなら車の中に戻って、ブログ王の続きが読みたい気分だ。

「ここって、漁港ですか? 飛川さん」

「そうよ、鎌野漁港。サヨちゃんのお気に入り」

 山の裏手にある漁港には、数隻の漁船が浮かんでいる。地元の人だろうか? ちらほらと、お年寄りが釣り糸を垂らしている。

「ほら。堤防の先っぽで、釣っている人がサヨちゃんだよ」

 飛川さんが堤防の先に向かって指をさす。港はコの字になっていて、海がいけすのような形状だ。奥行きは、二、三十メートルくらいあるだろうか?

「あの、堤防の上で座っている人?」

「そうそう。あれ、あれ、黒パーカー」

 海を挟んだ堤防の先で、黒いパーカー服姿の男が、胡坐あぐらをかいて釣りをしている。佐々木小次郎の刀のように、彼の竿はとても長い。

「あのパーカー、背中に大きな文字が書いてあるね?」

「〝放課後クラブ〟って書いてるよ。きいちゃんのも作ろうか?」

 ありがとう。でも、いらない。

 そんなことより、サヨちゃんの風貌に驚いた。思ってた姿と違うのだ。とても中学生とは思えない、高校生とも思えない……ただの天パの兄ちゃんだ。

「サヨちゃーん!」

 飛川さんが、サヨちゃんに向かって手を振ると、サヨちゃんも手を振り返す。

「釣れたぁ~?」

 飛川さんの雄叫びに、彼の拳が天を突く。どうやら大物が釣れたらしい。

しのぶぅ、段取りヨロヨロ~」

「そ」

 釣りの成果を見に行ったのだろう。飛川さんは、一目散に駆け出した。残された広瀬さんは、ゆきさんのベンツから荷物を降ろす。自分の赤いキャリーバックと飛川さんのピンクのリュックだ。

「広瀬さん、段取りって何するの?」

「釣り」

 長い髪をひとつにまとめると、キャリーバックから何かを取り出す広瀬さん。伸縮タイプの短い釣り竿、リール、小さな仕掛けが入ったケース……。飛川さんのリュックからも、同様の釣り道具が姿を現す。

 広瀬さんは、手慣れた手つきで仕掛けを作る。それをボクは、手をこまねいて見ているだけだ。

「黄瀬君のは、サヨちゃんが貸してくれる」

 そこじゃない。

「ボクたちって……確か、海洋生物研究会だったよね?」

「そ。釣りを通して、海の生物の営みを肌で感じるの。はい、これ持って。私はバケツ」

 ボクは二本の竿を持って、広瀬さんの後ろをついてゆく。堤防の真ん中辺りに、広瀬さんがバケツを置いた。

 ここで釣りをするのだろうか? ボクが海を覗き込むと、そこかしこに小魚が泳いでいる。ボクはその魚影を目で追った。

 パカパカパカ……あの気の抜けた靴音は、飛川さんの足音だ。

「ど?」

 広瀬さんが釣りの成果を確認すると

「サゴシがちょろっとと、ちっこいアイナメだけだった」

 飛川さんの冴えない顔色。期待外れだったようである。

「そ……口ほどにもないわね」

 広瀬さんが小声で呟く。

「今日のサヨちゃんも、ザコかった!」

 飛川さんは大声だ。

 サヨちゃん。さっきから、ふたりにひどい言われようですよ?

「きいちゃん。これね、サヨちゃんから」

 飛川さんが、ボクに長い釣り竿を手渡した。ボクはもう一度確認する。

「ボクたちって……確か、海洋生物研究会ですよね?」

「そうだよぉ」

 飛川さんは、当然だと言わんばかりだが、ボクの方は釈然しゃくぜんとしない。

「どう見ても、これは釣り同好会なのですが?」

「そうともいうね」

 え? 急にボクはめまいを感じた。冷静になれ、冷静になれ、冷静になれ……自分で自分の気持ちを落ち着かせるボクである。落ち着くように努力した。

「それこそ、花園先生にバレたら大目玉ですよ! 理解していますか? 飛川さん」

「大丈夫よ。釣りだって、海洋生物の研究には必要なことだもん。レポートを提出すればオッケーでしょ? それと───海に行く時は、保護者同伴が条件だから。中学生だけで行っちゃダメよ。これだけは、会長として言っておくね」

 初めて知った。飛川さんが会長なんだ。

 どうやら、花園先生との交渉は成立しているようである。でも、そこには致命的な欠陥が残っている。

 この港には、ボクらの保護者が存在しない。どうやって、それをクリアするのかね? 会長さん。もしや、大学生のゆきちゃんとは言うまいね?

「でも、飛川さん。保護者って、誰ですか?」

「そこのパーカー野郎だよ」

 その時、ボクは口を滑らせた。

「サヨちゃんは、飛川さんの〝パパ〟なの?」

「黄瀬君!」

 咄嗟に横槍よこやりを入れる広瀬さん。

「え?」

「「……」」

 このやり取りを、心の底から後悔する未来があるなんて、その時のボクが知るよしもなく……。何事もなかったかのように、飛川さんは、笑って答えた。

「違うよ。飛川三縁は、私の叔父さん。私のママの弟だお」

「あの人が、ブログ王の?」

 サヨちゃんが、飛川三縁? ブログ王の作者で、広瀬さんの憧れの人? ボクの中で混乱が、鳴門の渦潮のように渦巻いた。ボクの中学生活があまりにも……濃ゆい。

「広瀬さん。それ、ホント?」

「そ」

「あの人が、広瀬さんの好きな人?」

 ボクは、飛川先生を指さした。

「……大好き」

 広瀬さんの透き通る白い肌が、見る見る赤色に染まってゆく。

 怒涛の展開に、ボクの想像力がおぼつかない。いたたまれない気分になって、ボクはゆきさんのベンツを見た。

「あ……」

 猫耳頭のゆきさんが、若い男にナンパされているのだが?

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