ベンツを操るおっぱいゾンビが、広い国道から狭い山道へと進路を変えた。ボクらを乗せた赤いベンツだ。
山道に入った途端、車内がシーンと静まり返った。頑なに、ゾンビを否定するボクだとて、この沈黙には並々ならぬ恐怖を感じる。
あの飛川さんが、ひと言も喋らない……。
ボクは密かに腰を浮かせ、ドアのレバーに指をかけ、逃亡準備に取りかかる。こんなところで、喰われるものか!
アップダウンを繰り返した山道の先で、ウインカーを上げ速度を落としたおっぱいゾンビが、小さな駐車場でエンジンを止めた。
船着き場、漁船、堤防……どうやら、目的地は漁港のようだ───人がいる!
こんなうれしいことはない。車窓から見える人影に、安堵のため息が漏れ落ちた。
「じゃ、ごゆっくり」
おっぱ……ゆきさんが、スマホを開きながらボクらに言う。
「わたしはここで、大学のレポートを書いてるね」
心の中で、ボクはゆきさんに詫びていた。一瞬でも疑って、ごめんなさい……。
「ほえ~」
飛川さんが、気の抜けた返事をする。お前、さては寝ていたな! 広瀬さんは、何事にも動じない。
「それと晩御飯。ゆきも一緒に食べるからって、サヨちゃんに伝えといてね、ツクヨちゃん」
「任されてぇ~。月読、出ま~っす!」
飛川さんが目覚めたようだ。
「きいちゃん、降りるよ」
「あ、はい」
ボクは飛川さんの指示に従った。水色の空には、大きな雲がゆっくりと流れている。インドア派のボクだけど、この感じは嫌いじゃない。瀬戸の海の潮風と、春の日差しが心地いい。なんなら車の中に戻って、ブログ王の続きが読みたい気分だ。
「ここって、漁港ですか? 飛川さん」
「そうよ、鎌野漁港。サヨちゃんのお気に入り」
山の裏手にある漁港には、数隻の漁船が浮かんでいる。地元の人だろうか? ちらほらと、お年寄りが釣り糸を垂らしている。
「ほら。堤防の先っぽで、釣っている人がサヨちゃんだよ」
飛川さんが堤防の先に向かって指をさす。港はコの字になっていて、海がいけすのような形状だ。奥行きは、二、三十メートルくらいあるだろうか?
「あの、堤防の上で座っている人?」
「そうそう。あれ、あれ、黒パーカー」
海を挟んだ堤防の先で、黒いパーカー服姿の男が、胡坐をかいて釣りをしている。佐々木小次郎の刀のように、彼の竿はとても長い。
「あのパーカー、背中に大きな文字が書いてあるね?」
「〝放課後クラブ〟って書いてるよ。きいちゃんのも作ろうか?」
ありがとう。でも、いらない。
そんなことより、サヨちゃんの風貌に驚いた。思ってた姿と違うのだ。とても中学生とは思えない、高校生とも思えない……ただの天パの兄ちゃんだ。
「サヨちゃーん!」
飛川さんが、サヨちゃんに向かって手を振ると、サヨちゃんも手を振り返す。
「釣れたぁ~?」
飛川さんの雄叫びに、彼の拳が天を突く。どうやら大物が釣れたらしい。
「忍ぅ、段取りヨロヨロ~」
「そ」
釣りの成果を見に行ったのだろう。飛川さんは、一目散に駆け出した。残された広瀬さんは、ゆきさんのベンツから荷物を降ろす。自分の赤いキャリーバックと飛川さんのピンクのリュックだ。
「広瀬さん、段取りって何するの?」
「釣り」
長い髪をひとつにまとめると、キャリーバックから何かを取り出す広瀬さん。伸縮タイプの短い釣り竿、リール、小さな仕掛けが入ったケース……。飛川さんのリュックからも、同様の釣り道具が姿を現す。
広瀬さんは、手慣れた手つきで仕掛けを作る。それをボクは、手をこまねいて見ているだけだ。
「黄瀬君のは、サヨちゃんが貸してくれる」
そこじゃない。
「ボクたちって……確か、海洋生物研究会だったよね?」
「そ。釣りを通して、海の生物の営みを肌で感じるの。はい、これ持って。私はバケツ」
ボクは二本の竿を持って、広瀬さんの後ろをついてゆく。堤防の真ん中辺りに、広瀬さんがバケツを置いた。
ここで釣りをするのだろうか? ボクが海を覗き込むと、そこかしこに小魚が泳いでいる。ボクはその魚影を目で追った。
パカパカパカ……あの気の抜けた靴音は、飛川さんの足音だ。
「ど?」
広瀬さんが釣りの成果を確認すると
「サゴシがちょろっとと、ちっこいアイナメだけだった」
飛川さんの冴えない顔色。期待外れだったようである。
「そ……口ほどにもないわね」
広瀬さんが小声で呟く。
「今日のサヨちゃんも、ザコかった!」
飛川さんは大声だ。
サヨちゃん。さっきから、ふたりに酷い言われようですよ?
「きいちゃん。これね、サヨちゃんから」
飛川さんが、ボクに長い釣り竿を手渡した。ボクはもう一度確認する。
「ボクたちって……確か、海洋生物研究会ですよね?」
「そうだよぉ」
飛川さんは、当然だと言わんばかりだが、ボクの方は釈然としない。
「どう見ても、これは釣り同好会なのですが?」
「そうともいうね」
え? 急にボクはめまいを感じた。冷静になれ、冷静になれ、冷静になれ……自分で自分の気持ちを落ち着かせるボクである。落ち着くように努力した。
「それこそ、花園先生にバレたら大目玉ですよ! 理解していますか? 飛川さん」
「大丈夫よ。釣りだって、海洋生物の研究には必要なことだもん。レポートを提出すればオッケーでしょ? それと───海に行く時は、保護者同伴が条件だから。中学生だけで行っちゃダメよ。これだけは、会長として言っておくね」
初めて知った。飛川さんが会長なんだ。
どうやら、花園先生との交渉は成立しているようである。でも、そこには致命的な欠陥が残っている。
この港には、ボクらの保護者が存在しない。どうやって、それをクリアするのかね? 会長さん。もしや、大学生のゆきちゃんとは言うまいね?
「でも、飛川さん。保護者って、誰ですか?」
「そこのパーカー野郎だよ」
その時、ボクは口を滑らせた。
「サヨちゃんは、飛川さんの〝パパ〟なの?」
「黄瀬君!」
咄嗟に横槍を入れる広瀬さん。
「え?」
「「……」」
このやり取りを、心の底から後悔する未来があるなんて、その時のボクが知る由もなく……。何事もなかったかのように、飛川さんは、笑って答えた。
「違うよ。飛川三縁は、私の叔父さん。私のママの弟だお」
「あの人が、ブログ王の?」
サヨちゃんが、飛川三縁? ブログ王の作者で、広瀬さんの憧れの人? ボクの中で混乱が、鳴門の渦潮のように渦巻いた。ボクの中学生活があまりにも……濃ゆい。
「広瀬さん。それ、ホント?」
「そ」
「あの人が、広瀬さんの好きな人?」
ボクは、飛川先生を指さした。
「……大好き」
広瀬さんの透き通る白い肌が、見る見る赤色に染まってゆく。
怒涛の展開に、ボクの想像力がおぼつかない。いたたまれない気分になって、ボクはゆきさんのベンツを見た。
「あ……」
猫耳頭のゆきさんが、若い男にナンパされているのだが?
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