後ろの席の飛川さん〝010 胃袋に魚を入れるまでが釣りだから〟

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 広瀬さんがこよなく愛する小説家は、広瀬さんの身近な人だった。その衝撃にたゆたう暇を、飛川さんは与えない。

 というよりも、さっきから殺気立っている。釣りはもっとこう、のんびりするもの……でもなさそうだ。

「きいちゃん、時は来たれり!」

 そう言うと、海を指さす飛川さん。飛川さんは、軍人さんか?

海面に視線を落とすと、なんだこれは? 魚の群れが、まるで巨大な生物のように海中をうねっている。飛川さんは、これを見越して「潮目がいい」と言ったのか。

 慣れた手つきで、飛広コンビが巧みに短い竿を操って、ジャンジャン魚を釣り上げる。これぞ、瀬戸の釣りガールって感じであった。

 釣りの仕掛けは単純で、小さな針が五本付いた細い糸の先っぽに、プラスチック製の網カゴを結ぶ。そのカゴの中にアミエビを入れたら、カゴを海に沈めるだけだ。

 それだけのことなのに、要領を得ないボクはもたついた。そんなボクを、飛川さんがけしかける。

「きいちゃん、カゴの中に撒き餌を入れて」

 いやぁ……あっちで、ゆきさんがナンパされていますけど? 飛川さんの目には、魚しか見えてない。

「カゴ? 撒き餌?」

 カゴってなんだ? 撒き餌ってなんだ?

「カゴは、プラスチックの青いヤツぅ! 撒き餌はアミエビ、エビのちっこいヤツぅ~!!!」

 ゾーンに入った飛川さんは、関ヶ原の勢いだ。

「飛川さん、できました」

 ボクは飛川さんに、言われたとおり実行した。

「きいちゃん、早くサビキを海に沈めてぇぇぇ!」

 その釣り用語の大行進、やめてもらってもいいですか?

「サビキとは?」

「そこからぁ? はぁ……」

 飛川さんのため息を見かねた、広瀬さんが口を開く。

「竿を持つ」

「はい」

「カゴを持つ」

「はい」

「海にカゴを沈める」

「はい」

「竿を上下させる」

「これでいいですか?」

「そ」

 ポツリ、ポツリと、広瀬さんからの助け舟。

「魚の群れは移動する。この場に群れが留まるのは長くて三十分。だから、遊んでいる暇はない。そして、時は待ってくれない。よろしいか?」

 これまでのボクとの会話で、最も長いセリフで喋る広瀬さん。的確な指示が、理想の上司って感じである。

「よろしいです! 竿が長くて使いにくいですが……」

「そ」

 海にカゴが沈むや否や、ボクの長い竿が大きくしなった───釣れたのか?

「うぉっ───なんかっ! すごいですよ、飛川さん! 竿がブルブルです」

 興奮で、ボクの語彙がゼロになる。

「きいちゃん、何やってんのぉ! それ、釣れてるからぁぁぁ、竿を立てるぅぅぅ!」

 飛川さんの言葉の端々に、宇宙戦争っぽさを感じるのだが……気のせいか?

「竿を立てる?」

 飛川さん、竿を……立てるとは?

「私を見る!」

 広瀬さんの声に僕は従う。

「はい」

 理想の上司、広瀬さんの動きを真似ながら、ゆっくりと竿を上げると、糸の先で暴れる魚が見えた。キラキラと魚の鱗が光っている。これは確かに面白い。初めての釣りに夢中になったボクは、ゆきさんのことなど忘れてしまった。

「やってんねぇ~」

 早々に釣りをやめた飛川先生が、クーラーボックスを肩に掛けてやってきた。クーラーボックスの中には、先生が釣った魚の他に、まな板と小さな包丁が入っている。

 堤防の麓に、広瀬さんのバケツをひっくり返すと、飛川先生はバケツの底にまな板を置いた。そして、包丁を取り出すと、流れる手つきで釣った魚をさばいてゆく。

 さばいた魚は、氷が入ったクーラーボックスの中へ直行だ。ボクが釣り始めてから、ほんの三十分のうちに、クーラーボックスがさばいた魚で満杯になった。

「ツクヨと忍。もう、終わりな。これだけあれば、今夜のイワシもアジも十分だ。お疲れさん」

 飛川先生の号令で、飛広コンビは釣り具の片づけの準備に入った。ふたりは、テキパキと働いている。学校にいる時よりも、ふたりの動きがイキイキしている。

「黄瀬君……だっけ? ツクヨがいつもお世話になってます」

 飛川先生がボクに笑った。

「いえ、こちらこそ。あ……今日、飛川先生の本を読みました。まだ途中ですけど、物語に惹き込まれました」

「読んでくれたの? ありがとう。うれしいです」

 飛川先生が照れくさそうな顔をしている。優しそうな天パ。それが小説家、飛川三縁の第一印象だ。

「もしかしてだけれど、俺の本って……忍から?」

「はい。今日のお昼に……あ、今日は五冊売れました」

「あちゃぁ~。忍の奴、まだやってたのかぁ……」

 そう言うと、飛川先生が手のひらを額にあてた。

「忍ぅ、学校で本屋はやめろって言っただろ? 公園でもやってるだろ? お前、無駄にキレイだから危ないんだって。男ってのは、オオカミなんだぞ!」

 飛川先生が広瀬さんに小言を言うと、広瀬さんから、あり得ない言葉が飛んできた。

「お前、うるさい」

 おま、おま、お前、お前、お前、お前……え……えええぇ~? 話題にすれば、頬を赤らめるほど大好きな小説家に向かって、広瀬さんが「お前」と言った。小説家に「うるさい」とも言った……なのに飛川先生は、苦笑いするばかりだ───甘いですよ、飛川先生!

 ボクには、広瀬さんの言動が許せない。あろうことか、小説家に対してそれはない。無礼千万、失礼にも程がある。

「飛川さん。今、広瀬さんが……先生に対して、お前って! 失礼すぎます!」

 ボクは飛川さんに詰め寄った。

「あ、あれね。いいの。いつもだから、気にしないで」

「いやいや。お前ですよ、お前ですから」

 そんなの絶対あり得ない! 

「大丈夫だお、そのうち慣れるよ。てか、きいちゃんさ。私じゃなくて忍に言えばぁ?」

「それは……」

何を言うんだ、飛川さん。そんなのボクが怖いじゃないか!

 飛川さんは、ボクの話を気にも留めずに、釣り具の片づけに集中している。

 ボクがもたもたしているうちに、軽トラの荷台に釣り具を乗せる飛広コンビ。遅れてボクは、ふたりの後を追いかけた。

「きいちゃんの荷物もこっちね。ゆきちゃんの車に臭いが移るでしょ? 帰ったら、水道の水で洗うから」

「この軽トラは、飛川先生のマイカーですか?」

「違うよ、イチロさんの」

「そうですか……」

 イチロさんとは誰なのか? 飛川さんは、それ以上を語らない。

「黄瀬君、乗って」

 ベンツの後部座席で、広瀬さんがボクを呼ぶ。

「飛川先生は?」

「いいの。彼の好きにさせてあげて……」

 広瀬さんの頬が、またまた桜色に染まってゆく……こいつぁ~、とんでもないツンデレだ。拗れたツンデレの上位互換だ! きっと、広瀬さんのそこかしこに、幾つもの地雷が隠れているのだろう。

 津島君の顔が目に浮かぶ。土曜のデートは大丈夫だろうか? 津島君、飛川三縁は強敵だよ。今日の出来事を、伝えるべきか、伝えざるべきか……そこが、問題だとボクは悩む。

 沈思しているボクに、ゆきさんが言う。

「さぁ、黄瀬ちゃん。これからが、パーティーの始まりよ」

 何を言っているんだ? この人は。

 バタバタした釣りだったけれど、時間にすれば一時間ほどの出来事だった。ボクたちは、ゆきさんの車に乗って帰路につく。

 ボクは急に疲れてしまって、車窓に流れる瀬戸の海を眺めていた。電池が切れたおもちゃのように、ボクの隣の広瀬さんは、いつものように動かない。

「ゆきちゃん、ナンパされてたでしょ?」

 バックミラーに映る、飛川さんの顔がニヤニヤしている。

「大丈夫よ、ナンパは慣れっこだから。サヨちゃんを彼氏だって言ったら、あっさりと引き下がっちゃったわ……つまんない」

 ゆきさんの頭の猫耳が、自由気ままに動いている。そりゃ、その双璧のチョモランマだもの。男なら、アタックしたくもなるだろう。そこに山があるのだから……。

「そうそう。きいちゃん、ママに電話して」

 思い出したように、飛川さんがボクに言う。

「それは、どういう意味でしょうか?」

「きいちゃんのママに、話があるの」

 それは嫌だ、断じて断る!

「お、お話とは?」

「だって、きいちゃんは───これから飛川家でご飯を食べるんだよ?」

 え? そんなの初耳だ。

「その前に、きいちゃんのママに連絡するのが礼儀でしょう? あのね、胃袋に魚を入れるまでが釣りだから。釣りはね、クーラーボックスで終わりじゃないの。ね、忍!」

「そ」

 広瀬さんの返事は短い。

「のんちゃんが言ってたの。何事も、ご両親から落としなさいって」

 飛川さん、のんちゃんって……誰ですか? さっきのイチロさんと相まって、飛川さんの人間相関図が、徐々に複雑さを増してゆく……。

 ボクには気になることがひとつあった。のんちゃんの響きに、広瀬さんの顔が強ばったことだ。

 広瀬さんの些細な仕草で、ボクは彼女の心の動きを感じるまでなっていた。なんとなくでは、あるのだけれど……。

「黄瀬ちゃん。今日のところは、ツクヨちゃんに任せれば? サヨちゃんの手料理、おいしいのよ。食べれば分かるわ。ふふふふ……のんちゃんが来られないのが残念ね」

 ゆきさんの言葉に、広瀬さんの表情が和らいだ。つまり、のんちゃんという人は、広瀬さんの恋敵……ということか?

「そうだ、きいちゃん。お誕生日、教えてよ」

 飛川さんが、ボクのプライベートに踏み込んだ。

「え? 五月七日ですけど……」

 ボクの誕生なんて、誰の得にもなるものか。

「ミラクル!」

 広瀬さんが、広瀬さんらしからぬ声をあげた。

「月読と同じ。お誕生会をしなければ……」

 なんとも言えない眼差しで、広瀬さんがボクを見る。

「黄瀬ちゃん、お誕生会が楽しみね」

 ゆきさんが、また訳の分からないことを言っている。お誕生会ってのは、ドラマやアニメの中にあるもので、友だちがいないボクにとって、無縁のイベントなのである。

「黄瀬君、スマホを貸して。私からお母さまに連絡してさしあげるわ。さしあげなきゃ、いけないの」

 広瀬さんって、ちゃんとした会話もできるんだ……しぶしぶスマホを渡すと、広瀬さんがボクのママと話を始めた。

「初めまして。黄瀬君の友人の広瀬忍と申します。実は今日、大量に魚が釣れまして……」

 広瀬さん。今、なんと? ボクが誰かに友人と呼ばれる日が来るなんて……それが嘘でもうれしかった。まぁ、普通に嘘だけど……。

「黄瀬君。お母さまが、代わってって───」

 広瀬さんの前で、ママと話すのが照れくさい。

「ガクちゃん、よかったわねぇ……ガクちゃんにお友だちだって。いいのよ、いいのよ。しっかり、おご馳走になってきなさい……」

 スマホの向こうでママの声が泣いていた。ちょっぴりボクは、親孝行をした気分になった。

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