後ろの席の飛川さん〝016 七つの海は、女の涙でできている〟

小説始めました
この記事は約5分で読めます。

 ボクへの誕生日プレゼントを発端に、姉ちゃんの初恋の相手が、桜木さんだと発覚した。でもそれは、ボクの想定の範囲内。うどん県は、日本で最も狭い県である。讃岐の田舎じゃ、あり得ないことでもない。むしろ、その逆。コミュニティは小さい。よくある話だ。

「姉ちゃん、それから?」

 姉ちゃんの恋バナに、ボクは耳を傾けた。

「ウチの高校じゃ、桜木先輩は、神童って呼ばれていたんだ。成績は群を抜いていて、常に学年トップだった。てか、全国模試でも上位だったらしい」

 桜木さんは、ボクの目から見てもそんな感じだ。

「沈着冷静で、いつも穏やか。そして、あのフェイス。ウチのような隠れファンは多かったと思う。でも、目に見えない壁を感じた」

「彼女とか、いなかったの?」

 そこは詳しく。

「まるで、次元が違うのさ。何人かの女子に告られもしただろうけれど、成功例をウチは知らない。いつも、三人一緒だった。偶に……おかっぱも混ざってた。なんだよ、あのチビは?」

 それは、告るのも大変そうだ。ムスッとした表情で、姉ちゃんが話を続ける。

「放課後クラブは、幼稚園の頃に結成されたそうよ。飛川ひかわ尾辻おつじ、近藤、二階堂。元々は四名構成で、桜木先輩は小学からの参入らしい」

「そんなに昔から?」

「名付け親は、二階堂先輩らしい……ねぇ、ガク。何を食べたら、あんなに胸が育つの? やっぱ、栄養かな? いい肉食べたら、大きくなるかな? どう思う?」

 そうだよね、ゆきさんといえば、胸にそびえる双璧だ。

「……遺伝じゃね?」

 ママだって、そんなに大きくないし。

「遺伝って治るのかな?」

 遺伝は病気じゃありません!

「で、姉ちゃんは……どうしたの?」

「おっぱいが?」

「桜木さんが!」

 ボクの今後に関わる問題でもある。しっかり話を訊き出さないと。

「バレンタインの前日に、ウチの恋は散ったのさ」

「告ったって、こと」

 姉ちゃんが、頬を赤らめて目を伏せた。

「告れなかった。だって、そうでしょ?」

 どうでしょう?

「バレンタイン前日の放課後。ウチは手作りチョコを、桜木先輩の下駄箱に入れようとしたんだ」

 知ってる、そんなシーンをドラマで見かけた。きっと、それが定番なのだろう……でも、下駄箱にチョコっての。ボクには不衛生に思えるのだが……。

「そしたらさ、桜木先輩が……いたんだよ。下駄箱に」

「中に?」

「前に! もしかして、ガク。ウチをバカにしてる? まぁ、それはいいわ……ちょっと待って。心の整理するから」

 いつも強気の姉ちゃんが、胸に手を当てて深呼吸をしている……え、あの姉ちゃんが? いったい、下駄箱で何があったんだ! 続きを早く、もっとくれ。

「ウチは、見てはいけないものを……見てしまったんだよ」

 姉ちゃんの頬から色が抜けてゆく。

「別の女の子に、下駄箱の前で告白されてたとか?」

 それ以上のことが思いつかない。

「だったらマシよ、戦えるもの。桜木先輩……下駄箱の中にチョコを入れたんだ。ウチは、目の前が真っ暗になった……」

 状況が把握できない、ボクである。

「ちょっと、姉ちゃん。話を整理しよう。桜木さんが、放課後に下駄箱の前にいて、誰かの下駄箱の中にチョコを入れた……ってことで、いい?」

「そう、確かに入れた。ハートの絵柄のラッピングがしてある、可愛らしいチョコだった───あぁ、なんてこと……地獄やぁ~!」

 一旦、バレンタインのルールを外そう。別に、男子から女子へチョコを渡しても、よしとしよう。ボクも心の準備を整えた。

「桜木さんのハートを射止めた女子とは?」

 こんな弱気の姉ちゃんを、ボクは今まで見たことがない。

飛川三縁ひかわさより……」

 蚊の鳴くような声で姉ちゃんが言う。これは、三島の禁色きんじきだ。

「あの時の気持ち、ガクに分かる?」

「分からないけど、辛いのは分かる」

「でしょ、でしょ? 飛川三縁が相手だなんて……姉ちゃんさ、思ってもみなかったわ!」

「康子だよ」

「康子って?」

「三島の小説の話だけど……訊く?」

「いらねー」

 姉ちゃんがそう言って、テーブルに突っ伏した。

 桜木さんが、先生にチョコを渡した。現実は小説よりも奇なり……か。ボクは何も言えなくなった。

 飛川さんは、BL小説の表紙絵を描いているそうだ。放課後クラブでは、そういうのが当たり前なのだろうな……。頑張ろうな、姉ちゃん───強く生きよう。

 姉ちゃんのつむじを見守るボクである。

「で、桜木先輩。どうだった?」

 ムクっと顔を上げた姉ちゃんが、桜木さんの今を訊く。

「うん。シュッとした美男子だった」

 美男子なのだから嘘はつけない。

「じゃ、飛川先輩と一緒にいたの?」

 姉ちゃんの目が切なげだ。

「先生には彼女がいるよ。早川花音はやかわかのんさんって、美人の彼女が……」

 でもこれ、姉ちゃんに言ってよかったのか? 変なスイッチを入れたかも。

「じゃぁ~さ、じゃぁ~ね、フリーってこと?」

 姉ちゃんの目に光が宿る。獲物を狙う、オオカミのような眼光だ。

「とは言ってない」

「姉ちゃんさ、リベンジやろっかな。ガクは、桜木先輩の連絡先を知ってるよね? 教えてよ」

 可能性はゼロじゃない。でもそれは、限りなくゼロである。姉ちゃん、手を打つのが遅すぎだ……。

「でも……桜木さんは、T大生だよ」

「だよねぇ……。どんなに好きでも遠距離だしねぇ……。やっぱ、ウチ。身近な男を探すわ」

 桜木さんに、二度もフラれた姉ちゃんだった。どちらも不戦敗であるのだけれど。

「ところで姉ちゃん。今夜の合コンは?」

「最悪じゃい!」

 プリンを一気にたいらげて、ガツンガツンと姉ちゃんが、スプーンでカップの底をつついている。

 ボクは思う。今夜だけでも優しい弟でありたいと。

「姉ちゃん。これ、食べてないから」

 ボクは、そっと姉ちゃんの前にプリンを差し出した。姉ちゃんは二個目のプリンに手を伸ばし、鼻をすすりながらこう言った。

「ガク……覚えてな。七つの海は、女の涙でできているのよ。ウチ、もっとキレイになってやる───」

 姉ちゃんの前向きな宣言に、ボクは内心ホッとした。そして思った。瀬戸内海は、七つの海には入らない……。

コメント