前の席の広瀬さんは、ミステリアスな美少女だ。ポーカーフェイスで、ほとんど言葉を発しない。
ただ、例外もある。
コソコソと早口で、飛川さんだけに耳打ちをする。そして、屈託のない笑顔を見せるのだ。このふたり、どんな会話をしているのだろうか? ボクの悪口じゃないことを祈る。
「ねぇ、きいちゃん」
後ろの席の飛川さんは、いつもの笑顔で問いかける。
「放課後は、真っすぐ帰るの?」
「ええ、そのつもりですけれど? 中間テスト期間は、海洋生物研究会もお休みだと聞いていたので……」
まさか……お休みだから、釣りに行こうとは言うまいね?
「だったら、うちに寄ってくれる?」
飛川さんの家は学校に近い。行くのは別に構わないけれど、ボクには、それなりの理由が必要だ。ホイホイと、男子が女子の家には行けないよ。一緒に勉強しようって魂胆だろうか……。それなら断る。
「どういった、ご用件で?」
「サヨちゃんがね、きいちゃんに釣り竿くれるって。あんなに長い竿なんて、学校に持ってこれないでしょ?」
ボクは、飛川さんのリュックに目を移す。十分、入りそうではあるのだけれど……。
「分かりました」
飛川先生は、何かとボクを気にかけてくれる。
「私、ホムセンで画材を買って帰るから、ちょっと遅くなるの。でも、忍がいると思うし、ばあちゃんもいるから、忍と一緒に待っててくれる?」
「かしこまりました」
「あ、それと……」
「はい?」
「きいちゃん、そろそろ敬語はやめてほしいかなぁ……」
そう言うと、飛川さんは教室を飛び出した。
釣り竿かぁ……自分の竿を持たないボクは、ウキウキした気分で飛川家へ向かった。
「あら、黄瀬君ね。ツクヨから話は聞いてるわ。私、これからパートなの。リビングに忍ちゃんがいるから、ふたりでお留守番お願いね」
飛川家の前で、ボクは見知らぬ女性に声をかけれられた。
「飛川さんのおばあさまでしょうか? いつも、飛川さんにお世話になっています。お留守番は、お任せください」
「あら、礼儀正しいのね。なんだか、桜木君みたい」
桜木さん……ボクの脳裏に、姉ちゃんの顔が浮かんで消えた。
「そうそう、三縁が奈良漬け作ったの。麦茶と一緒に食べてみて。忍ちゃん、おいしいって食べているわ」
「ありがとうございます」
飛川先生は料理が得意だ。シュークリームも、アジフライも、なんでも器用に作ってしまう。
挨拶を済ませると、おばあちゃんは、スクーターに乗ってパートへ出掛けた。
「お邪魔します」
リビングへ入ると、広瀬さんの背中が見えた。ポリポリと、彼女は奈良漬けを食べている。飛川さんが帰るまで、これから沈黙の時間が続くのか……。
「黄瀬ぇ、そこへ座れ」
「え?」
ボクは周りを見渡した。広瀬さんの声だけれど、口調がまったくの別人なのだ。
「はよう、しねっ」
───早く、死ね?
十三年の人生で「死ね」と言われたのは、恐らく初めて。壮絶なイジメの中でも、そのワードは出なかった。
思い詰めたボクに、遺書でも残されたら困るからだ。すぐに噂が広がってしまうがゆえに、都会のイジメよりも陰湿だ。
広瀬さんの前に座ると、彼女の顔が真っ赤である。充血した瞳の奥で、何を考えているのか分からない。それは、いつものことだけれど……。
「大丈夫? 顔が真っ赤だよ」
ボクの問いかけを、誰が非難できようか? ボクは広瀬さんが心配で、当然の言葉を発したまでだ。それなのに……
「三縁は、どこじゃ?」
じゃ?
「分かりません」
広瀬さんが、奈良漬けに手を伸ばす。
「おい、黄瀬! 黄瀬は、三縁をどう思う?」
「え?」
「ワシは飛川三縁が、もんげー好きじゃ。幼稚園の頃から、でれえ好きじゃ。そしたら、花音が横取りじゃ……」
ボクは、何を聞かされているのやら? トクトクと、新しいコップに麦茶をそそぐ広瀬さん。どうやらボクの分らしい……。
「飲め。でーれー冷えちょる」
麦茶の中に、酒でも……? 恐る恐る麦茶を舐めるが、麦茶に異常はないようだ。
「口を開けぇ」
そう言って、ボクの口に奈良漬けを突っ込む広瀬さん。舌先に、ふわっと不思議な味が広がった。これたぶん……お酒が入ってる。つまり、広瀬さんは酔っている?
「うめぇ~じゃろ? 三縁の料理は最高じゃぁ!」
おいしそうに、奈良漬けを頬張る広瀬さん。もう、その辺で……。
「黄瀬よぉ。花音のこと、どう思う?」
「飛川先生とお似合いで……」
ヤバっ、超特大級の地雷を踏んだ。
「あ? お似合いじゃ? おい、黄瀬。あいつは、ワシから三縁を奪った泥棒猫じゃ。そうは思わんか? 思うじゃろ?」
こいつはダメだ。手に負えない。スマホを取り出し、ボクは高速でメッセージを打ち込んだ。もちろん、宛先は飛川さんである。
───お疲れさまです、飛川さん。広瀬さんが奈良漬けを食べて、大変です。
送信の直後に返信がきた。
───奈良漬け食べたの? すぐに帰る。
是非とも、超特急でお願いしたい。
「ワシは、キレイか?」
広瀬さんの話題が変わった。彼女を褒めるところは山ほどある。飛川さんが帰るまで、この話題で時間を稼ごう。
「広瀬さんは、キレイだよ。その証拠にモテるでしょ」
広瀬さんがニヤリと笑う。
「そうじゃ。ワシはキレイじゃ。なのに、なんでじゃろ? 三縁はワシになびきもせん───なんでじゃ?」
話題が戻った。
「あの泥棒猫、どうしてやろう」
誕生会では、楽しげに会話していた相手に対して、随分と辛辣な言い草だ。女は怖いな……ボクは思う。
「そうじゃ、そうじゃ……ひっひっひ」
広瀬さんが不敵な笑みを浮かべている……その微笑みに、美人ならではの恐怖を感じる。ボクは心で懇願した。飛川さん、一刻も早く帰ってきて! お願いだ。
すると、飛川さんがリビングに飛び込んだ。
「忍、大丈夫?」
「月読ぉ~」
今にも泣き出しそうな広瀬さん。
「うん、うん。辛いね、辛い、辛い」
飛川さんが、広瀬さんを抱きしめた。
「月読ぉ~。あの泥棒猫がぁー」
ついに広瀬さんが泣きだした。見ているこっちが痛々しい。ボクは飛川さんに問いかけた。
「飛川さん、先生は?」
「サヨちゃんは、帰ってこないよ」
「え?」
「え? じゃないわよ。サヨちゃんだって、困るでしょ。この話は、何年も前に終わっているの。だから、サヨちゃんの出番はないの。忍はね、これから新しい恋を探すのよ」
飛川先生と広瀬さんとの間に、いったい何があったのか? ボクらの会話を気にもせず、ゆっくりと奈良漬けに手を伸ばす広瀬さん。
「もう、ダメよ! 忍ちゃん」
その手をピシャリと叩く飛川さん。まるで、お母さんのような振る舞いだ。
「はい、膝枕」
飛川さんはそう言って、自分の太ももをパンパンと叩くと、
「づくよぉぉぉ~」
吸い込まれるように、飛川さんの太ももに顔を埋めると、広瀬さんはシクシクと泣いている。これが、恋の病というヤツだろうか?
「ちょっと、寝ようねぇ~」
広瀬さんの長い髪を、優しく撫でる飛川さん。艶やかな広瀬さんの黒髪が、キラキラと光っている。
「きいちゃん、ごめんね。忍の岡山弁、びっくりしなかった?」
あぁ……だからか。
「はい、『早よ、死ね』と言われました」
広瀬さんは、スヤスヤと眠っている。
「それなー。『はやくして』って、意味だよ」
「そうなんですね」
残念だけれど、釣り竿の件は見送ろう。この場を飛川さんに任せて、ボクは帰宅の準備に取りかかる。
「では、こんな状況ですから……ボクは家に帰りますね」
明日。広瀬さんに、どんな顔をすればよいのだろう。それを、ちょぴり不安に思う。
「きいちゃん。忍のこんな姿を見られたから、きいちゃんだけに話しとくね。学校で忍が喋らないわけと、サヨちゃんとのこと……」
そうなのか、このまま帰らせてはくれないんだ……。スマホを見ると、時刻は午後四時二十分を回っていた。ママに連絡しておかないと───今日の帰宅は、遅くなるかも?
コメント
わしも、ちょっくら奈良漬け買ってくるわ〜。
いってらぁ~(笑)