生理現象とは不思議なもので、時間の法則性があるようだ。三時限目の休憩時間。決まってボクはトイレに駆け込む。明光中学に入学してからというもの、これがボクの習慣になっていた。
隣のクラスの中原君も、ボクと同じサイクルで生きているようだ。毎日のように、トイレで彼と顔を合わすけれど、言葉を交わしたことは一度もなかった。
まぁ、別のクラスの生徒である。率先して、ボクから話しかける相手でもない。
「なんでやろ? モテないなぁ~」
これが彼の口癖だ。いつも前髪を弄りながら、鏡に向かって呟いている。まるで白雪姫の継母のよう。気持ち悪いとボクは思った。
獲物を狙うトラの目で、津島君を追う姿はそこになく、モテたいだけの悩める子羊。トイレの中原君はそんな感じだ。
今朝は腹の具合が悪くて、二時限目の休憩時間に、ボクはトイレに駆け込んだ。きっと、飛川さんがくれた飴玉が悪かったのだろう。「これ、変な味しない?」とか言ってたし……。
「なんでやろ? モテないなぁ~」
洗面台で手を洗うボクの横で、前髪を弄りながら鏡に呟く中原君。どうやら、休み時間になると鏡の前に立っているようだ。
いつものように、洗った手をハンカチで拭く。いつもと違うのは、中原君だ。
「なんでやろ? モテないなぁ~。そう思うやろ? 黄瀬君も」
その質問をボクにする?
「え?」
心と体がドン引いて、刹那にボクは二歩下がる。少し離れて返事はすれども、それは社交辞令というヤツだ。
「う~ん。女の子と付き合ったことないし……てか、ボクらまだ中一だし……」
ボクの返事に、中原君の目が輝いた。
「マジで? 俺でも、女子と付き合ったことあるでぇ~」
勝ち誇った顔に殺意が浮かぶ……こいつもダメだ。早く教室に戻りたい。この場から、一刻も早く立ち去りたい。けれど、心の叫びは届かない。
「黄瀬君のクラスに、津島っておるやろ? あいつ、モテるやん。俺な、あいつの足に追いついたら、教えてもらうことになってんや」
「教えてもらう?」
その話、じっくり聞かせてもらおうか。興味ある。
「モテる秘訣」
なんだそれ?
「あいつ、モテるやん。きっと、攻略法とかあるんやで。じゃなきゃ、あんなにモテるはずがない。この前だって、一組の美少女と……広瀬さんだっけ? デートしてたやろ?」
残念ながら、失敗したけど……。
でも、そういうことか。ボクは誤解していたようだ。中原君は、意地悪で津島君を追いかけ回していたのではなくて、モテたいがために、津島君の背中を追っていたのだ。
「いつから津島君を追いかけてるの?」
「小五の夏から。でもな……あいつ、足が速いから追いつけへん。でもな、もう少しで背中に指が届きそうなんや───もう、ちょいや。あと少し!」
鏡の中の己の姿に、語りかける中原君。
「津島の野郎が、急に明光中学に入るって言い出したもんやから、俺、猛勉強して……この中学に来たんやで」
モテたい一心で受験したの? なんだかもう、お気の毒。
「でも、すごいね。すごいよ、中原君。だって、俊足の津島君の足に追いつく寸前なんだから。ボクは中原君を応援するよ」
心からの声援である。
それだけのことを彼はしてきた。生半可な努力じゃない。その努力は報われるべきだ。
「ほんまに?」
「ほんとに」
ボクの右手を両手でつかむと、中原君は腕をブンブンと上下させた───握手である。
「俺たち、心の友やな」
それは、悪手かもしれない……。
「ど、どうして?」
「だって、応援するって言ってくれたやん。だったら、俺たちはマブダチやん!」
友だちも親友も彼女も何もかも。ボクには無縁の存在だった。それを、不要だとも考えていた。この中学で飛川さんと出会ってから、ボクの人生は一変した。
マブダチか……その響きが心地いい。トイレで芽生える友情もあるのだ。ボクはうれしくてたまらない。
「ボクの名前は、黄瀬学公です。これからよろしくお願いします」
ボクは素直な気持ちを彼に伝えた。マブダチかぁ~。こんな日が来るなんて。
「俺の名前は、中原中。こちらこそ、よろしくな」
ボクらは再び、固い握手を交わした。
「黄瀬君は、本が好きやろ?」
どうして、それを知っている?
「まぁ、三島を少々……」
「だったら───」
上着のポッケから本を取り出す中原君。表紙には〝十ヶ月の奇跡〟と書いてある。乙女チックなイラストが印象的だ。
「友情の印に、このラノベを読んでみる?」
ラノベの知識に疎いボクは、まじまじと表紙を眺めた。作者名は、旅乃琴里……知らないな。
「この本は、ラノベのプリンセスが書いた小説やで」
小説家の中にもアイドルがいるようだ。
「この本は、俺の恋愛の参考書でもあるんや。黄瀬君もこれを読んで、乙女心を勉強すべきや。気いつけやぁ~、ラストで泣くでぇ~」
パラパラとページを捲ると、鉛筆で引かれた棒線が……それにこれ、コメントだ。
「これは?」
「そこ、重要なとこや。しっかり記憶しまい、試験に出るで」
にこやかに笑う中原君。小説よりも、彼のコメントに興味が湧いた。〝ここが壁ドンのタイミング〟とか書いてある。
「ありがとう。ボクからも本の差し入れするね」
今の彼に見合う作品は、三島由紀夫の〝潮騒〟だ。
「楽しみにしてるで、ほんだらの(またね)」
トイレでの再会を約束して、ボクらはそれぞれの教室に戻った。
教室では、平岡君と津島君とがサッカー談義に花を咲かせている。
「中原の奴、急成長しているな。もうすぐ津島の背中に追いつくぞ。背も伸びているから、そろそろか? 奴は化ける」
平岡君の声である。中原君の話題が気になって、ボクは歩く速度を少し緩めた。
「そうだね、そろそろだね。市の大会までには、間に合うだろうね」
中原君もサッカー部員。ふたりの話題に彼が登場したとて、なんら不自然なこともないだろう。ボクをマブダチと呼んでくれた、中原君の悪口でなければそれでいい。
ボクは心の中で安堵する。すると、平岡君の口からボクの名前が飛び出した。
「体育の時の黄瀬のプレイ、津島の目には、どう映る?」
サッカーの話題に、どうしてボクが?
「一回限りだろうけれど、あの特性は戦力になるよ。僕らが海洋生物研究会に入ったのは、あながち無駄ではないかもね───面白いよ、黄瀬君も」
ボクの耳に届くよう、ふたりが語っているのは明らかだ。彼らの意図は不明だけれど「一回限りの戦力」が、ボクの中で燻った───。
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