後ろの席の飛川さん〝021 誰にでも、口に出せないわけがある〟

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 ふたりきりだ……

 広瀬さんと、山の中でふたりきり。もしこれが、男子生徒の耳に入れば、どんなに羨むことだろう。だが、現実はそうでもない。むしろ逆。

黄瀬きせ君。これを着て」

「うん」

 手渡されるままにヤッケを着る。ナイロン製の薄手の生地で、胸にポッケがついている。

「黄瀬君。これつけて」

「はい」

 手渡されるままに手袋をつける。ナイロン素材で、手のひら側には天然ゴムがコーティングされている。

「黄瀬君。これ、かぶって」

「え?」

 頭からフェイスマスクをすっぽりかぶる。冷やっとして、かぶり心地は悪くない。でも、必要性を感じない。

「じゃ、これ最後」

 やっぱり大きなゴーグルだ……なんだこれ? こんなのアメコミヒーローのモブキャラじゃないか。

「……」

 相も変わらず、無表情を貫く広瀬さん。眉ひとつ動かさない。

「……」

 永遠にも思えた沈黙の後。ようやっと、広瀬さんがつびやいた───

蒸着じょうちゃく!」

 低い声で言うや否や、広瀬さんが装備を固めた───宇宙刑事……いや、強盗じゃん! てか、広瀬さん。そこは、お約束の〝変身〟なのでは?

「黄瀬君、始めるわ」

 ゴーグルを装着すると、謎のスイッチが入った広瀬さん。

「何を?」

 当然の返事である。

「桃の摘果てきか

 桃の摘果? そんな話は聞いてない。それよりも、摘果って……なんでしょう?

「広瀬さん、摘果とは?」

「間引き、疎抜おろぬき。もしくは───殺す」

 物騒に、物騒を重ねる広瀬さん。

「黄瀬君、月読つくよに聞いてないの?」

「ええ、どれもこれもが初耳です」

「チッ!」

 今、舌打ちした? 舌、打ったよね?

 広瀬さんが、さげすむような目でボクを見つめる。貴重な休日を捧げたというのに───ボクはやるせない気持ちでいっぱいだ。

「五月になると、桃の摘果シーズンに入るわ。毎年、私と月読は摘果作業の手伝いをしているの。もちろん、ボランティアでね。でも、この後期高齢化社会でしょ。現場は深刻な人手不足なの。だから、黄瀬君を誘ったの───さぁ、時は来たれりよ」

 トコトコと、林に向う広瀬さん。ようやくボクは気がついた。そっか、これが桃の木かぁ。思ったのと、なんか違う。

「事情は理解したけれど、ふたりが手伝う理由とは?」

 ボクの話は終わっていない。

「ここは、サヨちゃんのおじさんの桃畑なの」

「飛川先生の?」

「そ」

 甘んじてそこは受け入れよう。

「おじさんには娘さんがいるけれど、嫁いでしまって、跡取りがいないのよ。だから、サヨちゃんとオッツーが、臨時で伝いを始めたの。サヨちゃんが中二の頃だったわ。必然的に月読も参加よ」

 そこまでは理解した。でも、広瀬さんが手伝う理由がどこにもない。

「それ。言ってみれば、飛川ひかわ家の事情でしょ? 広瀬さんは、どうして?」

「……」

 広瀬さんが、無言で桃の枝に手を掛けて、そのままボキッとへし折った───広瀬さん、怒ってる?

「何をしているんですか! そんなことをしたら怒られますよ」

 広瀬さんは無表情だ。無表情のまま、話しを続ける。

「この実をAとします───」

 桃の実を指さして、さっきと同じ説明が始まった。Aとか、Bとか、Lだとか……数学の授業のようなレクチャーの後で、広瀬さんがボクに問う。

「───黄瀬君。分かった?」

「分かりません」

 当然だ。

「やっぱりね」

 ばっさりだ。

 ボクの回答は想定済みか? 木の根元に置かれた段ボール箱から、紙の束を取り出す広瀬さん。

「じゃ。黄瀬君は袋をかけて。実は私が殺すから───」

 殺すのか……。

 広瀬さんから受け取った、薄い黄色い紙の束。ひとつひとつは筒状になっていて、上側に細い針金がついている。

「こうやるのよ」

 広瀬さんは手慣れた手つきで、桃の実に袋をかけた。見よう見まねでボクもやる。

「黄瀬君、合格」

 これは……褒められたのか? それとも嫌み? ボクが判断に迷っていると、救世主が現れた。

「やってんねぇ~」

 これぞまさしく地獄に仏。大きな脚立を背たろうて、飛川先生のお出ましだ。

「飛川先生、おはようございます」

 ペコリとボクは頭を下げると

「黄瀬君。今日は、ありがとな」

 ニコリと先生が微笑んだ。

「先生、ボクの袋のかけ方。これで合っていますか?」

 先生が、ボクの袋を覗き込む。

「初めてなのに、うまいもんだ」

 そう言って、先生がボクの頭を撫でてくれた。この安心感が───もう、たまらん。

「じゃ、俺は上に行くから」

 脚立きゃたつを地面に据えつけると、先生は脚立の梯子はしごを登っていった。高い枝の実を落としながら、手際よく袋をかける。そこには小説家とはまた別の、飛川三縁の姿があった。

「広瀬さん、ボクたちの脚立は?」

「私たちの脚立はないの。私たちが怪我をすると、おじさんたちが困るでしょ。私たちは、ボランティアの子どもなの。身の程をわきまえて」

 広瀬さんが語尾を強める。

「でも……あれは?」

 ボクが指さす林の中で、飛川さんが、キャッキャと脚立を担いで走っている。

「月読はいいの、猿だもの」

 親友に対して、随分な言い草ですね。

 先生が脚立を立てた木の下で、広瀬さんは摘果を始め、ボクは摘果済みの実に袋をかける。

「広瀬さん、どうして摘果をするのかな?」

「根から吸った栄養を集中させて、実を大きくするためよ。それと、実の重さに耐えられなくて、枝が折れるのを防ぐため。だから、月読が先行して摘果しているの。お年寄りには重労働でしょ?」

 桃の世界も奥が深い。黙々と、ボクは作業に勤しんだ……ちょっと待て。しばらくして気づいてしまう。チラチラと、広瀬さんの目が先生を追っている。

〝広瀬さんは、どうして?〟広瀬さんは、その質問には答えなかった。そういうことかと、ボクは思った。その心根こころねは嫌いじゃない。

「ねぇ~、きいちゃん───!」

 林の中から飛川さんが、いつもの笑顔で駆けてくる。グルグルと何かを振り回しているのだが?

「黄瀬君、逃げて!」

 広瀬さんが、らしからぬ声でボクに言う。

「逃げるって?」

「月読が持っているの。あれ、ヘビよ!」

 ボクは、野生のヘビを見たことがない。

「ヘビって?」

「きっとあれは、毒蛇よ!」

 咄嗟にボクは先生を見た。先生の耳は、白いヘッドホンで覆われている。つまり、誰の叫びも届かない。頼みの綱はブチ切れた───

「きぃーちゃーん! これ、見てぇ~! 野生よ、野生。にゃはははは……」

 高笑いをしながら、ボクに駆け寄る飛川さん。ボクは恐怖で立ちすくむ。その時、ボクは気づかなかった。広瀬さんの思惑に……。

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