後ろの席の飛川さん〝022 好きな人とふたりきりになるのは難しい〟

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「ねぇ、きいちゃん」

 クラスメイト飛川ひかわさんは、いつも笑顔で問いかける。飛川さんは、ボクを引きこもりの世界から、外の世界へ連れ出してくれた恩人だ。ボクは彼女に感謝の気持ちしかないのだが、今は恐怖だけしか感じない。

 だって、そうだろ? ヘビを振り回しながら、自分に突進する少女がいれば、怖くてその場に立ちすくむ。誰だって、そうなるさ。

黄瀬きせ君。しっかりして、逃げるのよ」

 広瀬さんの口数の多さが、ことの重大さを物語る。

「きぃーちゃーん! にゃはははは」

 その一方で、走るゾンビ化している飛川さん。ボクとの距離がドンドン縮む。

「飛川さんが、どうしてヘビを?」

 逃げる前に、それだけは知っておきたい。

「今の月読つくよは、猫なの」

 あれは、どう見たってゾンビだよ。

「猫は飼い主に贈り物をするわ。捕らえた獲物を飼い主に見せるでしょ? 月読は、それをしたいのよ」

 飛川さんなら、やりそうだ。

「逃げるって、どこへ?」

「そこのコンビニよ。ここへ来る途中にあったでしょ?」

「ありました。青い看板のコンビニですね」

「そ。いくら月読がバカでも、コンビニの中にヘビを持ち込むことはできないわ」

 確かに。桃畑からコンビニまで、自転車で坂道を下れば約三分。よし、イケる! ボクの中で、逃走プランが整った。これから始まる鬼ごっこ。つかまったら、おしまいだ。

「広瀬さん。後は、よろしく頼みます」

 ボクが自転車にまたがると

「もう、帰ってこなくてもいいのよ」

 そう言って、薄ら笑みを浮かべる広瀬さん。その笑顔が気になるけれど、そんなことなど言ってられない。一目散にコンビニ目指して、ボクは自転車でひた走る。全力でコンビニへ飛び込むと、ボクは奥の棚から様子をうかがう。

「いらっしゃ……月読ちゃんじゃん!」

 ほどなくして入店した飛川さんが、店内を見渡している。

 ゲッ! 飛川さんの右手には、ヘビではなくてレジ袋。きっとレジ袋の中で、ヘビがとぐろを巻いているのに違いない。ボクはすっかり忘れていた。ああ見えて、飛川さん。明光中学を成績トップで合格したのだ。バカであろうはずがない。

 棚の陰に身を隠し、しゃがみ込んで考える。落ち着け、落ち着け……逃走経路を模索するのだが、飛川さんは敏速だ。逃げ切れる可能性は、限りなくゼロである。もはや、頼みの綱は店員さんだけである。ヘビの存在に気づけば、飛川さんを店から追い出してくれるだろう。

「ねぇ、エリちゃん。さっき、中学生くらいの男の子が入ってこなかった?」

 ふたりは知り合い? 当てが外れた。

「男の子? その子、ボーイフレンドな?」

「ちゃうわ」

 店員さんに合わせているのか? 讃岐弁全開だ。

「じゃ、彼氏な?」

「そんなんと、ちゃうわ」

「オッツー君にフラれたん?」

 店員さん。それ、地雷ですよ。

「わたしのオッツーは、そんなことせんわ」

「だったら、なんで探しよん? 金でも貸したん?」

 なんてことを……。

「それもちゃうわ。桃畑から脱走したんよ」

 ボクは脱走していたのか。

「その子、月読ちゃんがいじめたんな?」

「いじめてないわ」

「ふう~ん。脱走犯ねぇ~」

 マズい、エリさんと目が合った。女神に祈るかのように、ボクは首を横に振る。

「そこにおるで」

 出会ったばかりで、裏切りかっ! 一生、あなたを恨みます!

「きいちゃん、めっけ!」

 満面の笑みを浮かべた飛川さんは、ガサっとレジ袋に左手を突っ込んで、ズルって感じで中の物体を引きずり出した。長い……しかも……デカい! 咄嗟に身を引くボクである。

「ヘビだっ!」

「ヘビちゃうわ!」

「野生のヘビだ!」

「野生のキュウリや」

「え?」

 飛川さんの左手をよく見ると、確かに太くて長いキュウリである。

「これは……キュウリですね、飛川さん」

 冷静さを取り戻すと、緊張の糸が切れたボクは、ふにゃりと床に座り込む。そんなボクの目の前で、ぶらりぶらりと太くて長いキュウリが揺れている。

「林の隅っこで野生化してたの。これは貴重よ」

 誇らしげな顔が憎らしい。

「でも……どうして、ヘビだと思ったの?」

 普通はね、キュウリだとも思わない。

「きいちゃんが、慌てて逃げるからビックリしたよ」

「それはですね、広瀬さんが……」

「忍の奴めっ! 畑に戻るわよ。懲らしめなきゃ」

「そうですね」

 飛川さんの提案に、ボクは激しく同意した。今回に限っては、広瀬さんから悪意を感じる。

「じゃ、お騒がせ。またねぇ~エリちゃん。帰るわよ、きいちゃん!」

「はい」

 意気揚々と店を出ようとする飛川さんに、エリさんが声をかけた。

「月読ちゃん、その子の方がお似合いやん」

 それは、余計なひと言だ。

「それ、どういう意味?」

 ピキッと、飛川さんの中から音がした。

「オッツー君は大人やもん。月読ちゃんには、その子の方が釣り合ってるやん。お似合いやで」

 その話題は、もうやめて。

「それ、私が子どもだって言うとんの?」

「だって、子どもやん。ほら───ここだって、ぺったんこ」

 店員さんが、自分の胸を撫でて見せると、飛川さんの顔から色が消えた。いうなれば、ターミネーター。殺人兵器の顔である。

「あら、エリちゃん」

 エリさんは、三十路手前くらいの年齢に見える。

「どうしたんな?」

 飛川さんが、小首を傾げてこう言った。

「エリちゃん。今日は、お化粧の乗りが悪いわね。目尻に粉を吹いてるわ。基礎化粧品は何をお使いかしら?」

 飛川さんから、新たなミサイルが発射された。

「え、いいのがあるんな? どこのメーカ? 教えてよ」

 エリさん! なぜ、挑発だと気づかない?

「あらぁ~、エリちゃん。ごめんなさいねぇ。私の化粧水は、六甲のおいしい水なの。ほら、私って若いから。ホホホホホ……」

 水道水の間違いだろ?

「月読ちゃん、話が長くなりそうね」

「そうね、エリちゃん」

 このふたり、決して国境線に置いてはいけないタイプだ。すでに弾幕が飛び交っている。

「ねぇ、きいちゃん」

 飛川さんが、低い声で問いかける。

「は、はい」

「私。少し用事ができたから、先に戻ってくれるかな?」

「はぁ……でも」

「女には、引けないことがあるものよ。そうよねぇ、エリおばさん」

 容赦なく、禁断のボタンを押す飛川さん。

「そうだわねぇ、平月読たいらのつくよちゃん」

 その響き、平清盛たいらのきよもりの娘さんみたいだ。

 エリさんだって、負けてない。かくして、人類滅亡へのカウントダウンが始まった。このままじゃ、この店ごと消し飛ぶぞ。結界でも張られたように、レジの前は邪悪な空気で満ちている。その不穏な空気を、入店チャイムが断ち切った。

「「いらっしゃいませぇ~」」

 なんつー、切り替えの早さだろうか。ふたりの間で、刹那に停戦協定が結ばれる。

「ホットコーヒー、おひとつおくれ」

「「ありがとうございますぅ~」」

 阿吽あうんの呼吸で接客を続ける、ふたりの笑顔が恐ろしい。これがたぶん、営業スマイルなのだろう。

「では、ボクは……」

 お客さんに乗じて、ボクは地雷だらけのコンビニを抜け出した。店を出て振り返ることさえしなかった。桃畑までの登り坂。自転車を押しながら、広瀬さんの笑顔の意味を考える───

「ヘビよ」

 広瀬さんが、あんな嘘さえつかなければ……そう思うだけで悔やまれる。飛川さん、ご武運を。

 畑に戻ると、先生の隣で広瀬さんがお茶を飲んでいる。とても幸せそうな表情だ。ふたりきり……片思いの可憐な笑顔に、そういうことかとボクは思った。でも、それがどうしたよ? それはそれ、これはこれ。

「広瀬さん、酷くね?」

 詰め寄るボクに、広瀬さんがこう言った。

「そ」

 キョトンとしている先生の隣で「お前は邪魔だ!」と言わんばかりに、ボクに冷たい視線を浴びせる広瀬さん───なんだかもう、理不尽だ!

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