「ねぇ、きいちゃん」
クラスメイト飛川さんは、いつも笑顔で問いかける。飛川さんは、ボクを引きこもりの世界から、外の世界へ連れ出してくれた恩人だ。ボクは彼女に感謝の気持ちしかないのだが、今は恐怖だけしか感じない。
だって、そうだろ? ヘビを振り回しながら、自分に突進する少女がいれば、怖くてその場に立ちすくむ。誰だって、そうなるさ。
「黄瀬君。しっかりして、逃げるのよ」
広瀬さんの口数の多さが、ことの重大さを物語る。
「きぃーちゃーん! にゃはははは」
その一方で、走るゾンビ化している飛川さん。ボクとの距離がドンドン縮む。
「飛川さんが、どうしてヘビを?」
逃げる前に、それだけは知っておきたい。
「今の月読は、猫なの」
あれは、どう見たってゾンビだよ。
「猫は飼い主に贈り物をするわ。捕らえた獲物を飼い主に見せるでしょ? 月読は、それをしたいのよ」
飛川さんなら、やりそうだ。
「逃げるって、どこへ?」
「そこのコンビニよ。ここへ来る途中にあったでしょ?」
「ありました。青い看板のコンビニですね」
「そ。いくら月読がバカでも、コンビニの中にヘビを持ち込むことはできないわ」
確かに。桃畑からコンビニまで、自転車で坂道を下れば約三分。よし、イケる! ボクの中で、逃走プランが整った。これから始まる鬼ごっこ。つかまったら、おしまいだ。
「広瀬さん。後は、よろしく頼みます」
ボクが自転車に跨がると
「もう、帰ってこなくてもいいのよ」
そう言って、薄ら笑みを浮かべる広瀬さん。その笑顔が気になるけれど、そんなことなど言ってられない。一目散にコンビニ目指して、ボクは自転車でひた走る。全力でコンビニへ飛び込むと、ボクは奥の棚から様子をうかがう。
「いらっしゃ……月読ちゃんじゃん!」
ほどなくして入店した飛川さんが、店内を見渡している。
ゲッ! 飛川さんの右手には、ヘビではなくてレジ袋。きっとレジ袋の中で、ヘビがとぐろを巻いているのに違いない。ボクはすっかり忘れていた。ああ見えて、飛川さん。明光中学を成績トップで合格したのだ。バカであろうはずがない。
棚の陰に身を隠し、しゃがみ込んで考える。落ち着け、落ち着け……逃走経路を模索するのだが、飛川さんは敏速だ。逃げ切れる可能性は、限りなくゼロである。もはや、頼みの綱は店員さんだけである。ヘビの存在に気づけば、飛川さんを店から追い出してくれるだろう。
「ねぇ、エリちゃん。さっき、中学生くらいの男の子が入ってこなかった?」
ふたりは知り合い? 当てが外れた。
「男の子? その子、ボーイフレンドな?」
「ちゃうわ」
店員さんに合わせているのか? 讃岐弁全開だ。
「じゃ、彼氏な?」
「そんなんと、ちゃうわ」
「オッツー君にフラれたん?」
店員さん。それ、地雷ですよ。
「わたしのオッツーは、そんなことせんわ」
「だったら、なんで探しよん? 金でも貸したん?」
なんてことを……。
「それもちゃうわ。桃畑から脱走したんよ」
ボクは脱走していたのか。
「その子、月読ちゃんがいじめたんな?」
「いじめてないわ」
「ふう~ん。脱走犯ねぇ~」
マズい、エリさんと目が合った。女神に祈るかのように、ボクは首を横に振る。
「そこにおるで」
出会ったばかりで、裏切りかっ! 一生、あなたを恨みます!
「きいちゃん、めっけ!」
満面の笑みを浮かべた飛川さんは、ガサっとレジ袋に左手を突っ込んで、ズルって感じで中の物体を引きずり出した。長い……しかも……デカい! 咄嗟に身を引くボクである。
「ヘビだっ!」
「ヘビちゃうわ!」
「野生のヘビだ!」
「野生のキュウリや」
「え?」
飛川さんの左手をよく見ると、確かに太くて長いキュウリである。
「これは……キュウリですね、飛川さん」
冷静さを取り戻すと、緊張の糸が切れたボクは、ふにゃりと床に座り込む。そんなボクの目の前で、ぶらりぶらりと太くて長いキュウリが揺れている。
「林の隅っこで野生化してたの。これは貴重よ」
誇らしげな顔が憎らしい。
「でも……どうして、ヘビだと思ったの?」
普通はね、キュウリだとも思わない。
「きいちゃんが、慌てて逃げるからビックリしたよ」
「それはですね、広瀬さんが……」
「忍の奴めっ! 畑に戻るわよ。懲らしめなきゃ」
「そうですね」
飛川さんの提案に、ボクは激しく同意した。今回に限っては、広瀬さんから悪意を感じる。
「じゃ、お騒がせ。またねぇ~エリちゃん。帰るわよ、きいちゃん!」
「はい」
意気揚々と店を出ようとする飛川さんに、エリさんが声をかけた。
「月読ちゃん、その子の方がお似合いやん」
それは、余計なひと言だ。
「それ、どういう意味?」
ピキッと、飛川さんの中から音がした。
「オッツー君は大人やもん。月読ちゃんには、その子の方が釣り合ってるやん。お似合いやで」
その話題は、もうやめて。
「それ、私が子どもだって言うとんの?」
「だって、子どもやん。ほら───ここだって、ぺったんこ」
店員さんが、自分の胸を撫でて見せると、飛川さんの顔から色が消えた。いうなれば、ターミネーター。殺人兵器の顔である。
「あら、エリちゃん」
エリさんは、三十路手前くらいの年齢に見える。
「どうしたんな?」
飛川さんが、小首を傾げてこう言った。
「エリちゃん。今日は、お化粧の乗りが悪いわね。目尻に粉を吹いてるわ。基礎化粧品は何をお使いかしら?」
飛川さんから、新たなミサイルが発射された。
「え、いいのがあるんな? どこのメーカ? 教えてよ」
エリさん! なぜ、挑発だと気づかない?
「あらぁ~、エリちゃん。ごめんなさいねぇ。私の化粧水は、六甲のおいしい水なの。ほら、私って若いから。ホホホホホ……」
水道水の間違いだろ?
「月読ちゃん、話が長くなりそうね」
「そうね、エリちゃん」
このふたり、決して国境線に置いてはいけないタイプだ。すでに弾幕が飛び交っている。
「ねぇ、きいちゃん」
飛川さんが、低い声で問いかける。
「は、はい」
「私。少し用事ができたから、先に戻ってくれるかな?」
「はぁ……でも」
「女には、引けないことがあるものよ。そうよねぇ、エリおばさん」
容赦なく、禁断のボタンを押す飛川さん。
「そうだわねぇ、平月読ちゃん」
その響き、平清盛の娘さんみたいだ。
エリさんだって、負けてない。かくして、人類滅亡へのカウントダウンが始まった。このままじゃ、この店ごと消し飛ぶぞ。結界でも張られたように、レジの前は邪悪な空気で満ちている。その不穏な空気を、入店チャイムが断ち切った。
「「いらっしゃいませぇ~」」
なんつー、切り替えの早さだろうか。ふたりの間で、刹那に停戦協定が結ばれる。
「ホットコーヒー、おひとつおくれ」
「「ありがとうございますぅ~」」
阿吽の呼吸で接客を続ける、ふたりの笑顔が恐ろしい。これがたぶん、営業スマイルなのだろう。
「では、ボクは……」
お客さんに乗じて、ボクは地雷だらけのコンビニを抜け出した。店を出て振り返ることさえしなかった。桃畑までの登り坂。自転車を押しながら、広瀬さんの笑顔の意味を考える───
「ヘビよ」
広瀬さんが、あんな嘘さえつかなければ……そう思うだけで悔やまれる。飛川さん、ご武運を。
畑に戻ると、先生の隣で広瀬さんがお茶を飲んでいる。とても幸せそうな表情だ。ふたりきり……片思いの可憐な笑顔に、そういうことかとボクは思った。でも、それがどうしたよ? それはそれ、これはこれ。
「広瀬さん、酷くね?」
詰め寄るボクに、広瀬さんがこう言った。
「そ」
キョトンとしている先生の隣で「お前は邪魔だ!」と言わんばかりに、ボクに冷たい視線を浴びせる広瀬さん───なんだかもう、理不尽だ!
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