ボクに冷たい視線を浴びせる広瀬さんとは対照的に、先生はなんてお優しい人なのだろう。桃の木の根元に置かれたクーラーボックスを指さして
「黄瀬君も、好きなのどれか選びなよ」
ボクが、勝手に桃畑を抜け出したことには触れもせず、そう言ってくれるのだ。
「先生、ありがとうございます」
クーラーボックスの蓋を開くと、中にはコーヒー、紅茶、麦茶、スポーツドリンクにジュース……様々な飲み物が入っている。
ヘビ騒動でカラカラに乾いたボクの喉は、迷うことなく麦茶を選ぶ。それを一気に飲み干すと、ボクは地面に腰を下ろした。休憩だ。
「さ、やろ」
間髪入れずに、広瀬さんの声がする。
「え?」
いくらボクが若くても、少しくらい休憩しないと、身が持たないと思うのだが?
「じゃ、お先に!」
先生が脚立に足を掛け、摘果の再開をするようだ。渋々、ボクも立ち上がる。さっきといい、今といい。広瀬さんは鬼だと思う。
「……」
「……」
涼しい顔で桃を間引き、ボクに無言のプレッシャーを与え続ける広瀬さん。静寂に支配された桃畑。そこに聞こえるのは、広瀬さんと先生が落とした桃の実が、ポトポトと地面に当たる音。そして、ホトトギスの鳴き声だけだ。心の中でボクは呟いていた。こいつは鬼だ、あんたは鬼だ、お前は鬼だ……広瀬忍は鬼なのだ。頭の中で、ボクはそれだけを繰り返す。
「広瀬さん……」
続く無言に耐えきれず、口を開いたのはボクだった。
「何?」
通常モードで答える広瀬さん。
「飛川さんのアレ。キュウリだった」
「知ってた」
悪びれることなく、それ言うか? 再びボクは言葉を失う。
「黄瀬君」
広瀬さんのターンが始まる。
「え?」
「袋がけだけじゃ、ここではモノにならないわ」
「は?」
ここでモノになる必要性を、ボクはまったく感じていない。
「桃の実の殺し方、目で盗んで覚えてね」
なんだ、こいつ。盗むって、江戸時代の大工かよ。
「努力します」
「よろしい」
なんでだよ? 嫌な予感が脳裏を過る。これからずっと、広瀬さんのターンが続くのか? そんなの嫌だ。ボクは自力で、己の道を切り開く。
「飛川さんのことだけど……」
飛川さんは、コンビニで戦闘中だ。
「エリちゃんね」
飛川さんのことならば、なんでも知ってる広瀬さん。
「今、コンビニで口喧嘩しているよ」
「いつものことよ」
何もかも、お見通しって目でボクを見る。
「そうなん?」
「プロレスだもの」
さっき、口喧嘩だと言ったでしょ? 殴り合いや、技の掛け合いなどしていない。
「プロレスって?」
「月読はオッツー、エリちゃんは彼ピ。互いに惚気たいだけなのよ……滑稽ね」
そっか、そっか、そういうことか。そりゃ滑稽だ。ボクが共感していると、どこからともなく声がする。
「どうぉ、しって、おなかが、へるのかな? ケンカをすーると、へるのっ、かな♪」
帰ってきた! これぞまさしく、飛川さんの歌声だ。ブンブンとレジ袋を振り回し、声高らかに〝お腹のへるうた〟を歌う飛川さん。とても空腹なご様子で、広瀬さんにこう言った。
「忍! 嘘はダメよ。めっ!」
飛川さんは、ご立腹でもあるようだ。そこは安定の広瀬さん。たったのひと文字で身を躱す。
「そ」
「忍、ヘビはダメよ。ギリギリアウト」
飛川さん、それ違う。完全にアウトだよ。
「そ」
ここまでは、ノーダメージの広瀬さん。薄ら笑いを浮かべて、飛川さんが強烈な一撃を解き放つ。
「いくらサヨちゃんと、ふたりきりがよくったって……」
いいのが入った! 刹那に、広瀬さんの眉間にシワが寄る。ボクは心の中でほくそ笑む。しめしめの流れである。
「だから?」
出た、伝家の宝刀〝だから〟である。何もかもをリセットする、この三文字に勝てる男子をボクは知らない。だが、飛川さんはロックオンでもしたかのように、追従の手を緩めない。ボクは、次の一手に期待した。飛川さんお願いだ、もっとやれ!
「今年は人手不足なの。だから、人材が必要なの。この際、誰でもいいの! きいちゃんでも、いないよりはマシなのよ!」
ちょっと待ってよ、飛川さん。今の一撃は、ボクにいいのが入りました。ボクのメンタル、大火傷……。
すかさず、一文字ですべてを語る、胆力モンスターからのカウンター。桃畑に熱風が駆け抜ける。
「ぬ」
……ぬ? この意味が、ボクには分からない。〝ぬ〟とはいったい、なんなのか? 今か今かと、飛川さんの返しを待っていると───遠い山の向こうから、正午を知らせるエーデルワイスが鳴り響き、桃の畑にひとりの天使が舞い降りた。
「三縁さ~ん! お昼ですよぉ~」
あの声は、麗しの早川さん!
脚立の上の先生に向かって、早川さんが大きく手を振ると、先生も笑って手を振り返す。昼ドラか? 連続テレビ小説ですか? もう、ふたりとも───ご結婚されたらどうですか?
「チッ! 女狐めっ!」
この舌打ちは、広瀬さん。泥棒猫の次は、女狐か……。余程、早川さんが気に入らないのだろう。不機嫌な顔でゴーグルを外し、上着を脱いで〝蒸着〟を解除すると、中から美少女が飛び出した。パッとその場が輝いて見える。その輝きに、勿体ないなとボクは思う。
広瀬さんほどの美貌があれば、より取り見取りで彼氏なんて作れるだろうに。実際、男子生徒からの人気は、群を抜いて校内トップクラスなのだから。
これは〝とにかく女子にモテたい男〟二組の中原君から得た情報だ。つまり、そこまで先生に執着しなくとも、広瀬さんは楽しい中学生活をエンジョイできる身分である。ルッキズム(外見至上主義)の頂点に君臨できる容姿を持ちながら、どうしてそれを有効利用しないのか?
一途と呼べば美しくも聞こえるだろう。だが、その一途さが、ボクにはとても不憫に思えた。そして、ボクは思うのだ。先生のことなど諦めて、広瀬さんは未来の扉を開けばよいのにと……。
「わーい!」
耳に飛び込む声の主は、無邪気に重箱の蓋を開ける飛川さん。てか……それは、先生のために早川さんが用意したお弁当じゃないですか? 飛川さんが先生の姪っ子だとて、あまりにもそれは、早川さんに対して失礼ではなかろうか?
そんな飛川さんの隣で、平然とおむすびを頬張る広瀬さん。一途とは、なんなのか? ボクには女子の気持ちが分からない。
コメント