後ろの席の飛川さん〝024 素手で握ったおむすびは、魔法の調味料の味がする〟

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 桃畑の昼下がり。

 桃の木陰に敷かれたシートの真ん中で、おにぎりを頬張る飛川ひかわさん。その隣でゆっくりと、二個目のおにぎりに手を伸ばす広瀬さん。

「ふたりとも、やってんねぇ~」

 ふたりの前に先生が座ると、そっとおしぼりを手渡す早川さん。その光景は、お花見を楽しむ家族のようだ。ボクはというと、シートの前に立ちすくむ。なんだか場違いな気がしたからだ。

 こんなの、大縄飛びと同じじゃないか。あの輪の中へ入るタイミングがつかめない。

「さぁ、さぁ。黄瀬きせ君も、座ってください。三縁さよりさんの隣にどうぞ」

 ボクに向かって、手招きをする早川さん。なんて優しい人なんだ。それに比べて飛広とびひろコンビは、おにぎりと格闘中だ。ボクは眼中にないらしい……。

 でもさ、でもね。僅かな期間ではあるけれど、その態度、同じ教室で学んだ同級生とは思えない。あっ! 広瀬さんの細い指が、三個目のおにぎりに伸びている……。

「飛川先生、失礼します」

「どうぞ、どうぞ」

 先生の隣はホッとする。一気に緊張感が抜け落ちる。でも、おにりぎに手を伸ばせない。だって、そうでしょ? お喋りな飛川さんが、黙々とおにぎりを頬張って、ひと言も発しない。ボクは、ふたりの勢いに躊躇した。食べ物の恨みは怖いと言うし……。

花音かのんのおにぎりは絶品だよ。早くしないと、こいつらに食われてしまうぞ」

 先生が冗談交じりに言うのだが、たぶんそれは嘘じゃない。その証拠に、ボクが座ると同時に、ふたりの食べる速度が加速した───。

「黄瀬君、これをどうぞ」

 早川さんが微笑んで、ボクに弁当箱を差し出した。え? ボクに? ボクだけに? 天にも昇るとはこのことだ。

「でも、ボクだけ……いいんですか?」

 戸惑うボクの耳元で、先生がささやいた。

「黄瀬君は知らないかもだけど……こいつらは、フードファイターくらい大食いなんだよ」

「「うっせーわ!」」

 すかさず、飛広コンビの声が飛ぶ。

 にしても……ふたりの食べっぷりが気持ちいい。重箱の中のおにぎりが、見る見るうちに減ってゆく。三段重ねの二段目に入ると、やっぱり、おにぎりが並んでいた。先生と早川さんも、二段目のおにぎりに手を伸ばす。ボクは受け取った弁当箱の蓋を開いて見ると、やっぱり同じおにぎりが並んでいた。当然と言えば当然だけれど。

「黄瀬君、お疲れさまです」

 早川さんからのおしぼりが、とても冷たくて気持ちいい。おしぼりで手を清めた後で、ボクはおにぎりを食べてみる。なんだこれは!

───おにぎりは素手で握らないとおいしくない。

 ふと、〝アガワ家の危ない食卓〟の〝素手にぎり〟の一節が頭に浮かぶ。

 早川さんのおにぎりに、ボクも言葉を失って、飛広コンビの無言の理由を理解した。どういうことだ? このおにぎりは、無限に食っていられるのだ。おかか、玉子、ツナ、キュウリの漬物……中の具も、バラエティーに富んでいる。何よりも、おにぎりのお米が絶品だ。きっと、早川さんの手のひらから、魔法の調味料が出ているのだろう……そうであると信じたい。

「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」

 その気になればいつだって、このおにぎりが食べられる、飛川先生が羨ましい。もしも、ボクに彼女ができたなら、早川さんのような人がいいな───そんなの到底、無理だけど。

 ボクの未来予想図に、甘い幸せなんてありゃしない。でも、寂しいなんてあるものか。ボクは本と孤独を愛する男なのだから……。

 食事を終えて、ボクは場所を移動する。桃の木に背中を預けて、リュックから〝美徳のよろめき〟を取り出した。これは今日、読むつもりにしていた本である。さぁ、三島由紀夫よ───ドンとこい!

 ブルーシートに目をやれば、我が家のように、大の字になって転がる飛川さん。その隣でチラチラと、先生の動向をうかがう広瀬さん。平和だなぁ……ゆっくりと、お昼のひと時が過ぎてゆく。

「これ食べて、差し入れよ」

 飛川チームのお年寄りたちが、昼食から戻ってきた。その中のひとりのおばあさんが、たくさんのお菓子を抱えている。

「お菓子は別腹、別腹。にゃはははは」

 お菓子に喜ぶ飛川さんは、小学生のように大はしゃぎ。その横で菓子を頬張る広瀬さん。それを眺めて微笑む先生。桃の木の下でボクは思う……まだキミたちは、食うのかい?

「飛川君、これ好きだったよね?」

 おばあさんが、先生にお菓子を手渡した。

「え……まぁ」

 刹那に先生の目が曇ったけれど、お菓子をひと口頬張ると、先生の表情が和らいだ。

「うまいねぇ~……ホントにうまい」

 先生は、心に染み入る声でそう言った。

「そうそう、このお菓子。あの人も好きだったわねぇ。しばらく顔を見ていないけど、元気にしているのかねぇ? ほら、背の高いイケメンさん」

 空を流れる白い雲に、先生が視線を移す。

「そだねぇ~。遠いところへ行っちゃったからねぇ~。うーん、分からん……」

月読つくよチーム、全員集合!」

 先生の返事を遮るように、飛川さんが号令をかけた。

 甲高い飛川さんの声に、わいわいと老人たちが集まった。それを確認するや否や、ポキンと桃の枝を折る飛川さん……こいつら、マジか? 枝についた桃の実を指さして、声高らかに飛川さんがこう言った。

「この桃をオッツーとします」

 は? そこはAじゃないのか?

「こっちの桃もオッツーです」

 なんでだよ?

「どちらのオッツーも格好良くて、優しくて、大好きで。でも、どちらかを諦めなければならないの。だって私は、一途な少女よ……浮気なんて、できないの」

 え? これから、何が始まるというのだろう? おばあさんたちの瞳が、妙にキラキラしているけれど?

「こっちのオッツーは、年収いくら?」

「愛に年収は関係ないの!」

 意地悪な質問に、きっぱり答える飛川さん。

「じゃ、学歴は?」


「オッツーはバカでいいの! 私が守ってあげるから」

 飛川さん、いいこと言った!

「どっちにしようかねぇ……選べない」

 悩める子羊たちに、飛川さんが諭すように助言する。

「い~い? 〝もう、好き好き〟って思った方が正解よ。そう、恋に答えなんてないものよ」

 それでいいのか? 飛川さん。

 でも……これ。今朝の広瀬さんと、同じ説明をしているような。〝A〟を尾辻さんに変えただけ。たったそれだけで、こんなに食いつきが変わるのか? ボクが感心の目で見ていると

「食ってみ? うまいから」

 先生が、ボクにお菓子を差し出した。

「ありがとうございます。これ、小さい頃に見たことあります。なんて名前のお菓子でしたっけ?」

 にこりと先生が微笑んだ。でも、その目の奥は寂しげだ。

麩菓子ふがしだよ、アニキの好物」

 アニキ……さん?

 ボクの中学生活に、新たな人物が現れた。アニキさんとは、誰なのか?

 ボクの気持ちもつゆ知らず、老人たちの爆笑をかっさらう飛川さん。それを、うとましそうに見つめる広瀬さん。それが少し面白い。麩菓子を食べながら見ていると、先生が何かをポッケの中から取り出した。

「これ、ふたりには内緒だぞ」

 ボクは謎のカードを受け取った。表には〝カフェ・邂逅〟とだけ書いてある。裏には、住所と電話番号と飛川先生のフルネーム。そして───本人様以外のご使用はできません。まさにこれは、会員証。

「でも、『本人様以外は───』って、書いてありますが?」

 ボクの疑問は、さもありなん。

「俺からオーナーに話をしとくから。黄瀬君が行きたいと思ったら、そん時に行けばいい。料金も気にしなくていいからさ。まぁ、その……バイト代だと思ってくれ」

 そのバイト代、喫茶グリムなら理解もできる。先生と早川さんがバイトしている店だから。でも、このカフェは……ボクの困惑を、先生の言葉が吹き飛ばす。

「このカフェすげぇの。本が三万冊もあるんだよ。文豪小説から現代小説まで。絶版本だってズラリだよ。どうだい、黄瀬君。惹かれない?」

 三万冊も! それはすごい! ボクの心がえぐられた。飛広コンビに見られぬように、ボクはポッケにカードを隠す。

 そこに、やましさなど微塵もない。

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