桃畑の昼下がり。
桃の木陰に敷かれたシートの真ん中で、おにぎりを頬張る飛川さん。その隣でゆっくりと、二個目のおにぎりに手を伸ばす広瀬さん。
「ふたりとも、やってんねぇ~」
ふたりの前に先生が座ると、そっとおしぼりを手渡す早川さん。その光景は、お花見を楽しむ家族のようだ。ボクはというと、シートの前に立ちすくむ。なんだか場違いな気がしたからだ。
こんなの、大縄飛びと同じじゃないか。あの輪の中へ入るタイミングがつかめない。
「さぁ、さぁ。黄瀬君も、座ってください。三縁さんの隣にどうぞ」
ボクに向かって、手招きをする早川さん。なんて優しい人なんだ。それに比べて飛広コンビは、おにぎりと格闘中だ。ボクは眼中にないらしい……。
でもさ、でもね。僅かな期間ではあるけれど、その態度、同じ教室で学んだ同級生とは思えない。あっ! 広瀬さんの細い指が、三個目のおにぎりに伸びている……。
「飛川先生、失礼します」
「どうぞ、どうぞ」
先生の隣はホッとする。一気に緊張感が抜け落ちる。でも、おにりぎに手を伸ばせない。だって、そうでしょ? お喋りな飛川さんが、黙々とおにぎりを頬張って、ひと言も発しない。ボクは、ふたりの勢いに躊躇した。食べ物の恨みは怖いと言うし……。
「花音のおにぎりは絶品だよ。早くしないと、こいつらに食われてしまうぞ」
先生が冗談交じりに言うのだが、たぶんそれは嘘じゃない。その証拠に、ボクが座ると同時に、ふたりの食べる速度が加速した───。
「黄瀬君、これをどうぞ」
早川さんが微笑んで、ボクに弁当箱を差し出した。え? ボクに? ボクだけに? 天にも昇るとはこのことだ。
「でも、ボクだけ……いいんですか?」
戸惑うボクの耳元で、先生が囁いた。
「黄瀬君は知らないかもだけど……こいつらは、フードファイターくらい大食いなんだよ」
「「うっせーわ!」」
すかさず、飛広コンビの声が飛ぶ。
にしても……ふたりの食べっぷりが気持ちいい。重箱の中のおにぎりが、見る見るうちに減ってゆく。三段重ねの二段目に入ると、やっぱり、おにぎりが並んでいた。先生と早川さんも、二段目のおにぎりに手を伸ばす。ボクは受け取った弁当箱の蓋を開いて見ると、やっぱり同じおにぎりが並んでいた。当然と言えば当然だけれど。
「黄瀬君、お疲れさまです」
早川さんからのおしぼりが、とても冷たくて気持ちいい。おしぼりで手を清めた後で、ボクはおにぎりを食べてみる。なんだこれは!
───おにぎりは素手で握らないとおいしくない。
ふと、〝アガワ家の危ない食卓〟の〝素手にぎり〟の一節が頭に浮かぶ。
早川さんのおにぎりに、ボクも言葉を失って、飛広コンビの無言の理由を理解した。どういうことだ? このおにぎりは、無限に食っていられるのだ。おかか、玉子、ツナ、キュウリの漬物……中の具も、バラエティーに富んでいる。何よりも、おにぎりのお米が絶品だ。きっと、早川さんの手のひらから、魔法の調味料が出ているのだろう……そうであると信じたい。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
その気になればいつだって、このおにぎりが食べられる、飛川先生が羨ましい。もしも、ボクに彼女ができたなら、早川さんのような人がいいな───そんなの到底、無理だけど。
ボクの未来予想図に、甘い幸せなんてありゃしない。でも、寂しいなんてあるものか。ボクは本と孤独を愛する男なのだから……。
食事を終えて、ボクは場所を移動する。桃の木に背中を預けて、リュックから〝美徳のよろめき〟を取り出した。これは今日、読むつもりにしていた本である。さぁ、三島由紀夫よ───ドンとこい!
ブルーシートに目をやれば、我が家のように、大の字になって転がる飛川さん。その隣でチラチラと、先生の動向をうかがう広瀬さん。平和だなぁ……ゆっくりと、お昼のひと時が過ぎてゆく。
「これ食べて、差し入れよ」
飛川チームのお年寄りたちが、昼食から戻ってきた。その中のひとりのおばあさんが、たくさんのお菓子を抱えている。
「お菓子は別腹、別腹。にゃはははは」
お菓子に喜ぶ飛川さんは、小学生のように大はしゃぎ。その横で菓子を頬張る広瀬さん。それを眺めて微笑む先生。桃の木の下でボクは思う……まだキミたちは、食うのかい?
「飛川君、これ好きだったよね?」
おばあさんが、先生にお菓子を手渡した。
「え……まぁ」
刹那に先生の目が曇ったけれど、お菓子をひと口頬張ると、先生の表情が和らいだ。
「うまいねぇ~……ホントにうまい」
先生は、心に染み入る声でそう言った。
「そうそう、このお菓子。あの人も好きだったわねぇ。しばらく顔を見ていないけど、元気にしているのかねぇ? ほら、背の高いイケメンさん」
空を流れる白い雲に、先生が視線を移す。
「そだねぇ~。遠いところへ行っちゃったからねぇ~。うーん、分からん……」
「月読チーム、全員集合!」
先生の返事を遮るように、飛川さんが号令をかけた。
甲高い飛川さんの声に、わいわいと老人たちが集まった。それを確認するや否や、ポキンと桃の枝を折る飛川さん……こいつら、マジか? 枝についた桃の実を指さして、声高らかに飛川さんがこう言った。
「この桃をオッツーとします」
は? そこはAじゃないのか?
「こっちの桃もオッツーです」
なんでだよ?
「どちらのオッツーも格好良くて、優しくて、大好きで。でも、どちらかを諦めなければならないの。だって私は、一途な少女よ……浮気なんて、できないの」
え? これから、何が始まるというのだろう? おばあさんたちの瞳が、妙にキラキラしているけれど?
「こっちのオッツーは、年収いくら?」
「愛に年収は関係ないの!」
意地悪な質問に、きっぱり答える飛川さん。
「じゃ、学歴は?」
「オッツーはバカでいいの! 私が守ってあげるから」
飛川さん、いいこと言った!
「どっちにしようかねぇ……選べない」
悩める子羊たちに、飛川さんが諭すように助言する。
「い~い? 〝もう、好き好き〟って思った方が正解よ。そう、恋に答えなんてないものよ」
それでいいのか? 飛川さん。
でも……これ。今朝の広瀬さんと、同じ説明をしているような。〝A〟を尾辻さんに変えただけ。たったそれだけで、こんなに食いつきが変わるのか? ボクが感心の目で見ていると
「食ってみ? うまいから」
先生が、ボクにお菓子を差し出した。
「ありがとうございます。これ、小さい頃に見たことあります。なんて名前のお菓子でしたっけ?」
にこりと先生が微笑んだ。でも、その目の奥は寂しげだ。
「麩菓子だよ、アニキの好物」
アニキ……さん?
ボクの中学生活に、新たな人物が現れた。アニキさんとは、誰なのか?
ボクの気持ちもつゆ知らず、老人たちの爆笑をかっさらう飛川さん。それを、疎ましそうに見つめる広瀬さん。それが少し面白い。麩菓子を食べながら見ていると、先生が何かをポッケの中から取り出した。
「これ、ふたりには内緒だぞ」
ボクは謎のカードを受け取った。表には〝カフェ・邂逅〟とだけ書いてある。裏には、住所と電話番号と飛川先生のフルネーム。そして───本人様以外のご使用はできません。まさにこれは、会員証。
「でも、『本人様以外は───』って、書いてありますが?」
ボクの疑問は、さもありなん。
「俺からオーナーに話をしとくから。黄瀬君が行きたいと思ったら、そん時に行けばいい。料金も気にしなくていいからさ。まぁ、その……バイト代だと思ってくれ」
そのバイト代、喫茶グリムなら理解もできる。先生と早川さんがバイトしている店だから。でも、このカフェは……ボクの困惑を、先生の言葉が吹き飛ばす。
「このカフェすげぇの。本が三万冊もあるんだよ。文豪小説から現代小説まで。絶版本だってズラリだよ。どうだい、黄瀬君。惹かれない?」
三万冊も! それはすごい! ボクの心がえぐられた。飛広コンビに見られぬように、ボクはポッケにカードを隠す。
そこに、やましさなど微塵もない。
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