飛川さんのレクチャーが終わると、老人たちから拍手が湧いた。
───オッツーがね。オッツーがさ。それは、オッツーなのだから……。
ボクには惚気にしか聞こえない。
それなのに、誰もが良質な恋愛映画を見終えたような顔である。目頭を押さえるおばあさんに、ウンウンと頷く飛川さん。その笑みに、ペテン師だなとボクは思った。広瀬さんの薄い表情を鑑みれば、彼女も同意見のようである。
「ところで月読ちゃん、専用の脚立は?」
そんなアイテムがあったのか?
麩菓子をくれたおばあさんが、思い出したように話題を変えた。
「もうないの……」
しょぼんとして、がっかり顔の飛川さん。その脚立、壊れたの?
「そりゃ、寂しいわねぇ……でも、強く生きるのよ。みんなで応援しているわ!」
飛川さんの頭を撫でて、おばあさんが慰める。すると、飛川さんは速攻元気を取り戻す。
「ありがとう、みんな大好き!」
なんだそれ?
飛川さんの専用脚立が気になったけれど、それはどうでもよくなった。 生きるの死ぬのって、脚立一本で大げさな……。
「再開……」
にべもない声で、広瀬さんがボクに言う。ボクは彼女の声に従った。
「うん」
桃に袋をかけるボクの心は膨らんでいた……いつ行こうかなぁ? 来週にしようかなぁ~。思う存分、本の海で泳ぐのだ。ポケットの中の会員証が、ボクの心を躍らせた。
午後からは、何事もなく作業が進む。飛川さんが暴れなければ、こんな感じで進むのだろう。平和というか、静かだった。ボクの耳に届くのは、広瀬さんが桃の実を落とす音。そして、ホトトギスの声だけだ。
───広瀬さんとの会話が弾まない。
それは、今までだってそうだった。毎日のように教室で顔を合わせ、学校を飛び出して釣りにも行った。誕生会もしてもらったし、奈良漬に酔っぱらった広瀬さんの本心も知った……なのに、広瀬さんと雑談をした試しがない。
広瀬さんは桃を落とし、ボクは残った桃に袋をかける。三時の休憩も、広瀬さんとふたりきり。無言で桃畑を見渡して、空を眺めて休憩は終わる。この沈黙が幾星霜にも思われた。もしかして、ボクは広瀬さんに嫌わているのではなかろうか? ボクは、会話の切っ掛けを考える。
「これ、なんて名前の品種かな?」
桃の木を指さすと、
「あかつき」
いつものように単語で答える。ならば、これならば?
「先生は?」
「月読チームと合流よ」
素っ気ない返事だった。ボクは、会話の糸口を探し求める……
「あっちも、同じ品種かな?」
「黄金桃」
摘果の手を休めず、話を続けた広瀬さん。ようやく、言葉のキャッチボールが始まった。
「黄金桃、急ぐの」
「そ……そうなの?」
一瞬だけ、広瀬さんの手が止まる。
「今日は黄瀬君の初日だから、サヨちゃんと私が担当したの……午後からは、そうも言ってられないの。だからサヨちゃんは、あっちと合流……」
なんだか、ボクが足を引っ張っている感じだ。今日一番の長い言葉に申し訳ない気分になる。きっと、広瀬さんは先生と一緒がよかったのだろう。ボクは何も言えなくなってしまう。これが、午後から広瀬さんと交わした会話だった。
「終わり」
唐突に、広瀬さんがボクに言う。え? まだ、四時なのに? 困惑するボクである……怒った?
「子どもは、四時まで」
そんなルールがあったんだ……。
「そうなの?……それじゃ、ボクは先生に挨拶してくるね」
先生の背中を指さすと、広瀬さんが引き止めた。
「行くわよ」
どこへだよ?
広瀬さんが向かう先に、大きなビニールハウスが建っている。
「こんにちは、忍です」
さも当たり前のように、ビニールハウスへ入る広瀬さん。
「初めまして、黄瀬です」
ハウスの中を覗くと誰もいない雰囲気だった。けれども、広瀬さんに習って声を出す。中に入ると、真夏のような空気にボクの体が包まれた……ハウスの中は常夏だ。
「うゎ~」
視界に飛び込む光景に、ボクは驚きの声を上げた。キュウリ、トマト、ナス……スイカにメロン。様々な野菜が育っている。
「好きなの、採って」
わき目もふらず、メロンに向かって歩くボク。
「スイカとメロンはダメ」
広瀬さんが呼び止める。
「だって、広瀬さんが好きなの……」
「ダメ」
きびすを返すボクの目に、ハサミでナスの枝を切る広瀬さんが飛び込んだ。桃といい、ナスといい……枝に恨みでもあるのだろうか?
「あ、枝がっ!」
パツンと立派な枝が切り落とされた。これ、後で怒られるやつだとボクは思った。
「これは、ナスの切り戻し。枝は不要だからナスの実と一緒に切るの。やってみて」
そう言って、ボクにハサミを渡す広瀬さん。
「え?」
切れと言われても、どれを切る? 怖くて切れないボクである。そんなことなどお構いなしに、広瀬さんはガンガンとナスの枝を切っている。ついでに葉っぱも切っているような……。
「これでいい?」
たゆたうボクにナスの束を手渡すと、広瀬さんはキュウリの実を採り始めた。そこでは、葉っぱと蔓を切っている……てか、その大きな葉っぱも切っちゃうの? ボクの不安は募るばかり……。
「その大きな葉っぱ、切るの?」
「葉かき」
うーん……広瀬さんの行動が、ボクの理解を超えている。キュウリの次はトマトである。ボクの後ろで、大きなスイカが転がっているのだが? それには無関心のようである。
「エコバック、出して」
広瀬さんがボクに言う。
「これ?」
リュックから、ママのお気に入りのエコバックを取り出した。大きなひまわりの花柄だ。それを無言で見つめる広瀬さん。見えない圧がボクを襲う……
「黄瀬君」
「ん?」
「ひまわりの花言葉は?」
広瀬さんが意味深な目でボクを見る。
「……」
「そ。じゃ、バックを開いて」
なんだかイライラしているようだ。慌ててバックを開くと、中に野菜を入れる広瀬さん。見る見るバッグが重くなる。エコバックは、このために必要だったのか……。
「こんなに貰って、いいのかな?」
「もっとよ」
ビニールハウスを出た広瀬さんが、隣の畑にしゃがみ込む。こ、これは! これぞまさしくイチゴ畑! 大きなイチゴを容赦なく、ビニール袋に入れる広瀬さん。イチゴの葉っぱを切りながら、衝撃的なことをボクに言う。
「赤い実は全部採って。あ……この品種は、さぬきひめ」
それ、知ってる。ママが好んで買ってくる。
「でも……」
イチゴだよ? クリスマスケーキの上に乗るフルーツだよ。いくらなんでも、怒られないか?
「明日になれば、元に戻る」
確かに……半分、赤い実もたくさんある。
「でも……」
「はよ、しね!(早く、しろ!)」
とてもイチゴが好きなのだろうか? ずっと笑顔の広瀬さん。
突然始まるイチゴ狩りに、エコバックがパンパンだ。極上のお土産に、ママと姉ちゃんの笑顔が浮んだ……にしても? 大切な何かを忘れたような。
そうだ、そうだ。飛川さんの姿が見当たらない。挨拶して帰りたい。
「ところで、飛川さんは?」
「月読の桃の木、行ってみる?」
飛川さんの……木?
「行ってみたい」
ボクはコクリと頷いて、広瀬さんの後ろをついていく。
「あれ」
広瀬さんが指さす方で、飛川さんが桃に袋をかけている。真心込めて丹念に……そんな感じだ。
「触れていいのは、月読とオッツーのふたりだけ」
「どうして?」
「ふたりで選んだ苗だから」
おもむろに、スマホを取り出す広瀬さん。画面をタップしながら、何かを探しているようである。スマホ画面を見ないように、ボクは飛川さんに視線を合わす。
「これ、月読の脚立」
「!」
奇跡と感動の一枚に、ボクは思わず息を飲む。ハッと気づいて、ボクは広瀬さんの顔を見た。
「もしかして……桃の品種は?」
「そ、はなよめ」
飛川さんらしいなと、ボクは思った。
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