後ろの席の飛川さん〝026 イチゴを捨てるバカはいない 〟

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 真っ赤な夕陽に照らされた、高い高いのシルエット。

 広瀬さんの写真には、幼き頃の飛川月読ひかわつくよが写っていた。尾辻さんの肩の上、桃の実に袋をかける飛川さん。夕焼け空と黒い影。その幻想的なコントラストが、ボクの想像力を刺激する。

「オッツー、右」

「あいよ」

「もうちょい、上」

「あいよ」

 仲睦まじい、ふたりの姿が目に浮かぶ。父娘、兄妹、恋人……そして、未来の夫婦。このふたりには、すべての言葉が当てはまる。きっと、前世も、現世も、来世だって……写真が放つ幸せのオーラが、ボクをそう思わせてしまうのだ。

 ふたりは、この夕暮れを何度も繰り返したのに違いない。繰り返す幸せ……その言葉と共に、彼女の自己紹介を思い出す。

「私の将来の夢は、オッツーの花嫁になります!」

 中学生と社会人。ふたりには、立場の壁と年齢の壁があるのだけれど、飛川さんの夢が叶うといいな───

「あの写真の飛川さんは、いくつかな?」

 桃の摘果の帰り道。ボクは広瀬さんに問うてみる。

「六つか、七つ」

「幼稚園くらかと思ってた」

「ぷ」

 広瀬さんが、クスクス笑う。

「今だって、月読は小学生みたいじゃない」

 それは……そうではあるけれど、ボクの口からは言えないセリフだ。ボクの隣の広瀬さんは、いつもと違って穏やかだ。

「はなよめは……あの桃は。今年、ネットで販売するの。あの写真は、フロントページに使うのよ。ネットショップは、桜木君が作ってくれた」

 桜木さんは、神なのか?

「それ、いいよ。すごく、いい。ところで、あの写真。広瀬さんが撮ったの?」

「サヨちゃん」

 誇らしげな顔で、広瀬さんがボクに言う。あっちもあっちなら、こっちもこっち。広瀬さんだって、幸せになってほしいけど、恋敵が早川さんとなると……可能性は、ほぼゼロだ。でもそれも、ボクの口から言えないセリフだ。

「サヨちゃんがね、月読のために物語を書いてくれるの」

「え?」

 飛川三縁ファンとしては、そっちを先に言ってほしかった! 先生の話題になると、蒸着じょうちゃくならぬ、饒舌じょうぜつになる広瀬さん。

「桃の商品名も決まっているの。サンセット・プリンセス。月読が決めた名前よ」

黄昏姫たそがれひめ……かな?」

「サヨちゃんは、夕姫ゆうひめだって。その題名で書いてくれるの」

「何をでしょう?」

「決まってるでしょ、小説よ」

 先生は夕姫に、どんな物語を紡ぐのだろう。俄然、興味が湧いてきた。

「って、ことは───書籍化とかするのかな?」

「できない」

 飛川先生はプロの小説家。ボクには〝できない〟の意味が理解できない。

「どうして?」

「飛川三縁として書かないからよ。プロ作家は不自由なの。飛川三縁を自分勝手にできないの」

 出版社の手前……ということか。

「飛川三縁とは、別の名前を使うってこと?」

「そ、覆面作家」

「もう、決まってるの?」

「〝無名〟と書いて、〝むみょう〟と読む」

 なんか、微妙だ……先生の雰囲気から察すれば、小泉八雲こいずみやくもっぽい響きが合ってるのに……素直に喜べないボクである。

「サヨちゃんは、もう一度。何者でもない自分として、新たな物語を書くそうよ」

 先生にも、思うところがあるのだろう。ボクは、新作〝夕姫〟に期待した。

 交差点の信号待ちで、広瀬さんが話題を変えた。

「黄瀬君、明日も来る?」

 ボクとしては、一度きりかと……。

「明日も来てね。野菜もたくさんあげるから」

 広瀬さんが、広瀬さんらしからぬ顔をした……これは、何かの罠なのか? そういえば、勝手に野菜を持って帰って、後で怒られたりしないだろうな? そっちの方も心配だ。

「あれ、いいの? こんなにたくさん……」

 ボクは広瀬さんのキャリーバックをチラ見した。

「い。だって……」

 広瀬さんの眉間にシワが寄り、予想外の言葉が飛び出した。

「この野菜たちは、捨てるのよ!」

 こんなに立派な野菜を捨てるとは!

「イチゴも?」

 イチゴを捨てるバカなどいない!

「そ!」

「マジか? 広瀬さん!」

「マジよ、黄瀬君!」

 これからボクは、農家の闇を知ることになる。

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