後ろの席の飛川さん〝031 〝生〟の文字には、百五十以上も読み方があるそうだ〟

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 強き人がボクに問う。

「〝生〟の文字には、百五十以上も読み方があるそうだ。だけど〝死〟の読み方はひとつだけ。キミに、その意味が分かるかい?」

 その言葉がやいばのように、ボクの胸に突き刺さる。何よりも重い問いだった───

 七月最初の金曜日。放課後のチャイムに、わくわくしているボクがいた。

「ねぇ、きいちゃん」

 後ろの席の飛川ひかわさんは、いつも笑顔で問いかける。

「放課後は?」

 それは言えない。絶対に言わない。ボクは咄嗟に嘘をつく。

「本の予約をしているので、本屋さんに取りに行きます」

 ボクの目が泳いだか? 飛川さんが、いぶかしい目でボクを見る。

「それ、誰の本?」

 警察から職質を受ける気分は、こんな感じなのだろう。でも、負けられない。嘘に嘘を重ねるボクである。

「ドストエフスキーです」

「ミスド大好き? それ、ドーナツの本?」

 バカなの?

「違います。ドストエフスキーは、有名なロシアの小説家です。ボクは今日、どうしても本屋に行かねばなりません。分かってください、飛川さん」

 よし! 言えた。

「そうなんだ……マクドエフスキーなんて、知らないよ……」

 その目はよしてよ、飛川さん。後ろめたい気持ちになるから。それと……マクドじゃないから。ドストだから。

 まだ、何かを言いたげな飛川さん。やけに、今日はしつこいな。

「ねぇ、きいちゃん。風邪、ひいてる? 声が変だよ」

 飛川さんが、ボクのおでこに手を当てた。

「や、やめてください!」

 本能的に、首を反らせるボクである。

「あ、ごめん……熱はないようね。でも、雨だから気をつけて。ねぇ、きいちゃん。傘、持ってる?」

 ママのような口ぶりだ。

「朝から雨じゃないですか。傘くらい持ってます!」

 そのやり取りを、無言で見つめる広瀬さん。無表情が恐ろしい……。

「忍、帰るよ。きいちゃん、また来週」

 飛川さんが席を立つ。それに続く広瀬さんが、去り際にこう言った。

「じゃ、反抗期……ぷっ」

 なんかムカつく。見透かしたような目で、ボクを見るな! とも言えず

「おふたりとも、ごきげんよう」

 作り笑顔で、ふたりに手を振るボクである。

 帰れ、帰れ、とっとと帰れ!───教室の窓から、ふたりが校門を出るのを確認すると───これぞ、時は来たれりなのである。脱兎だっとの如く、ボクは教室を飛び出した。

 これからボクは、本の海で泳ぐのだ。ウキウキ、わくわく、ハラハラ、どきどき……そのすべてが止まらない。

 カフェ・邂逅かいこうは、学校の最寄り駅から、ひと駅の先の町にある。

───次はぁ~、八栗やくり。お忘れ物にご注意ください。

 八栗駅のある牟礼町むれちょうは、言わずと知れた石匠せきしょうの町である。この駅を起点とする石あかりロードは、夏の風物詩にもなっている。ボクは、見たことないのだけれど。

 飛川先生の地図に従って、テクテク歩いて絶句した───

「あれ? なんか違うなぁ……」

 ここ、石の工場なんですが? それに〝定休日〟の看板が……呆然と看板を見つめるボクである。傘に当たる雨粒が、徐々に激しさを増してゆく……。

───ガタン!

 シャッター横のドアが開く。

「もしかして、黄瀬きせ君かい?」

「あ……はい」

 声する方へ視線を向けると、ジーンス姿の女の人が立っていた。この人が……一途いちずさん?

 長い黒髪を後ろで丸めて、赤いかんざしが印象的だ。ママより若くて、姉ちゃんよりも年上で、三十歳くらいかな? と、ボクは思った。

「キミのことは、飛川君から聞いてるよ。ようこそ、邂逅へ。オーナーのつつみ一途です」

 そう言うと、彼女の大きな下がり目が、三日月のカタチに変化した。きっとこの人、モテるだろうな。でも、なんとなく……笑顔の中に影がある。

「初めまして、黄瀬学公きせがくです。でも、定休日の看板が。知らずに来て……すみません」

 看板を指さすボクである。

「おやおや、太宰だざいみたいな物言いだね。キミが謝ることでは、ないんだよ。今日は定休日じゃなくて、臨時休業みたいなのものさ。この雨の中、わざわざ来てくれたんだ。遠慮せずに入んなよ」

「でも……ご迷惑では?」

 刹那に真顔になる一途さん。

「子どもが遠慮なんかするんじゃないよ」

 江戸っ子か?

 きっと、讃岐さぬきの人ではないのだろう。その口ぶりが、時代劇の女将おかみさんのようである。

「何してんだい、早くお入り」

 一途さんに招かれるがまま、ボクは工場に足を踏み入れた───がぁぁぁ。工場の中に建物が!

「うちの店、面白い造りだろ? ファクトリーブースってんだよ。キミのお目当ての本があればいいねぇ~」

 カフェの大きなガラス窓から見えたのは、整然と並ぶ本棚だ。その中に、びっしりと本が収まっている。

「うわぁ~、すごいです!」

 これが、一個人の蔵書だというのだから、興奮せずにはいられない。ひと目でボクは、カフェ・邂逅の虜になった。

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