強き人がボクに問う。
「〝生〟の文字には、百五十以上も読み方があるそうだ。だけど〝死〟の読み方はひとつだけ。キミに、その意味が分かるかい?」
その言葉が刃のように、ボクの胸に突き刺さる。何よりも重い問いだった───
七月最初の金曜日。放課後のチャイムに、わくわくしているボクがいた。
「ねぇ、きいちゃん」
後ろの席の飛川さんは、いつも笑顔で問いかける。
「放課後は?」
それは言えない。絶対に言わない。ボクは咄嗟に嘘をつく。
「本の予約をしているので、本屋さんに取りに行きます」
ボクの目が泳いだか? 飛川さんが、訝しい目でボクを見る。
「それ、誰の本?」
警察から職質を受ける気分は、こんな感じなのだろう。でも、負けられない。嘘に嘘を重ねるボクである。
「ドストエフスキーです」
「ミスド大好き? それ、ドーナツの本?」
バカなの?
「違います。ドストエフスキーは、有名なロシアの小説家です。ボクは今日、どうしても本屋に行かねばなりません。分かってください、飛川さん」
よし! 言えた。
「そうなんだ……マクドエフスキーなんて、知らないよ……」
その目はよしてよ、飛川さん。後ろめたい気持ちになるから。それと……マクドじゃないから。ドストだから。
まだ、何かを言いたげな飛川さん。やけに、今日はしつこいな。
「ねぇ、きいちゃん。風邪、ひいてる? 声が変だよ」
飛川さんが、ボクのおでこに手を当てた。
「や、やめてください!」
本能的に、首を反らせるボクである。
「あ、ごめん……熱はないようね。でも、雨だから気をつけて。ねぇ、きいちゃん。傘、持ってる?」
ママのような口ぶりだ。
「朝から雨じゃないですか。傘くらい持ってます!」
そのやり取りを、無言で見つめる広瀬さん。無表情が恐ろしい……。
「忍、帰るよ。きいちゃん、また来週」
飛川さんが席を立つ。それに続く広瀬さんが、去り際にこう言った。
「じゃ、反抗期……ぷっ」
なんかムカつく。見透かしたような目で、ボクを見るな! とも言えず
「おふたりとも、ごきげんよう」
作り笑顔で、ふたりに手を振るボクである。
帰れ、帰れ、とっとと帰れ!───教室の窓から、ふたりが校門を出るのを確認すると───これぞ、時は来たれりなのである。脱兎の如く、ボクは教室を飛び出した。
これからボクは、本の海で泳ぐのだ。ウキウキ、わくわく、ハラハラ、どきどき……そのすべてが止まらない。
カフェ・邂逅は、学校の最寄り駅から、ひと駅の先の町にある。
───次はぁ~、八栗。お忘れ物にご注意ください。
八栗駅のある牟礼町は、言わずと知れた石匠の町である。この駅を起点とする石あかりロードは、夏の風物詩にもなっている。ボクは、見たことないのだけれど。
飛川先生の地図に従って、テクテク歩いて絶句した───
「あれ? なんか違うなぁ……」
ここ、石の工場なんですが? それに〝定休日〟の看板が……呆然と看板を見つめるボクである。傘に当たる雨粒が、徐々に激しさを増してゆく……。
───ガタン!
シャッター横のドアが開く。
「もしかして、黄瀬君かい?」
「あ……はい」
声する方へ視線を向けると、ジーンス姿の女の人が立っていた。この人が……一途さん?
長い黒髪を後ろで丸めて、赤いかんざしが印象的だ。ママより若くて、姉ちゃんよりも年上で、三十歳くらいかな? と、ボクは思った。
「キミのことは、飛川君から聞いてるよ。ようこそ、邂逅へ。オーナーの堤一途です」
そう言うと、彼女の大きな下がり目が、三日月のカタチに変化した。きっとこの人、モテるだろうな。でも、なんとなく……笑顔の中に影がある。
「初めまして、黄瀬学公です。でも、定休日の看板が。知らずに来て……すみません」
看板を指さすボクである。
「おやおや、太宰みたいな物言いだね。キミが謝ることでは、ないんだよ。今日は定休日じゃなくて、臨時休業みたいなのものさ。この雨の中、わざわざ来てくれたんだ。遠慮せずに入んなよ」
「でも……ご迷惑では?」
刹那に真顔になる一途さん。
「子どもが遠慮なんかするんじゃないよ」
江戸っ子か?
きっと、讃岐の人ではないのだろう。その口ぶりが、時代劇の女将さんのようである。
「何してんだい、早くお入り」
一途さんに招かれるがまま、ボクは工場に足を踏み入れた───がぁぁぁ。工場の中に建物が!
「うちの店、面白い造りだろ? ファクトリーブースってんだよ。キミのお目当ての本があればいいねぇ~」
カフェの大きなガラス窓から見えたのは、整然と並ぶ本棚だ。その中に、びっしりと本が収まっている。
「うわぁ~、すごいです!」
これが、一個人の蔵書だというのだから、興奮せずにはいられない。ひと目でボクは、カフェ・邂逅の虜になった。

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