カフェ・邂逅には、ふたつの扉がある。ひとつ目の扉を開くと、カフェカウンターのような受付がある。そこで、会員証を提示して、ようやく邂逅への扉が開くのだ。
「黄瀬君。ここのルールは三つだけだ。ここから先は、飲食禁止、無言、本は大切に。それだけだ、守れるね」
「はい」
指示はないけど、スマホの電源を切るボクである。
「いい子だ。飲み物は、ここで注文して、ここで飲む。飛川君から預かっているから、お代はいらないよ。何か先に飲むかい?」
ボクはメニューを受け取った。
「いえ、後でいいです」
「じゃ、読書を楽しんで。あたしゃ、ここにいるからね。用があったら、呼ぶんだよ」
「はい」
ゆっくりと、ボクは邂逅の中へ入っていった。静かだった。カフェとは名ばかりで、小さな図書館そのものだ。このすべてが、一途さんの頭脳に収まっている……そう思うだけで、身震いするボクである。
───あ、ブログ王!
正面に配置された本棚の真ん中に、飛川先生の小説があった。先生の本だけが面陳列されていて、ポップに大きく〝店長、おすすめ!〟と書いてある。これぞまさしく、依怙贔屓……その四文字が頭に浮かんだ。
もしかして、先生と一途さんとは、特別な関係なのだろうか? よからぬことを想像し、それを刹那にかき消した。そんなことなど、あり得ない……。
先ずは、この空間を把握しようじゃないか。ボクは本棚を眺めて歩く……小説、エッセイ、詩集など。それらは、作者名ごとに並んでいて、漫画は題名ごとに並んでいる。その他に、辞書、医学書、六法全書までもが並んでいた───不思議なことに、ちょいちょい同じ本が二冊あるのはなぜだろう?
とある本にボクの視線がピタリと止まる。〝まだ見ぬキミへ〟という題名だ。それには、出版社名などの記載がなくて、個人で作成した同人誌のようにボクには見えた。作者名は、ナナシ。その筆名が、飛川先生の〝無名〟と重なって、見えない力に導かれるように、その本を手に取った。
本屋で立ち読みするように、その場で本の表紙を捲る。たかだか、百ページほどの本である。その気になれば、小一時間で読み切れる。ボクは運動音痴で鈍足だけれど、読む速度だけには自信があった。
読み始めの三行で、ボクの思考が引きずり込まれた───なんだ、これは! 洗練された文章が、まるで誰かに捧げる祈りのようだ。その文脈は、どこで切り抜いても美しく、研ぎ澄まされた迫力に満ちている……その完成度に驚嘆し、ボクの好奇心は作者へと向けらた。只者ではない。
一刻も早く読み終えて、一途さんに作者の経歴を尋ねたい。読む速度は、集中力に比例する。だから集中あるのみだ。静かに時は過ぎてゆく……。
「ごちそうさまでした」
本の表紙に向かって頭を下げる。これがボクの読了の儀式だ。その後で、すぐさま受付へ急ぐボクである。
「おや? もう、いいのかい」
キョトンとした顔の一途さん。
「あの……この本の作者をご存じですか? それとも、一途さんの作品ですか?」
ボクが〝まだ見ぬキミへ〟を手渡すと
「キミは、初見で彼を選ぶのか……」
一途さんが、吐息混じりに呟いた。薄桃色の唇が、小刻みに震えていた。

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