後ろの席の飛川さん〝032 無名とナナシ〟

小説始めました
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 カフェ・邂逅かいこうには、ふたつの扉がある。ひとつ目の扉を開くと、カフェカウンターのような受付がある。そこで、会員証を提示して、ようやく邂逅への扉が開くのだ。

黄瀬きせ君。ここのルールは三つだけだ。ここから先は、飲食禁止、無言、本は大切に。それだけだ、守れるね」

「はい」

 指示はないけど、スマホの電源を切るボクである。

「いい子だ。飲み物は、ここで注文して、ここで飲む。飛川ひかわ君から預かっているから、お代はいらないよ。何か先に飲むかい?」

 ボクはメニューを受け取った。

「いえ、後でいいです」

「じゃ、読書を楽しんで。あたしゃ、ここにいるからね。用があったら、呼ぶんだよ」

「はい」

 ゆっくりと、ボクは邂逅の中へ入っていった。静かだった。カフェとは名ばかりで、小さな図書館そのものだ。このすべてが、一途さんの頭脳に収まっている……そう思うだけで、身震いするボクである。

───あ、ブログ王!

 正面に配置された本棚の真ん中に、飛川先生の小説があった。先生の本だけが面陳列めんちんれつされていて、ポップに大きく〝店長、おすすめ!〟と書いてある。これぞまさしく、依怙贔屓えこひいき……その四文字が頭に浮かんだ。

 もしかして、先生と一途さんとは、特別な関係なのだろうか? よからぬことを想像し、それを刹那にかき消した。そんなことなど、あり得ない……。

 先ずは、この空間を把握しようじゃないか。ボクは本棚を眺めて歩く……小説、エッセイ、詩集など。それらは、作者名ごとに並んでいて、漫画は題名ごとに並んでいる。その他に、辞書、医学書、六法全書までもが並んでいた───不思議なことに、ちょいちょい同じ本が二冊あるのはなぜだろう?

 とある本にボクの視線がピタリと止まる。〝まだ見ぬキミへ〟という題名だ。それには、出版社名などの記載がなくて、個人で作成した同人誌のようにボクには見えた。作者名は、ナナシ。その筆名ひつめいが、飛川先生の〝無名むみょう〟と重なって、見えない力に導かれるように、その本を手に取った。

 本屋で立ち読みするように、その場で本の表紙をめくる。たかだか、百ページほどの本である。その気になれば、小一時間で読み切れる。ボクは運動音痴で鈍足だけれど、読む速度だけには自信があった。

 読み始めの三行で、ボクの思考が引きずり込まれた───なんだ、これは! 洗練された文章が、まるで誰かに捧げる祈りのようだ。その文脈は、どこで切り抜いても美しく、研ぎ澄まされた迫力に満ちている……その完成度に驚嘆きょうたんし、ボクの好奇心は作者へと向けらた。只者ではない。

 一刻も早く読み終えて、一途さんに作者の経歴を尋ねたい。読む速度は、集中力に比例する。だから集中あるのみだ。静かに時は過ぎてゆく……。

「ごちそうさまでした」

 本の表紙に向かって頭を下げる。これがボクの読了の儀式だ。その後で、すぐさま受付へ急ぐボクである。

「おや? もう、いいのかい」

 キョトンとした顔の一途さん。

「あの……この本の作者をご存じですか? それとも、一途さんの作品ですか?」

 ボクが〝まだ見ぬキミへ〟を手渡すと

「キミは、初見で彼を選ぶのか……」

 一途さんが、吐息混じりにつぶやいた。薄桃色の唇が、小刻みに震えていた。

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