〝まだ見ぬキミへ〟を手に取って、表紙を捲る一途さん。その眼差しは、遠恋人を想うような、愛しさに溢れていた。その振る舞いに、ボクは確信した。彼女は作者を知っているのだと。
「黄瀬君、お茶にしよう。なんにする? なんでもあるよ」
ボクの期待に反して、一途さんがメニューを見せる。
「できましたら……カルピスを」
そう、ボクはカルピス派。夏はカルピスだと決めている。
「へぇ、カルピスかい? 可愛いじゃないか……そこの椅子に座って、少し待ってな」
「はい」
受付カウンターの前には、五つの椅子が並んでいる。ボクが腰を下ろすのを確認すると、一途さんは、受付の奥の部屋へと姿を消した。そこに厨房があるのだろう。
カタっと冷蔵庫を開く音。ジャーッと蛇口から流れる水の音。カランと氷がグラスに触れる音。やがて、音がピタリと止まる……いや、違う。
「……」
静寂の厨房から、変な音が漏れている。それは、すすり泣くような声のような……。
手持ち無沙汰に、ボクはスマホの電源を入れて絶句した。不在着信が十件を超えてる。その数にボクは恐怖した。陰キャなボクに、こんなに大量の電話だなんて……そんなことなど、あり得ない。
恐る恐る、着信履歴を確認すると……ママ、飛川さん? ママ、ママ、飛川さん、ママ……最後の履歴は飛川さん。最初の着信は、五分前。ママに電話をしなければ! スマホ画面に指を乗せた途端、着信音が轟いた。先を越された、ママからだ。
「やっと、繋がった。ガクちゃん、どこにいるの? 電源が入ってないから、心配したじゃない!」
荒ぶる声のママである。
「そうだ、そうだ!」
ちょっと待て! その甲高い声は、飛川さん?
「バッテリーが切れたから、マックで充電してた……」
本日、三度目の嘘である。ボクはこのまま、汚れた大人になるのだろうか?
「あら、そうなの。大変ね」
ボクのママは、チョロかった。
「きいちゃん、マックにいるの? って、ことは……マクドエフスキーに、いるのですかい!」
やかましいわ!
「今ね、美少女の広瀬さんと……えっと、あなたはどなた?」
すると、さらに大きな声が飛んできた。
「超絶美少女の飛川さんです!」
爽やかな、心が弾むような声だった。自分自身を、そこまで過大評価できるキミは偉い! 言っとくけど、嫌味だぞ。
「その超絶ちゃんが、家にいるの。とても可愛い、ちっちゃい子」
「飛川デス! 可愛いは、許す!」
以降、ママに〝超絶ちゃん〟と呼ばれる飛川さん。
「どうして飛川さんが、家にいるの?」
「ガクちゃんの黄色いパーカーを貸してほしいって。ほら、お誕生プレゼントにもらった服。この子たちに、渡してもいいの?」
理由は分からないけれど、わざわざ家まで来たのだから、飛広コンビにも考えがあるのだろう……悪巧みの可能性もあるけれど……。
「うん。パーカーは、そのふたりがくれたプレゼントだから」
「あら、あら。そうなの、そうなの」
ママの声が裏返る。
「あーら。疑っちゃって、ごめんなさいね。広瀬さんと超絶ちゃん」
晴れて無罪放免って声で、ママはふたりに謝った。
「飛川ですぅ!」
ママに抗う飛川さん。拗ねた声でママに言う。なんだか、ふたりは打ち解けている気がするのだが?
「もう、超絶ちゃんったら、可愛いんだから」
飛川さんの抵抗を、軽く流すママである。
「だ・か・らぁ~」
どうやらママは、飛川さんを気に入ったようだ。ボクの気分は複雑だ。
「それはそうと、ガクちゃん。日暮れまでには帰るのよ!」
「う、うん……」
なんだかボクは、怒られ損をした気分になった。
「じゃ、パーカーを取ってくるわね、超絶ちゃん」
「飛川だし……」
それを最後にスマホが切れた。飛広コンビの行動は解せぬけど……今は、それじゃないボクである。
「何やら賑やかだねぇ~」
一途さんが、ボクの前にカルピスを置いた。右手にコーヒーグラスを持ったまま、一途さんは、オフィスチェアをボクの正面に移動させ、ボクらは受付カウンターを挟んで対座した。さしずめそれは、ドラマで見た、飲み屋の女将と客のようである。
「さぁ、どうぞ」
一途さんがカルピスを勧めた。さっきの表情とは打って変わって、笑みを浮かべる一途さん。その艶っぽい面持ちが、谷崎潤一郎が描くヒロインのようだ。大人の女性って感じがした。なぜだろう? ドクンドクンと、ボクの鼓動が早くなる。
「す、すみません……いただきます」
モヤっとした気持ちを悟られぬよう、グイっとカルピスを飲むボクである。
「キミの質問に答える前に、あたしからひとつだけ質問がある。いいかい?」
「もちろんです」
ボクは大きく頷いた。
「飛川三縁。彼の小説をどう思う? 忖度抜きで教えてほしい」
一途さん顔から笑みが消え、眼光が鋭くなった───

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