明晰夢(序)

ショート・ショート
ショート・ショート
この記事は約5分で読めます。

 あの頃に戻れたら……

 これが還暦ブルーというものか? 六十歳を前にして過去の記憶が蘇る。大人の記憶は曖昧で、幼い記憶は鮮明だ。認知症になると自分を若く思い込む。それが理解できる年になった。受け入れたというべきか……。

 人生を振り返る夜。それは、誰にでもあるのだろう。あの頃に戻れたら……いや、もう人間なんて一度で十分。俺は人生を諦めていた。後は年老いて死ぬだけだ。

 そんな俺にも、ひと目会いたい人がいた。数年前、彼女は先に旅立った。だから、あっちで会おうと心に決めた。言えずに終わった言葉があった。

 とはいえ、俺の健康ばかり気遣った女である。何よりも、俺の長寿を願った女である。おいそれと死ぬこともできない。彼女の願いを叶えるために、俺は小説を書き始めた。それが唯一、彼女が俺に望んだことだった。

 嘘のような話だが、俺は彼女の姿を知らない。彼女も俺の姿を知らない。ネット時代が起こした気まぐれに、俺と彼女は翻弄ほんろうされた。彼女の真意を知ったのは、彼女が他界した後であった。親族から送られた手紙には、彼女の文字が刻まれていた……とても優しい文字だった。

───明晰夢めいせきむ

 これができれば、夢を自由に操れる。俺は子どもの頃からそれができた。今は亡き、彼女の夢を見ることもある。共に語らい笑うことも……。そして目覚めれば、現実の波が動き始める。そう、すべては幻覚なのだ。美麗びれいな彼女の姿と声も、俺の脳が作り出した泡沫の夢。

 夢を夢だと認識すれば、常識を超えた物語が動き出す。それが俺の小説ネタだ。だから、小説ネタには困りもしない。プロ作家でもないのだから、そこは自由にやらせてもらおう。俺の読者は、お前ひとりだ。

 ある満月の夜……

 俺は月を眺めながら床についた───今夜の月はデッカイな。今宵の月は……スーパームーンだったっけ? 意識が飛ぶ直前にそう思った。そして、何度も見た夢の中に俺はいた。中学時代の夢である。昼休み、中庭の噴水の前。俺は初めてキタゾエに声をかけられた。

「アンタ、ホントに中学生なん? そうは見えないねぇ」

 キタゾエの隣で、取り巻きがヘラヘラと笑った。

「お前、失礼だろ! 殺すぞっ」

 条件反射で俺は答えた。

「アンタ、面白い子だねぇ」

 俺の返事にキタゾエはニヤリと笑った。

 80年代の俺たちは、血気盛んなガキだった。長いスカートにペラいカバン。誰が見てもスケバンスタイルのキタゾエは、何をするのもはちゃめちゃで破天荒な女だった。中学の途中で転校したけれど、数々の伝説を彼女は残した。お噂は予々かねがねのキタゾエとの出会い。それは俺に強烈な印象を残した。

 何度も俺は、これと同じ夢を見た。そのたびに、過去の記憶に手を加えた。そこにはいない友人を出してみたり、噴水を壊してみたり、キタゾエを暴れさせてみたり……。どれも彼女なら、有り得そうな記憶の改ざんだけれど、今回は違った。記憶そのままを……辿ろうと思った。それは、年老いた男の気まぐれだ。

 俺の通った中学の中庭には噴水があった。噴水を中心にブロック状の石材が円の形に並べられている。石材の内側は池である。池の中には色鮮やかな錦鯉が泳いでいた。たまに雷魚らいぎょが放り込まれていたのも、80年代の風物詩だ。石材は生徒のベンチの役目も果たした。昼休みになれば、石材の上に腰掛けて弁当を食べる女子の姿も日常だった。噴水から教室が近い、キタゾエがいなければの話だが……。

 そんなキタゾエと一悶着あった後、俺は夢から覚めるのだけれど……今回は、記憶がさらに先へと進む。いつもと違う感覚に、俺も少し楽しくなった。中学生の肉体が心地いい。内からにじみ出るパワーを感じつつ、俺はキタゾエと口喧嘩を続けた。あの日のそのままを俺は演じながら。

───キン、コン、カン、コン……。

「おっと、時間だ」

「いつでも来いよ」

 昼休みを終えるチャイムが鳴った。同時に俺は走っていた。俺の教室は四階なのだ。階段を駆け上る、息ひとつ乱れない。思春期の肉体は疲れを知らない。一段飛ばし、二段飛ばし、あっという間に教室だ。午後の授業は国語だった。そう、俺の嫌いな国語の授業だ。今日は何日だ? オッケー、オッケー。俺の出席番号とはかけ離れている。人前での音読が、俺は死ぬほど嫌だった。人前で声を出すのが恥ずかしかった。

「今日は、趣向を変えて……」

 教師が言う。知ってんぞ! 俺を当てる気だろ? そう、あの日もそうだった……なんて日だ。俺は声を出して教科書を読みながら、ふと気づく。これは夢のはずなのに……ひたいにコツコツと指を当てる教師の癖。上級生が書き残した机の落書き。一番後ろの席に座る不良(林と安倍)の態度。俺の右斜め前の席。井口が隠れるようにルービックキューブを回している。

 なにもかもがリアルすぎる。でもこれは夢。現実に戻らねば……目を覚まさなければ。俺は焦った。夢が透明になってゆく……その違和感に、俺は恐怖さえも感じていた。午後の授業を終え、部活を終え、家に帰って飯を食う。そして、諦めてベッドに潜り込む。次に目覚めれば、きっと夢から覚めるだろう。

「なんでやねん?」

 俺の上に子犬が乗っかっている。知ってんぞ、お前! ジャックという名のヨークシャテリア。俺が二十五歳まで、家で飼っていた犬である。タイムリープか? パラレルか? 胸にジャックを抱き抱え、呆然としていると階段の下から声がする。

「アンタ、学校遅れるよ」

 オカンの声に、俺は朝からイラついた。クソババアまでもが、パワーアップしていやがる。

「分かっとるわい!」

 そして俺は、二度目の人生を歩み始めた。

コメント

ブログサークル