明晰夢(昭和)

ショート・ショート
ショート・ショート
この記事は約5分で読めます。

 二度目の人生、最初の朝。

 俺は自転車の前で絶句した。そうだった、そうだった。この自転車は……確かに俺のだ。

「かーっ! これで学校に行けってか?」

 六段変速の黒いボディ。ダブルヘッドライト、テールランプ、ブレーキランプ、方向指示機まで完全装備。そう言えば聞こえもいい。だがこれは、スーパーカー自転車(ジュニア自転車)なのである。隣にたたずむ弟の自転車は、ランボルギーニ・カウンタックをイメージしたタイプ。ボタンを押すと隠れたライトがギュイーンと上がるタイプである。

「記憶からは薄くなったが、これはもう……デコデコのデコチャリだな」

 これでも中身は還暦かんれき前。このデコチャリで中学へ行くか? しばらく俺は考えて徒歩に決めた。家から中学まで、ぴったり二キロ。メタボ対策で夜の散歩を続けた日々を思えば、問題もなかろうて……俺の自転車は弟にやろう。そう決めて、俺は中学に向かってテクテクと歩き始めた。カバンはプーマのスポーツバック。中身は弁当と筆記用具だけが入っている。シャーペンと消しゴムはBOXY(ボクシー)の缶ペンの中だ。

 教科書とノートは教室のロッカーに置きっ放しだ。弁当さえあればそれでいい。ちなみに、所持金は十円玉が十枚だけ。中学生になったばかりの俺は、緊急時の公衆電話代しか持たされていなかった。よくも、こんなので生きていたと思う。だがしかし、それは自分だけではないのも事実。過去の記憶を辿たどってみても、金がないからという理由で困ることもなかった───そう、それが昭和である。

「おはよう」

「おはよう」

 どいつもこいつも幼い顔してるのな……。こいつらと同じ年齢の肉体を持ちながら、保護者のような目で校内を見渡した。大人に見えた三年生さえもが、子どものように見えてしまう。教師の顔ですら鼻垂れ小僧に見えていた。五月さつき晴れの校門で、俺と同じ目をした女がいた───キタゾエだった。校門に背をもたれて腕組みをしている。腕まくりしたセーラー服が、俺に向かって一直線に歩いてくるのだが、この記憶が俺にはない。

「アンタ。放課後、顔貸しな。神社の裏で待ってるから」

 それだけを俺に告げると、キタゾエは自分の教室へ戻っていった。神社の裏……か。中学の近くに神社がある。オンボロで人気ひとけのない場所。その裏にある竹林が俺たちが呼ぶ〝神社の裏〟だ。

 そこは、不良たちのたまり場である。一度目の人生、そこへ俺が足を踏み入れたのは、夏休みの少し前だった。今回は二ヶ月以上も早いのか……。それよりも、俺はキタゾエの目が気になっていた。俺のことも未来のことも、その何もかも……知っているふうに俺には見えた。キタゾエの背中を見送る俺の背中をポンと叩く奴がいた。

「お前、キタゾエ一派に入ったのか? 俺らの中学は、校内暴力で目立ってるらしいからな。高校入試の内申点とかヤバくなるぞ」

 俺とキタゾエとの様子を見ていた、同じクラスの足立あだちが言った。

「そんなんじゃねぇーよ。てか、今週号のジャンプ買った?」

 俺はジャンプが読みたい。だって、そうだろ? 一九八〇年のジャンプなんてお宝だ。車田正美のリンかけ(リングにかけろ)読みてぇ。

「いや、サンデー買った。ジャンプとマガジンは、ほかの奴らから借りられるだろ?」

 そりゃそうだ。俺たちの周りでは、サンデー派は少ないものな。そう思えば、足立君。それはベストチョイスというものだ───俺にとってのな。

「あぁ、ラムちゃんの方ね。足立君も思春期ですなぁ。そうそう、タッチは?」

「タッチって?」

 あ……そっか。まだなのか……。あだち充のタッチが発表されるのは来年である。

「間違った───がんばれ元気だ」

 慌てて俺は誤魔化した。未来の改変は、たぶん……マズい。

「朝イチって、社会だったろ? サンデー回せよ」

 話の矛先を俺は変えた。

「オッケー」

 還暦前の俺からすれば、こんな誘導なんて赤子の手をひねるようだった。

 一度目の人生に不満や後悔がないと言えば嘘になる。ただ、俺の子どものことを考えたなら、自由奔放に生きることなど論外だった。下手をすれば、子どもの存在がなくなるのだから……。

 俺と足立が教室に入ると、男子生徒が集まっていた。

「足立! これ、見てみろよ!」

 それは、任天堂ゲームウォッチのビラだった。懐かしいのう……俺が遠目でビラを眺めていると、副委員長の美藤夏夜びとうかよが、俺にルービック・キューブを差し出した。

「これ、何面まで合わせられる?」

「六面だけど?」

 俺は事実をそのまま告げた。

「バカなの?」

 美藤は小馬鹿にしたような顔で俺に言う。

 ガリ勉ちゃんの優等生でも、ルービック・キューブは難問だったか───。お前はな、これから女医になるんだぜ。そして俺に、散々、説教をするんだよ。四十代の俺に向かって

「このままじゃメタボになるわね。てか、メタボだわ。ダイエットするか、薬を飲むかね。それとも……死ぬ?」

 美藤は真顔で俺を脅した。その日から、俺は夜の散歩に勤しんだ。お前はな、そんな究極の選択を俺に言うようになるんだぜ。俺はちょいと、美藤にいい格好をしたくなった。

「貸してみな、ルービック」

 散々やった六面体である。そんなの中二で攻略済みだ。俺はキューブを回し始めた。完成までのプロセスは、俺の指が覚えている。

───カチャカチャ……

 三分後、俺は六面体を完成させた。

「ねぇ、あなた……いつからそんなに賢くなったの?」

 今の俺は、お前より遥かに賢い。

 ピンクの眼鏡フレームの向こう側。美藤が目を大きく見開いた。俺は優越感に浸りながらも、放課後のことを考えていた。神社の裏に俺を呼び出すキタゾエの目的とはなんなのか? これから始まる未来が、俺の記憶の中にない……。

コメント

ブログサークル