二度目の人生、最初の朝。
俺は自転車の前で絶句した。そうだった、そうだった。この自転車は……確かに俺のだ。
「かーっ! これで学校に行けってか?」
六段変速の黒いボディ。ダブルヘッドライト、テールランプ、ブレーキランプ、方向指示機まで完全装備。そう言えば聞こえもいい。だがこれは、スーパーカー自転車(ジュニア自転車)なのである。隣に佇む弟の自転車は、ランボルギーニ・カウンタックをイメージしたタイプ。ボタンを押すと隠れたライトがギュイーンと上がるタイプである。
「記憶からは薄くなったが、これはもう……デコデコのデコチャリだな」
これでも中身は還暦前。このデコチャリで中学へ行くか? しばらく俺は考えて徒歩に決めた。家から中学まで、ぴったり二キロ。メタボ対策で夜の散歩を続けた日々を思えば、問題もなかろうて……俺の自転車は弟にやろう。そう決めて、俺は中学に向かってテクテクと歩き始めた。カバンはプーマのスポーツバック。中身は弁当と筆記用具だけが入っている。シャーペンと消しゴムはBOXY(ボクシー)の缶ペンの中だ。
教科書とノートは教室のロッカーに置きっ放しだ。弁当さえあればそれでいい。ちなみに、所持金は十円玉が十枚だけ。中学生になったばかりの俺は、緊急時の公衆電話代しか持たされていなかった。よくも、こんなので生きていたと思う。だがしかし、それは自分だけではないのも事実。過去の記憶を辿ってみても、金がないからという理由で困ることもなかった───そう、それが昭和である。
「おはよう」
「おはよう」
どいつもこいつも幼い顔してるのな……。こいつらと同じ年齢の肉体を持ちながら、保護者のような目で校内を見渡した。大人に見えた三年生さえもが、子どものように見えてしまう。教師の顔ですら鼻垂れ小僧に見えていた。五月晴れの校門で、俺と同じ目をした女がいた───キタゾエだった。校門に背をもたれて腕組みをしている。腕まくりしたセーラー服が、俺に向かって一直線に歩いてくるのだが、この記憶が俺にはない。
「アンタ。放課後、顔貸しな。神社の裏で待ってるから」
それだけを俺に告げると、キタゾエは自分の教室へ戻っていった。神社の裏……か。中学の近くに神社がある。オンボロで人気のない場所。その裏にある竹林が俺たちが呼ぶ〝神社の裏〟だ。
そこは、不良たちのたまり場である。一度目の人生、そこへ俺が足を踏み入れたのは、夏休みの少し前だった。今回は二ヶ月以上も早いのか……。それよりも、俺はキタゾエの目が気になっていた。俺のことも未来のことも、その何もかも……知っているふうに俺には見えた。キタゾエの背中を見送る俺の背中をポンと叩く奴がいた。
「お前、キタゾエ一派に入ったのか? 俺らの中学は、校内暴力で目立ってるらしいからな。高校入試の内申点とかヤバくなるぞ」
俺とキタゾエとの様子を見ていた、同じクラスの足立が言った。
「そんなんじゃねぇーよ。てか、今週号のジャンプ買った?」
俺はジャンプが読みたい。だって、そうだろ? 一九八〇年のジャンプなんてお宝だ。車田正美のリンかけ(リングにかけろ)読みてぇ。
「いや、サンデー買った。ジャンプとマガジンは、ほかの奴らから借りられるだろ?」
そりゃそうだ。俺たちの周りでは、サンデー派は少ないものな。そう思えば、足立君。それはベストチョイスというものだ───俺にとってのな。
「あぁ、ラムちゃんの方ね。足立君も思春期ですなぁ。そうそう、タッチは?」
「タッチって?」
あ……そっか。まだなのか……。あだち充のタッチが発表されるのは来年である。
「間違った───がんばれ元気だ」
慌てて俺は誤魔化した。未来の改変は、たぶん……マズい。
「朝イチって、社会だったろ? サンデー回せよ」
話の矛先を俺は変えた。
「オッケー」
還暦前の俺からすれば、こんな誘導なんて赤子の手をひねるようだった。
一度目の人生に不満や後悔がないと言えば嘘になる。ただ、俺の子どものことを考えたなら、自由奔放に生きることなど論外だった。下手をすれば、子どもの存在がなくなるのだから……。
俺と足立が教室に入ると、男子生徒が集まっていた。
「足立! これ、見てみろよ!」
それは、任天堂ゲームウォッチのビラだった。懐かしいのう……俺が遠目でビラを眺めていると、副委員長の美藤夏夜が、俺にルービック・キューブを差し出した。
「これ、何面まで合わせられる?」
「六面だけど?」
俺は事実をそのまま告げた。
「バカなの?」
美藤は小馬鹿にしたような顔で俺に言う。
ガリ勉ちゃんの優等生でも、ルービック・キューブは難問だったか───。お前はな、これから女医になるんだぜ。そして俺に、散々、説教をするんだよ。四十代の俺に向かって
「このままじゃメタボになるわね。てか、メタボだわ。ダイエットするか、薬を飲むかね。それとも……死ぬ?」
美藤は真顔で俺を脅した。その日から、俺は夜の散歩に勤しんだ。お前はな、そんな究極の選択を俺に言うようになるんだぜ。俺はちょいと、美藤にいい格好をしたくなった。
「貸してみな、ルービック」
散々やった六面体である。そんなの中二で攻略済みだ。俺はキューブを回し始めた。完成までのプロセスは、俺の指が覚えている。
───カチャカチャ……
三分後、俺は六面体を完成させた。
「ねぇ、あなた……いつからそんなに賢くなったの?」
今の俺は、お前より遥かに賢い。
ピンクの眼鏡フレームの向こう側。美藤が目を大きく見開いた。俺は優越感に浸りながらも、放課後のことを考えていた。神社の裏に俺を呼び出すキタゾエの目的とはなんなのか? これから始まる未来が、俺の記憶の中にない……。
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