早朝五時五十五分……。
日曜日だというのに、運動部員たちが所狭しとグランドの中を駆けている。野球部の金属バットが奏でる快音。サッカー部員たちの踊るようなドリブル。正確にゴールに向かってシュートを決めるバスケ部員。チーターの如く全力疾走するスプリンター。そして、先輩にエールを送るテニス部員の黄色い声援。その光景に、青春の息吹を俺は感じた。一度目の人生……俺は、あの中の一員だった。
「お早いですね、キューブさん。おはようございます」
体育館の前。運動部の練習を見つめる俺に、サクラギが声をかけた。サクラギは、見た目どおりの几帳面な性格なのだろう。腕時計を確認すると、時計の針は縦に直線を描いていた。
「サクラギ先輩。おはようございます」
俺はサクラギに頭を下げたのだが、体育館の鍵を持つ、芥川の姿は未だ見えない───寝坊か? そうなんだな!
「では、図書室に向かいましょう。日曜日とはいえ、運動部がいると平日と同じですね」
賑やかなグランドに視線を向けて、サクラギはにっこり微笑んだ。
「えっ!───先生は?」
未だ俺は、彼に対する警戒心を解けずにいた。この男……いい人すぎる。リピーターの俺にとって、都合がよすぎる存在と言うべきか? サクラギの振る舞いが、仕組まれた演技のように思えてならない。だから気が抜けない。けれど、男女問わずモテるタイプであるのに違いない……俺は直感的にそう思った。
「先程、津川先生から体育館と図書室の鍵を預かりました。先生は、職員室でコーヒーを飲んでから図書室に来るそうですよ」
そう言って、サクラギは体育館の鍵を開いた。誰もいない体育館は、澄んだ空気に満ちていた。窓から差し込む朝日の帯が、天使の梯子のようでもあった。俺はサクラギの後に続いて、二階への階段をゆっくり登った。
───これぞまさしく、エクセレント……。
春の朝日に包まれた図書室は、一度目の人生で、年老いた俺が夢にまで望んだ空間だった……さぁ、これから三島を読もう。俺の闘志に火が灯る。
サクラギと交わす言葉もなく、俺は本棚から金閣寺を引き抜くと、図書室の一番奥の左端の席に座った。俺とは反対側の右端の席にサクラギは座り、昨日と同じ古文書を開く。それは共に、昨日と同じ席であった。すると、ジャージ姿の芥川が、10冊ほどの本を抱えて入室したのだが……何やら芥川の雰囲気がまるで違う。
「おはよう。これから楽しい読書の時間だ! お前たちも、しっかり楽しめ。俺は勝手にやるから、苦しゅうない。お前らも良きに計らえ」
そう言うと、受付デスクの席に座った。芥川の顔は、遠足バスに乗り込んだ、幼稚園児のようである。どうやら、机の上に置いた10冊の本。それを今日、全て読了するつもにりなのだろう……。やはり、化け物は化け物だ……。
「はい!」
サクラギは、優等生の声で返事をしたのだが……おい、アンタ───芥川?
初見の芥川……金曜日の芥川は、偏屈で面倒そうな風貌に加えて、何かが二重螺旋で拗れたような雰囲気だった。土曜日……昨日の芥川も、とっつきにくい国語教師のオーラを放っていた。がしかし、あの寝癖のような髪型を下ろし、背広を白いジャージに変えて、子どものような笑顔で本を開くと、芥川の印象がガラリと変わる。口にくわえたタバコさえなければ、令和の世でも十分通用する好青年に見えた。令和のイケメンとは比較にならない……彼は昭和の美男子だった。
───三十歳を過ぎた独身は、過去の恋愛を引きずっているとか、性格に難があるとか。そんな、何かしらの問題がある。
男女問わず。独身に対する風当たりが、台風の如く吹き荒れた昭和である。それは、無茶な同調圧力と呼べるものでもあった。教師であり、美男子であり、頭脳明晰なこの男が、どうして独身を貫いているのか? こんなの身内が放ってはおかない。校長だとて、見合い写真を片手に縁談話を勧めるだろう。昭和の時代。それが上司たるものの務めでもあった。生徒から芥川と呼ばれる男には、これまで鬱陶しいほどの縁談話があったはずだ。そして昭和は若者にとって、夢と希望で満ち溢れていた。もしかして……それが原因で、あの、ヘンテコな髪型と風貌に?
俺が手に持つ金閣寺。それを一度開いて、また閉じて。芥川の席に目をやると、映画俳優ですら尻尾を巻く美男子が、楽しげな顔で足を机に乗せていた。
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