日曜日の図書室で古文書に目を通すサクラギは、古代の謎でも解くかのように、背筋を伸ばしてパイプ椅子に座っている。彼が放つ眼光が、俺には武術の達人のように見えた。その一方で、芥川は受付デスクに足を乗せ、俺に足の裏を向けている。緊張と弛緩。相反する読書スタイルを横目に、俺は裏が白紙の新聞広告の束を長机の上に置き、その上にBOXYのシャーペンを乗せた───いざ、金閣寺! 俺の準備は整った。
早朝六時を過ぎれば、剣道部、卓球部、バドミントン部、バレー部……体育館も部活の生徒で賑わい始め、グランドからの声出しの響きと相まって、図書室も平日さながらとなるのだが、俺の耳には何も届かなかった。これでもかと、俺は三島に圧倒されていたからだ。この男……控えめに言っても化け物である。語彙の奏でる圧が、強い。川を流れるような太宰に反して、アルプス山脈のように語彙が連なる。その頂きの高さに、俺の心が壊れてゆく……。
一度目の人生で、俺はそれなりに書いたつもりだった。毎日、精進した自負もある。その蓄積がドミノのように倒れ去る。なぁ、アタエ……俺がこうなることを予見して、お前は彼らを薦めなかったのか? こんな事実……還暦手前にゃ、キツいもんな。
アタエは、俺の執筆を陰で支えた協力者であり、〝作家のいろは〟を俺に教えた師匠でもある。出版業界に精通する彼女のアドバイスに従って、俺は小説を書いていたのだ。
俺が本を読むようになったのも、彼女からのアドバイスがあってこそ。俺には本を読む習慣がまるでなかった。そんな俺に、ラノベから始まり、漫画や絵本に至るまで……参考になる書籍を選ぶと、片っ端から俺に与えた。俺はそれらを読みながら、並行して執筆活動を進めていたのだ。文豪とは、かくも巨大なものなのか。それこそ、初めて巨象を見たアリである。俺など到底、足元にも及ばない───ごめんなさい、ごめんなさい。知識足らずで、ごめんなさい……心の奥底で、アタエに謝る俺がいた。
メモを取るシャーペンの芯が、一文節でポキポキ折れた。一文で指の生爪が剥がされた。一段落になると指の骨がへし折られ、ページを捲る度に腕の骨が砕かれる。手に持つ本が、ドス黒い俺の血の色に染まってゆく……そんな恐怖に煽られながら、俺は金閣寺を読み進めた。俺は必死に、筆を折りたい誘惑に抗った。それは、自殺願望に近い衝動だった。それを心に閉じ込めながら、俺は金閣寺を読み進めると……どうしてだろう? 視界が……ぼやけた。
窓から見える太陽が、空の真上に登る頃。誰かが俺に声をかけた。サクラギかもしれないし、芥川だったのかもしれない。もしかして美藤か?……それはない。俺には、そんなのどうでもよかった。十三歳のコンディションなら、今日中に金閣寺を読了できる。俺は一切を無視して読み続け、広告の裏にメモを残した。その文字は、きっと赤い色なのだろう。
三分の二まで読み終えると、広告のストックが怪しくなった。最後の一枚だけは残さねば……金閣寺を読み終えた後で、それに何かを書くはずだ。先にある語彙の嵐を、メモの隙間に俺は書いた。金閣寺を読み終えると、広告の裏が隙間なく、俺の文字で埋め尽くされた。図書室の窓から外を見ると、日がとっぷりと暮れていた───
誰かが蛍光灯のスイッチを入れたのだろう。壁に掛けられた丸時計を見ると、午後七時を少し回ったところで、図書室では秒針の音だけが鳴り響く。カチカチカチ……秒針の音を聞きながら、俺は金閣寺の余韻に浸った。三島と太宰に俺の全てが粉砕された。だが、この気分も悪くない。きっと、これも若き肉体の恩恵なのだ。若いって素晴らしい。ありきたりだけれど、それが今の俺には、ピッタリだった。
「おーい、キューブ。金閣寺はどうだった?」
俺に足の裏を見せながら、芥川がそう言った。白いソックスを被った足の指が、ピクピクと動いている……水虫か? そうなんだな!
「感無量……だと思います、たぶん」
「そっか、そっか。俺には分かる───お前は書く側の人間だ。どうだい、キューブ。書きたくて、うずうずしてるだろ?」
本以外を寄せ付けない芥川が、人の心を取り戻したようだ。
「ところで、お前。そろそろ涙を拭わないか?」
芥川が俺に向かってタオルを投げると、タオルが床にひらりと落ちた。俺は慌ててタオルを拾って涙を拭いた。
「ちょっと、来い!」
芥川が俺に手招きをする。
「あれ、持って帰れ」
芥川が指差す方に、原稿用紙の束と万年筆があった。
「小説書くなら、原稿用紙が必要だ。俺は原稿用紙を山ほど持っている。無くなったら言いに来い。それと、万年筆は俺からの〝頑張ったで賞〟だ。俺の使い古しで悪いけど、もう、俺には必要ないから、お前が使え。頑張れよ、十三歳!」
かつて、芥川も作家を目指したのだろう。彼ほどの知識を持ったとしても、作家への道は険しいと言うのか? 色褪せた原稿用紙と古ぼけた万年筆に、厳しい現実を俺は感じた。
「ありがとうございます。大切にします」
「まぁ……卒業までに、一本読ませろ」
芥川の原稿用紙と万年筆。それを有り難く頂戴した。俺は最後の広告一枚に、万年筆で文字を書く───
「で、何を書いた?」
「先生、これです!」
「ほう……」
俺が広告の裏を見せると、芥川が初めて俺に笑顔を見せた。俺が広告の裏に書いた文字。それは〝無力〟の二文字だった。
中学の裏門を出て天を仰ぐと、大きな丸い月が浮かんでいた。さぁ、お家に帰って筆を走らせよう。この人生で、俺にはやるべきことがある。そして、時は待ってくれない。
「お疲れさまでした。とても、いいお顔になりましたね」
「うわぁ!」
俺を驚かせた声の主は、自転車に跨ったサクラギだった。
「ど、どうしたんですか? サクラギ先輩」
「津川先生からプレゼントを貰ったでしょ? アナタと……いいえ。未来の作家の卵と出会えて、先生も嬉しかったのだと思います。これは僕からアナタへのプレゼントです。将来きっと、お役に立つと思いますよ」
サクラギが俺に二冊の本を渡した。
「この本は、僕の大切な友人たちが書いた本です。よろしければ、一読していただければ嬉しいです」
それだけ告げると、サクラギは自転車に乗って走り去った。俺の手の中にある二冊の本。その作者は、飛川三縁と旅乃琴里。その二冊とも、発行年月日は未来であった───
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