明晰夢(アタエ)

ショート・ショート
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 日曜日から月曜日に日付が替わる直前で、今夜は寝ないと心に決めた。金閣寺に興奮して眠れないのだ。書きたい、書きたい、書きたい……腕がうずいて眠れない。机の上に原稿用紙の束を置き、その横に新聞広告に書いたメモを添えた。もう、舞台は整った。さぁ、書こう。パン、パン、パン。気合を入れて頬を叩く。すると、俺の脳裏に不安がよぎった。アタエ……俺に小説が書けるだろうか? お前が満足するような小説を……。

 一度目の人生で、俺を陰で支えたアタエはいない。俺の最高の理解者だった。アタエとの二人三脚に慣れ切った俺が、ひとりで小説を書けるのか? だが、今の俺にはアタエがいない。腹をくくって、芥川あくたがわの万年筆……いや、慣れるまではシャーペンだ。俺は小説を書き始めた……。

 この数日で、俺の未来はすっかり変わった。キタゾエと語らうことも、美藤と仲良くなることも、読書部なんてどこにもなかった。そして、いるはずのないサクラギと二冊の小説。一度目とは違う人生を俺は歩み始めた。もう、彼女との接点は断たれたのかもしれない。でも、もし運命がそうさせるのなら……万が一。そう、万が一のために俺は書くのだ。ガリガリと文字を書く音だけが、俺の部屋の中に響いていた。アタエ、これいいよな……。二十三年後の未来に向けて、俺は静かに動き始めた。アタエが俺に教えてくれた、過去の出来事の記憶と共に……。

☆☆☆☆☆

 一度目の一九八〇年。

「ほら、アタエおばちゃんが来ましたでちゅよぉ~」

「もう、お姉ちゃんったら。お義兄さんも笑わないでよぉ。でも、この子───めちゃ、きゃわいい!」

 十三歳の私は叔母さんになった。ひとまわり上の姉に赤ちゃんが生まれたのだ。初めて姪っ子を見た瞬間、私の母性が爆発した。運命すら感じてしまった。可愛い、可愛い、可愛い。この世で一番、この子が可愛い。雪のような白い肌。ピンクの唇とふっくらした赤い頬。キョロキョロ動く大きな瞳の周りを、長いまつ毛が縁取っている。なんて可愛らしい赤ちゃんなの? 誰に似たのよ? この子! 見てみてこの指、ちっこいの。ちぃっちゃな指の先で、ちいさな爪が桜貝みたいに、キラキラと───光ってる。姪っ子の小さな体の中に、人体のふしぎが詰まってる。一瞬で、私は姪っ子の虜になった。絶対、前世でも会ってるわ。その時、私はそう思った。

「ねぇ。もしも、この子に彼氏ができたら。私、絶対に許さない! ねぇ~……私の可愛い姪っ子ちゃん♡」

 そう言って、私は、姪っ子の頬にキスをした。きっと、義兄さんも同じ気持ちなのだろう。悪い虫は駆逐する。そんな顔で私にうなずく。この日から、私と義兄さんとの間に、奇妙な連帯意識のようなものが生まれた。そう、地球はこの子を中心に回るのだ。で、遊び、語らう。私は姪を、わが子のように溺愛できあいした。だって、姉の家は隣だもの。毎日だって、会えるのよ。私の生活の中に、姪っ子の姿が組み込まれた。人生の絶頂を感じていた。私は……幸せだった。

 二〇〇三年。

 可愛い姪が旅立った───私は悲しみのどん底に落ちた。

「アタエちゃん。わたしのお月様、よろしくね。アタエちゃんならできると思うの……」

「何言ってんの? 私がお月様と会わせてあげる。だから……生きるのよ」

「うん。楽しみ」

 それが、姪と交わした最後の会話だ。ネットの向こう側の人物という以外……私は、彼のことを何も知らない。姪が残したノートを頼りに、私は彼にコンタクトを取った。そして私は息を吞む。姪が恋焦がれたお月様。それは、妻子持ちの男だった。大切な姪が、こんな男と! アンタの化けの皮をはがしてやるわ。私の心は荒れ狂っていた……。

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