───東京都知事だって?
キタゾエは確かにそう言った。だがそれは、決して容易な道ではない。たとえ、未来を知っているとしても……茨の道だ。一度目の人生で、彼女に何があったのか? 俺はそこが気になり始めた。
「お前の一度目に何があった?」
当然の質問だ。
「アンタにだって、分かってんだろ? この先、どんな未来がやってくるのか。ウチは思ったんよ……どんなに足掻いたところで、ロクな未来なんてありゃしない。だったら、ウチが変えるしかないじゃないか!」
なんか、お前……男前だな?
その考えには一理ある。少なくともバブル以降、日本の名声は落ちぶれた。私利私欲にまみれた政治屋と拝金主義の民衆が、こぞって幅を利かせる世の中だ。その上、ネットでは誹謗中傷の嵐である。どいつもこいつも病んでいやがる……それは紛れもない事実だった。キタゾエは、中空を眺めながら俺に言う。
「ウチの息子は優秀だった。とても賢い子どもだった。東大に入ったんだよ」
誇らしげにキタゾエは言う。
「そりゃすげーな」
素直に俺はそう答える。
「東大に入って、都庁職員になって……死んだわ───自分で」
「自分で?」
順風満帆のエリートのはずなのに……。俺は、キタゾエの言葉に息を飲んだ。
「そう。隠蔽工作の成れの果てさ……。シゲルは……息子は真面目すぎたのさ。きっと、自責の念がそうさせたんだ。あの子は、気の優しい子だったからね。ウチの前では笑顔を見せて、その裏で悩んでいたんだろうね……ウチは母親失格さ」
そう言うと、大きな輪っかをまた作る。舞い上がる煙の輪っかを目を細めて追いながら、キタゾエは話を続けた。
「一度目と未来が違って進むのを、ウチだって、一ヶ月もすれば理解できた。雨が降るから傘を持って家を出たとか、テストの点がよかったとか、授業をばっくれなくなったとか……一度目とは違う小さな変化の積み重ねだね。ウチは、最初の旦那を見に行ったんだ。旦那が通うのは隣町の中学だからね。急に恋しくなったのさ。そしたらアイツ、聖子ちゃんカットのブリッコ連れて歩いてた───誰よ、あの女! 正直、そう思ったね。嫉妬もしたさ。でもね……その時、ウチは悟ったんだよ。もう……この人とは一緒になれないって。その先は……案の定ってヤツだった」
「どうして最初の旦那と別れたんだ?」
「浮気……よくある話よ。だから別れた。きっと、許せなかったのね……」
「許せなかったって……お前がか?」
「いーや、旦那が!」
おいおいおい……それは、お前が不倫してたってことじゃないか?! 黄昏れた顔で半ギレているキタゾエに、俺は少しめまいがした。それって……アリなの? 困惑の表情を見せる俺を、キタゾエが畳み込む。
「あれは、ウチがパートしていたスーパーの店長だったわ。彼はね、ウチの相談にのってくれたの……」
ちょっ、待てよぉ~! 俺は調子に乗ったキタゾエに口を挟む。
「そこは、要らん! 聞くんじゃなかった。どんな理由があろうとも、悪いのはお前だ。浮気したお前が悪い!」
「ちぃ! こっから面白いのに……マジメか?」
話を止めた俺に向かって、キタゾエが舌打ちをする。
「うっせーわ。東大の話をしてくれ。俺をおちょくっとんのか?」
俺は少しイラつき始めた。やれやれ……そんな顔してキタゾエは本題に戻った。
「中二になって、ウチは東大を目指した。中学生の試験なんて、一回、人生やってりゃチョロいもんよ。それは、アンタにも分かるだろ? これから始まる中間テスト。アンタだって、嫌でも上位に食い込んでるよ。死んだ息子に会えないのなら、息子を死へと追い込んだ奴らに、復讐してやろうってね……アンタ、そんなウチを笑うのかい?」
行政内部からの腹破りか……。俺は首を横に振る。
「いや……」
俺にだって息子がいた。息子がそんな目に遭わされたら、俺だって復讐を考えるだろう。だが、お前は入れたのか? 日本一の東大へ。俺の思いを察してか、キタゾエがニヤリと笑う。
「ウチが東大? お前に入れるわけない。アンタ、そう思っただろ?」
ご名答!
「ウチはね、息子と二人三脚で東大受験に挑んだんだよ。だから、受験の知識を持っていた。息子がどんな勉強をしていたとか、どの参考書を使っていたとか、模擬テストで何点取ればいいのかだとか……それをそのままやっただけよ」
簡単に言うんだな。俺の知るキタゾエの知能は未知数だが、中一レベルなら勉強しなくてもトップを目指せる。頑張り次第で突き進むことだって可能だろう。あいつは笑っているけれど、きっと執念で勝ち取った合格だ。今のアイツの目を見れば、それは俺にも想像できる。なぁ、キタゾエよ……お前は立派な母ちゃんだ。浮気さえしなければな。
「で、キタゾエ。お前は、東京都知事になれたのか?」
「慌てる男は……嫌われるよ」
そう言うと、キタゾエはタバコを大きく吸い込んだ。鼻から煙を吐き出しながら、靴でタバコの火をもみ消している。もみ消した吸い殻の上に足で土を被せながら、キタゾエは重い口をゆっくり開いた。
「いーや。なれなかった」
「そっか……」
だよな……。
「政治の世界には闇が多すぎてね……ウチは見事に落選したよ。ウチの知ってる日本はね、何も変わらず未来に進んだ。ウチには何もできやしない。悪魔でなければ、政治の世界じゃ生き残れない。それを悟って、三度目は静かに暮らしたよ。でも、悪い人生じゃなかったよ。収穫はあった……」
無念の表情でキタゾエは言う。きっと三度目も、キタゾエが満足できる人生ではなかったのは明らかだった。
「で、今回はどう生きる?」
俺はキタゾエに問う。キタゾエは、自信に満ちた顔で答えた。
「もう一度、やってみようと思っている。今度は人海戦術を使って」
「数の原理か?」
「そう。三度目の人生でウチは気づいた。ウチだけが特別な存在じゃないことに……ウチの他にも未来を知る人間はいるはずだ。日本の行く末を知る者ならば、きっとウチに賛同してくれるはずだ」
そりゃ、確かにそうだ。事実、俺はキタゾエに賛同している。リピーターが多数いれば、総理だって夢じゃない。理論上、そうである。だがしかし、そもそもリピーターなんてホイホイいるのか?
「三度目で見つけたのか? リピーター」
「いたっ!」
キタゾエは大きく頷いた。
「そういうのはね、選挙活動と同じなんだよ。一度目の記憶と違う行動を取る奴らに、ウチは片っ端から声をかけた。今、アンタにしていることと同じだよ。ウチらの中学で三人、高校で一人、東大じゃ見つけられなかった。でも、きっと相当数の同士がいるのは分かった。だからウチは、アンタに声をかけたのさ。アンタはウチの予想どおりだった。この意味が分かるかい?」
キタゾエとの出会いは、百年の孤独から俺の心を救うだろう。キタゾエと組んで、世直しするのも悪くない。俺たちの知識と知恵は、過去に戻っても継続される。その上、三度の人生を経験したキタゾエの可能性は計り知れない。そして、俺たちは十三歳の肉体を持っている。これぞまさしく神の領域。
「ようこそ、過去へ……そして、未来へ! 日本の未来をウチと変えよう!」
目を輝かせたキタゾエが、俺に向かって右手を差し出す。その顔は、まさしく立候補者のそれだった……。
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