明晰夢(ルービック師匠)

ショート・ショート
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 三度の人生を経験した女。キタゾエが俺に手を差し伸べる。その手には、日本の未来を変える道があった。しかし、俺にはやるべきことがある。ひとりの女の死を看取りたい。だから俺は、キタゾエが差し伸べた手をためらった。

「どうしたんだい? ウチじゃ不服かい?」

 キタゾエが不満げに言う。

「そうじゃないんだ……そうじゃなくって……」

 キタゾエの考えには賛同している。令和から昭和へ戻れば、誰もが賛同するだろう。若き肉体は無敵で、それを操る脳は無限の可能性を秘めている。でも、俺にはそれができなかった。

「悪いな……キタゾエ。俺、どうしても会いたい人がいるんだ。その人の命が尽きるまで、その人の側にいたいんだわ。だから、お前にベッタリ付き合えない。でも、お前の考えには賛同するよ。応援もする。それで……いいかな?」

 キタゾエが俺の肩に手を当てた。

「それで、いーんじゃない? アンタの人生なんだから」

 その手で俺の右手を強引に掴むと、キタゾエは笑いながらそう言った。こいつは昔からそうだった。人を巻き込む不思議な魅力に溢れている。何かを変えてくれるような、そんな期待度満点な女だった。

「じゃ、ウチとイッパツやっとく? 大人の付き合いだ、減るもんじゃないし」

「減るみたいだぞ?」

 嫁は、かたくなに減ると言って拒んでいたけどな。

「でもアンタ……今は童貞だろ? ほら、乳揉むかい? ムラムラするだろ? ジジイになって、そんなことも忘れたかい? それとも、ウチのじゃ嫌なのかい?」

 無邪気に笑うキタゾエに俺は思う。お前、そういうところは変わんねーな。据え膳食わぬは武士の恥ってか? 俺は真っ直ぐに、キタゾエの小高い丘を目がけて手を伸ばす……。

───ピー♪ ピー♪

 竹林の向こうから、取り巻きが指笛を吹いた。それは、緊急事態の合図である。先公か? ポリ公か? こんな時に限って───チッ!

「邪魔が入ったね、散るよ! おっぱいはお預けだよ」

 そう言い残すと、キタゾエは竹藪の中に姿を消した。お前、そういうところも変わんねーのな……。そう思いながら、俺はキタゾエとは逆のルートへとばっくれた。竹林を抜け松の巨木に登って眺めると、そこにヨネっち(一度目の人生で馴染の警察官)の姿が見えた。

 わっけーなぁ……ヨネっち。竹林を見回るヨネっちの姿を眺めながら、俺はこれから先を考えていた。

 二度目の人生の中で、彼女がネットの海から俺を見つけることなど不可能だろう。それでも俺は力をつけたい。手に入れた時間を使って、自分の文章を極めてみたい。この世を去った彼女のために、俺の文章を書籍というカタチで残したかった。それが彼女の希望だから。今の俺がやるべきことは、読書と執筆に決まっている。やるにはやったが、まだまだ力量不足なのだから……。

 竹林からの帰り道。俺は文豪読破を心に決めて、家と同じ方向にある本屋ではなく、反対方向の本屋に寄った。その理由は簡単だ───店がデカい。

 店内に入ると、松田聖子の〝青い珊瑚礁〟が流れていた。懐かしいなぁ……聖子ちゃん。ノスタルジックに包まれた俺は、少年ジャンプに一直線だ。これこそ長年の習慣だ。パブロフの犬である……。聖子のキャンディボイスのその後で、小田和正のソプラノボイス。もう、終わりだね……オフコースの〝さよなら〟で我に返る。終わっちゃダメだ、ジャンプじゃなくて文豪なのだと。

 夏目、太宰、芥川、三島……。知ってるけど、読んでない。それらの本を開いては、パラパラめくって本棚に戻す。知ってるぞ、これが三島の金閣寺。本に向かって指を伸ばすと、俺の指が別の指と重なった。

「あ、すみません……」

「いえ、こちらこそ」

 咄嗟に謝罪の言葉が漏れた。それと同時に我思う……なんつーベタな設定なんだと。相手が美少女だったら、こんなの昭和のドラマにありがちじゃないか。

「あれ、意外ね。三島由紀夫なんて読むんだ。帰宅部のクセして、まだ家に帰ってないの? 制服でお店に入ったら、校則違反なの知らないの?───ルービック師匠」

 誰だよ? ルービック師匠って?

 ピンクのメガネフレームが印象的な、未来の女医が俺に言う。将来、俺にメタボ宣告する女……重ねた指のお相手は、私服姿の美藤夏夜びとうかよだった。

「そうだけど、美藤さんは遊びの途中?」

「違うわよ、これから塾に向かうところよ。ルービック師匠は塾に行かないの?」

 俺か? ルービック師匠って?───俺なのか?

「塾? あんなの金持ちが行くところだよ。うちなんて、とてもとても。美藤さんちは裕福なんだね」

「まぁ、そこそこかな? パパ、医者だし。そうそう、ルービックキューブのやり方教えてよ。じゃ、明日学校でね」

 それで、ルービック師匠なのか?

 バイバイと俺に向かって手を振ると、美藤は足早に本屋から出ていった。クラスの女子と会話するのは、いくら非モテな俺だって、そこまで特別なことじゃない。誰にでもある当たり前のひとコマなのだが……俺の一度目の人生で、親しく美藤と会話した記憶はない。だって、彼女は成績優秀な副委員長ちゃんだったから。てか、美藤さん。ルービック師匠っての……やめてくれね?

 複雑な思いを胸に秘め、俺は〝金閣寺〟を持ってレジへ向かった。

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