───しまった!
本屋で手にした金閣寺(三島由紀夫)。レジ前で、それを買えない俺がいた。財布に10円玉が10枚しか入っていない……もう、最悪だ。頭を垂れたレジ前で、俺の右肩を誰かが叩く。若き体は感度良好! 首が右に向かって反応すると、ホッペに誰かの指が食い込んだ……痛い! その指が、ホッペの中でグイグイ動く───マジ、痛てぇ!
「こんな手に引っかかるなんて……まだまだ子どもね、ルービック師匠。この本、貸してあげるから。ルービック・キューブのやり方、教えてね」
クスクスと笑いながら、美藤夏夜が俺の後ろに立っている。
「そうそう。これを貸してあげようかと思って、戻ってきちゃった」
手提げバッグに手を突っ込むと、美藤は一冊の本を取り出した。それ、人間失格? えぇぇぇ、太宰の? 人生やり直しの俺はともかく、つい最近まで小学生だった女の子が読む本じゃない。還暦前の俺だって……初見だぞ?
「なんか……お前、凄いな。流石は未来のドクター……」
「え、ドクター?」
もしかして、美藤さんもリピーター? いや、それはない。俺によくしてくれるのは、ルービック・キューブの攻略法が目的なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「あ、間違った。ドクター……スランプじゃなくて、人間失格だった」
「全然、違うじゃない……まっ、いっけど。じゃ、今度は本当にさようなら」
「うん、バイちゃ!」
美藤の背中を見送る俺の手元を、店員さんが指さした。
「ボク……その本、買わないの?」
「あ、すみません。お金を忘れたので、今度にします……」
俺は、しれっと嘘をつく。
一度目の人生で、俺は人間失格な奴だった。そんな俺が、二度目に最初に読む本が、太宰の人間失格だなんて……これもまた、運命の悪戯なのだろう。さぁ、読むべき本を手に入れた。家に帰って読みますか! 夕食を済ませて、俺はテレビのスイッチを入れる。ブォンという音と共に、ブラウン管が発光する。画面に表示される色彩が徐々に鮮明になってゆく。リモコンなど無い時代だ。スイッチもチャンネルも、テレビの前で操作するのだ。
「わけぇ~な、荒木由美子……ピチピチだ」
ブラウン管には、燃えろアタック。それをBGMに小説を読む俺を見て、夕食の片づけをしている母の手から、スルリと皿が滑り落ちた。
「なんの本、読んでるの?」
割れた皿を片付けながら、母が訊く。
「太宰治……」
思春期の男子の返事は、いつだって短い。
「大丈夫? 学校でなんかあった?」
「別に……」
俺を見つめる母の目から、動揺の色が隠せない───小学校の六年間。通信簿の国語の評価を〝がんばりましょう〟でコンプリートした俺である。そんな我が子が、太宰を読むのだ。皿が割れるのも当然だった。でもそれ以上、母が俺に言及することはなかった。その代わりに深夜まで、母は父と話をしていた。俺の話をしているのは明白だ。
「あの子、目覚めた?」
ダイニングから漏れる母の声が、その全てを物語っている。がしかし、翌朝、目覚めたのは俺の中の勇者だった……。
「おい、俺の股間の勇者がぁぁぁ……」
血湧き肉躍るとは、このことだ。俺の勇者に一本の芯が通る。肌に布が当たるだけで、ビンビンと勇者の剣がそそり立つ。そして、俺は大きなため息を漏らす……これが、これから何十年も続くのか。それが余計な機能に思えた。
一度目の人生を還暦前まで生きた俺だとて、この暴れ馬の制御は大変だ。股間に電源スイッチでも付いてりゃいいのに。この世に獅子として生を受けた者ならば、きっと、ご理解いただけるだろう。なぁ、そうだろ? そこの君。
浮かない顔して家を出て、校門の手前で褒美があった。ブルマーの団体が、俺の前を駆け抜ける。テニス部の朝練に、俺の解像度が一気に上がり、軽く体は前傾姿勢───
「モッコリ隠して、覚醒したかい!」
モッコリの響きに視線を向けると、キタゾエが腕組みしながら立っている。長いスカートの裾が、今にも地面にくっ付きそうだ。冷静を装って、素知らぬ顔で俺は答える。
「なんの話だ?」
「あんたの吉宗が、覚醒したの? って、聞いてるんだよ。男のリピーターたちが言ってたよ。吉宗の覚醒で、青春のカムバックを感じたってね。今のアンタ、昨日とオーラが違うのよ」
「お前には、俺のオーラが見えるのか? で……俺の暴れん坊将軍に、なんの用だ!」
キタゾエは、今朝も底の見えない女だった。
「誰にだって見えるさ。ギラついたスケベオーラがね。ブルマーは、中年男のロマンらしいからねぇ。いやらしい、いやらしい……」
キタゾエが呆れ顔で俺を睨むと、俺の勇者が引っ込んだ。
「でも、それは悪いことじゃないよ。アンタの心が、この世界に順応した証明さ。今のアンタにゃ、視界が鮮明になって見えてるはずだ。でもね、ウチは知ってる。前世の経験を悪用した奴らの末路を……。だから、本能に身を任せちゃいけないよ。アンタの事情なんて知らないし、ウチにそんなの関係ないけど……男はね、いくつになってもバカだから。昨日、ウチに話した彼女を忘れちゃいけないよ。これは、同類からの警告さ」
そう言い残してキタゾエは、校門をくぐる生徒の波に紛れて消えた。にしても、一学年10クラス。全校生徒1200人オーバー。これから日本を襲う少子高齢化社会が嘘のよう。生徒の数で校内が祭りのようだ。この勢いが令和の中学校にもあったなら、きっと未来は輝くだろう。子は国の宝か……そのとおり。未来の現実と昭和の光景とのギャップに、俺は言いようのない不安を覚えた。
校門で立ち尽くす、俺の右肩を誰かが叩く。若き体は感度良好! 首が勝手に反応すると、ホッペに誰かの指が食い込まない。一度受けた業など効かぬわ。俺が首を左に捻ると、ガッカリ顔の美藤がいた。
「あら、お見事。で、本、読んだ?」
お前は読書の達人か? そんなに速く読めるかよ。
「おはようございます。すみません。まだ、読めてません。ごめんなさい」
棒読みで俺は答える。
「そうよね、私でも読めないわ」
お前は俺を、からかってんのか? からかってんだな! 俺は少しムッとする。俺のことなど気にもせず、美藤はマイペースで話を続ける。
「あのね。本を読みたいなら、図書室に行ってみたら? 体育館の二階にあるわよ。あそこなら、金閣寺があったと思う。今日は半ドンだから、二時までなら借りられるはず。そんなことより、ルービック・キューブのやり方教えてよ。さぁ、教室に行くわよ───ルービック師匠!」
そう言って、美藤は俺の背中を押した。
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