一夜にして……という言葉がある。それが今朝の俺だった。教室に入った途端、俺に向けられた熱視線に歩みが止まる。ミュージシャンでもなく、アイドルでもなく、漫才師でもなく……言うなれば、ユリ・ゲラー(超能力者)でも見るような、好奇心たっぷりの眼差しだ───おい、そこの委員長。どうして俺に向かってルービック・キューブを振っている?
俺の隣のピンクメガネが、してやったりの顔をする。お前か? お前なんだな? 俺と本屋で別れた後。塾で六面揃ったルービック・キューブをひけらかしたか? 六面完成……俺の中学では、初の快挙。じっくりと一晩寝かせた噂に、尾びれ背びれがくっ付いて、登校中に広まった……と、いうことか? 口コミとは恐ろしいものよのう……まるで口裂け女だな。
今現在───どうやら俺は、目隠しでルービック・キューブを完成させる男になっているらしい……。この調子なら、両手を背中に回して六面を揃える日も近いだろう。俺がじろりと睨むと、美藤は逃げるように自分の席で朝の会の準備を始めた。どうやら、俺の予測は正しいらしい。
───人の噂も七十五日……か。
昭和の噂話の寿命は長い。ぼんやりと理科の授業を受けながら、俺は口裂け女を考えていた……わたし、キレイ? 彼女の噂も、俺のキューブと同じように広まったのだろう。一九八〇年、口裂け女の実在を信じる少年少女が多数派だった。テレビ、新聞、ラジオ。一切のマスメディアを使わず、噂は口伝えに岐阜から全国へと広まった。俺の記憶の口裂け女は、百メートルを十二秒で走るという。それなら、ワンチャン逃げ切れそう。そんな絶妙な設定の数々が、噂話を実話へと昇華させた。
そうなんだよ、噂だろうが、小説だろうが。キャラ設定は重要なのだ。二度目の人生で、小説家を志す俺は〝キャラ設定は、ギリ現実〟と、シャープペンシルでノートに刻む。隣の席の山田は〝夜露死苦〟の文字を机に刻んだ。懐かしいなぁ……彫刻刀。山田は卒業前、机にキャプテンハーロックのイラストを彫る男だ。
授業終了のチャイムが鳴ると、美藤が俺の席に駆け寄った。要件は理解しているのだが……なぁ、お前。どんだけ、キューブが好きなのか?
「ルービック師匠! やり方教えて」
やる気満々にも程がある。もしかして、懸賞金でも懸かってるのか? 二度目の人生に世界線のズレが生じているのなら……それは、あり得ることである。そうであるなら、話も変わる。が……美藤の声を皮切りに、キューブ攻略法を求める生徒が、俺の前で長蛇の列を成していた。さしずめ新宿の母だな、こりゃ。
列の中には、一度目の人生で、俺を裏切った奴らの顔もある。些細な裏切りだが忘れやしない。そっか、そっか。俺が優しく丁寧に、分かり難く教えてやろう。そんなことを考えていると、足立が俺の机の上に空き缶を置いた。この男……一瞬だけ、バブルで財を成すのだが……。
「なんだよ、足立。それ?」
「俺、今からお前のマネージャーなっ!」
足立はニヤけ顔で空き缶の側面を俺に見せた。そこには〝指導料、一回十円〟の貼り紙が。油断も隙もありゃしない。きっと足立は、授業中にこさえたのだろう。なぁ、足立。バブルが弾けた後、お前は姿を消したよな? その意味が分かるかい? 怖いんだぞ、金ってやつは……。
「じゃ、俺からね!」
夜露死苦山田が空き缶に十円玉を放り込んだ。それが呼び水となり、チャリンチャリンと空き缶の中で十円玉が跳ねる音。俺には、それが不快に感じた。なんだか腹まで立ってきた。こんなことでは日本の未来が……心の中で、俺はキタゾエに一票を投じた。そして、俺は宣言する。
「銭は要らねぇ、攻略法も教えねぇ。美藤には、太宰の恩があるからな。お前だけに教えてやる」
俺の一声で、金ヅルを失くした足立の顔は涙目だ───その場で俺は、美藤に攻略手順を伝授する。さすがは我が校が誇る秀才、美藤夏夜だ。大まかな手順を休憩時間のうちにマスターした。
「ここから先は、副委員長に任せた」
俺が肩をポンと叩くと、ニヤリと笑う美藤であった。
「私、ルービック・キューブをマスターしたわ! 教えるわよ、攻略法」
美藤がクラスメイトに宣言した瞬間。俺への注目は完全に美藤へと移行した。数人に攻略手順が広まれば、この騒動も収束を迎えるだろう。ただ、伝説は名を残す。この日を境に、俺は〝キューブ〟と呼ばれることになる……。なんか、それ……やだ。
「さてと、俺にはやるべきことがあるのだよ……」
昼休み。老眼鏡が要らぬ喜びを噛み締めながら、美藤に借りた「人間失格」の続きに目を通す。若き視力は、ページの裏側まで読めそうだけれど、日本語が回りくどくて、百五十ページほどの短い小説が、ラノベのように進まなない。てか、一度目の人生で人間失格だった俺である。太宰が途轍もなく重いのだ。一行ごとに心が折れる。そして、我誓う。この人生は、彼女のためだけに生きてゆこうと。
「ねぇ、キューブ。アナタ、読書が好きなの? だったら私と……読書部作らない?」
ルービック・キューブの指導に飽きたのだろうか? 美藤が俺の前の席に座る。手に持った購買部のイチゴ牛乳(瓶入り)が懐かしい。一度目で、飲みたくても買えなかったやつだ……。
「え? そんなこと、可能なのか?」
その発想はなかった……。
「そんなの簡単よ。五人の部員が必要だけどね。生徒手帳に書いてあるでしょ? で……やる?」
俺は即答などしなかった。考えるフリを俺はした。この話……どうも裏がありそうだ。
「じゃ、考えといて。これ、飲みたかったんでしょ? ルービック・キューブのお礼にどうぞ」
そう言うと、美藤は俺にイチゴ牛乳を手渡した。もしかして……お前は、あの日のことを覚えていたのか?
「俺、小遣いねぇーからイチゴ牛乳買えねぇーんだわ。誰かおごってくれねーかなぁ……イチゴ牛乳、瓶のやつ! 金、欲しいなぁ~」
一度目の人生、中学初日。それは、俺が足立にボヤいたセリフであった。
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