放課後。
図書室で〝金閣寺〟を探していると、誰かが俺の背中をドスンと叩いた。呼吸を荒げたゴジラのような剣幕で、美藤が顔を近づける。この女……わけわからん。
「キューブぅ~! なんで勝手に教室を出たのよ! 探したでしょ? 約束したでしょ? 読書部を作ろうって! やる気がないなら返しなさいよ、イチゴ牛乳! ホント、これだから───男は信用できないつーの!」
お前、令和ならハラスメントな発言だぜ? 初夏の風吹く学び舎で、白昼夢でも見たのだろう。こりゃ、一足早い中二病だな……部員になると承諾した覚えはないのだが?
「オッケーした記憶はないし、イチゴ牛乳も返せない。俺がいつ、そんな約束した?」
俺の言葉が導火線に火をつけた。美藤は烈火の如くの怒髪天だ。両手で学生カバンを天にかざし、プンプンって感じで怒りを表す。次の返答次第で、その学生カバンを振り下ろすつもりなのだろう。そして、美藤なら……それをやる。
「言ったじゃん、言いました! 私には時間がないの。私はね、今日も塾があるの。さぁ、行くわよ」
……おい、お前。毎日、塾に通っているのか? お金持ちのお嬢様は大変だな……。持ったカバンをバッタと下ろし、俺の腕を無理やり掴み、美藤は俺の体を引っ張った。小さな体とは思えぬ怪力だ。
「ねぇ、美藤さん……いずこへ?」
「だ・か・ら、職員室に決まってるでしょ!」
どっちだ? どっちの職員室へ向かうんだ? 俺の中学には、ふたつの職員室が存在する。第一職員室は一年団と二年団。第二職員室には三年団の教師がいる。俺は美藤に引きずられながら、図書室から本館へ駆け足で移動した。スゲェーな、俺の十三歳! このボディ、息のひとつも乱れやしない。このまま階段を駆け上がり、二階の廊下を右へ曲がれば第一職員室なのだが、美藤は迷うことなく左を目指した。
「お前、誰に顧問を頼むつもりだよ?」
「決まってるでしょ? 芥川よ」
───芥川。一度目の人生で耳にした、ひとつの噂が蘇る。伝説の教師、芥川……その呼び名は、あだ名である。本名は津川信彦。28歳の国語教師だ。俺には数回ほど、芥川と廊下ですれ違った記憶があった。細身で面長、ボサッとした髪型は、国語の教科書の芥川龍之介にそっくりである。そして、この男。ただのそっくりさんなどではない。噂では、彼の授業は常軌を逸しているらしい。俺の知る、芥川の噂は奇々怪々なものだった。
前提として、芥川は教壇に立たない教師である。教室に入ると教壇を素通りし、窓辺に置かれたパイプ椅子に腰を下ろす。そして、単行本を開くのだ。SF小説、推理小説、純文学……ジャンルはその日によって様々らしく、その噂から推測すれば、芥川が過度な読書ジャンキーなのは明白だった。
「起立、礼、着席」
委員長の号令が終わると、芥川は単行本を読みながら出席を取る。出席簿は教壇の机の上だ。つまり芥川は、受け持つ生徒の顔と名前を把握している。さらに、生徒の住所と電話番号まで記憶済み。あくまでも、それは噂話でエビデンスなど何処にもない。
そして、もうひとつ。芥川は、授業中に教科書を持たない。教科書を持たず、チョークも持たず、生徒に視線を向けることもなく、単行本に目を通しながら授業を進めるスタイルだ。「15番、〇〇。27ページから読め」芥川の指示に従い、生徒が朗読を始めると「その漢字の読みが違う! そこは───だ!」と指摘を入れる。教科書さえも記憶済み。それは、控えめに言っても化け物である。とはいえ、これらは中学生の噂話。尾びれ背びれでそうなったのだろう。そんな人間などいるものか。
こちとら、人生二度目だぜ。人生十年そこらのお前たちとは、まるで年季が違うのだ。その時、俺は芥川をなめていた……。
「先生。ふたり目の部員候補、連れてきました」
満面の笑みを浮かべて、美藤は芥川の前に俺を突き出した。どうやら美藤は、読書部を本気で作るつもりのようだ。入学直後から動いていたのだろう。芥川とはツーカーの仲のようである。芥川はデスクの上に足を乗せ、口にタバコを咥えながら、噂どおり単行本を読んでいる。昭和の職員室はタバコの煙で満ちている。令和の世なら炎上ものだが、誰もがそれを黙認していた。美藤は慣れた手つきで、芥川に灰皿を差し出した。
「ほう……」
灰皿にタバコの灰を落とすついでに、一瞬だけ俺の顔を確認し、芥川は視線を本に戻す。煩雑な態度に、俺はムッとするのだが、これぞまさしく昭和であった。芥川が開く本の背表紙に〝モッキングバードのいる町(森禮子)〟の文字が見えた。来年には〝なんとなく、クリスタル(田中康夫)〟を読む彼の姿が、ぼんやりと俺の頭に浮かんだ。本から目を離さずに芥川が言う。
「あと、三人な」
「はい!」
声高らかに返事をすると、美藤は俺の手をまた引いた。要件は済んだとばかりに、慌てて職員室から出ようとする。それだけか? それだけの要件で、俺をここまで連れてきたのか? 拍子抜けした俺の腕を、グイグイと美藤が引っぱっり続ける。俺の体の半分が、職員室から抜けると芥川の声が呼び止める。
「お~い、キューブ。お前が探している三島の金閣寺な。図書室の三列目から奥にふたつ目の本棚。その上から二段目。今日見たら、その真ん中あたりに本があったぞ。お前、新入生だよな? 十三歳で金閣寺とはね……お前、変わってんな? まぁ、がんばれや」
その間も、本を読み続ける芥川……え? この男。何もかも、お見通しって顔をしているけれど、もしかしてリピーターなのか? その疑いは数日後、あっさりと晴れることになる。芥川は、ただの変人だった。それとも無名の天才と呼ぶべきか? 教師よりも作家の方が、彼には向いていると俺は思った。
「ありがとうございます」
職員室の前に立ち、俺は深々と頭を下げた。その後で、丁寧に職員室の引き戸を閉めた。真面目な中学生を俺は演じた。閉めた職員室の引き戸の前で、俺は美藤に確認した。
「おい、美藤。あと三人、揃えばいいのか?」
「そうよ。あと三人揃えば、部活動として認められるわ」
「で、その特典は?」
「そうねぇ……特典ねぇ~。そうだ、こんなのはどう? 放課後。芥川が許す限り、図書室は使いたい放題よ。あの先生のことだから、土日だって、学校に来てもらえるわ。だって───もう、三十手前なのに独身だし、担任持ってないから暇そうだし。家でゴロゴロしているよりも学校に来たほうが、先生にとってもいいはずよ」
教師相手に随分な言い草だな……。とはいえ先立つものが何もない、そんな俺には好都合だ。本を読むのと同時に、誰にも邪魔されずに執筆ができる。さらに、図書室は静かな空間。合法的に無料で卒業まで使いたい放題。〝静寂〟とは、一度目の人生で、老いた俺が喉から手が出るほど欲しかった空間である。美藤が言う特典に、俺は俄然やる気を出した。
「だったら俺が、足立と山田を誘うわ。後のひとりは、お前が頑張れ」
俺が手を振り歩き始めると、美藤が悪い顔でニヤついている。ふたりで廊下を歩き、俺の前を歩く美藤が階段を降りようとした時、ようやく美藤が口を開いた。
「知ってんだから」
「何をですか?」
悪い笑顔は、そのままだ。
「キューブは、キタゾエさんとお友達でしょ? 読書部に誘ってよ。私、あの子は得意じゃないの……」
「アイツは無理だ。キャラじゃない」
俺は美藤の案をバッサリと切り捨てた。そう、アイツは今頃……あの竹林で喫煙中だろうよ。俺の言葉に、美藤は大きなため息を漏らした。その顔には〝ガッカリ〟の文字が張り付いていた。
「あと、ひとり。あと、ひとり……」
「甲子園の九回裏かよ?」
〝あと、ひとり〟を口ずさみながら、美藤は俺に小さな背を向けた。小さな美藤の背中が、更に小さくなって見えた。残念そうな背中を眺めながら、俺は美藤の後ろから階段を降りてゆく……。
「では、僕が最後のひとりになりますね」
階段の踊り場で、美藤の足がピタリと止まった。謎の声に振り返ると、背の高い男の姿が見えた。逆光で、顔の判別はできないのだが、その声に心当たりがあった───生徒会長である。生徒会に興味がなくとも、姿形は知っている。
「それは、どういう意味でしょうか?」
俺には生徒会長の言葉が信じられない。一学期が終われば三年は、本格的に高校受験の準備に入る。これから部活動などあり得ない。全国模試トップクラスの生徒会長といえど、酔狂にもほどがある。その笑顔の裏で、彼は何かを考えているのだろう……これは、俺の六十年余りの経験に基づく推測だ。
「今、言ったとおりの意味ですよ。やりましょう、読書部」
「やったー!!!」
なぁ、美藤よ。お前も少しは考えろ。生徒会長からの返答に、俺の背中を連打しながら、無邪気に喜びを表現する美藤であった。一度目の人生で、俺を格下に見ていた美藤の笑顔が、娘のように見えてくる。なぁ、部長(仮)。これからが大変だぞ? されども体勢は整った。
「それでは、僕の方から津川先生にお話を通しておきますね。では明日の放課後、図書室で……あ、そうそう。部長さんは、彼女ですか?」
「はい! 一年一組、美藤夏夜です! こっちは、同じクラスのキューブ」
夕日を浴びた美藤の顔が、今日一番の笑顔で輝いた。
俺たちの中学では、学年でネームプレートの色が違っている。俺たち一年は緑色、二年は青色。黄色のプレートは三年の証である。学生服の胸ポッケで輝く黄色いプレートには───〝サクラギ〟の文字が刻まれていた……はて?
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