小説家は物事に敏感な生き物で、些細なことにも興味を示す。新人作家、飛川三縁も例外ではない。駅で花音を待つ間、ひとりの老人に目が留まる。本を読む老人の姿が輝いて見えたのだ───〝檸檬〟か……。
誰かのお迎えだろうか? それとも旅行? 老人の表情が実に明るい。まるで、恋人でも待っているかのような……もしかして、奥さんだろうか? だったら、ロマンチックな待ち合わせである。三縁は思う───かくありたい。
ぼんやりと老人の所作を眺めていると、三縁のスマホにメッセージが入った───〝少し遅れます。ごめんなさい〟花音からの連絡だ。一旦、引き返そう。そう考えた三縁であるが、その老人が気になって、気になって。自動販売機で、冷たい缶コーヒーを二本買うと、一本を老人に差し出した。
「よかったら、どうぞ。その本は檸檬ですね。先日、僕も読みました」
一瞬、驚きの表情を見せた老人であったが、三縁を二十歳そこそこの青年だと判断すると、にこやかに缶コーヒーを受け取った。
「それはそれは……ありがとう」
「これからご旅行ですか?」
三縁は、やんわりと探りを入れる。
「いえいえ、遠方の親友が遊びに来るんですよ。まだ、一時間ほど早いですけど、うれしくて早めに来ちゃって……この本は、彼から貰ったんです。待っているうちに読み返そうと思って……お若いのに、梶井基次郎先生をご存じとは……」
老人は、感心した表情で三縁を見つめた。その眼差しに、三縁は少し恥ずかしくなった。
「僕、小説を書いていまして、担当さんから同じ本を勧められたんです」
「担当さん……もしかして、プロの小説家さんですか?」
老人の表情が、感心から驚きに変わった。
「お恥ずかしながら……」
「そうなんですか。こりゃ凄い!」
老人が目を細める。
「こんなところで、小説家の先生とお会いできるだなんて。これも何かの巡り合わせですね。長生きはするものです」
余程の読書家なのだろうか? さらに、老人の目が細くなった。
「いえいえ。まだ駆け出しなので、担当さんに迷惑ばかりかけちゃって……」
「先生のお名前だけでも、教えていただけますか?」
「飛川三縁と申します」
「どんな文字でしょうか?」
「飛ぶ川に三つの縁と書きます」
「よいお名前ですね」
そう言いながら、老人は黒い手帳に万年筆を走らせた。
「親友は読書家なので、ひとつ楽しみができました」
「お気に召していただければ、よろしいのですが……」
三縁と老人は、小説の話題に華を咲かせた。田舎の駅の構内では、ふたりの声と蝉しぐれだけが聞こえている。そして時折、笑い声。
「ところで、ご親友とは長いお付き合いで?」
それとなく、三縁は本題に入る。
「まぁ、それほど長くはありませんが、濃厚な時間を共に過ごした間柄です。もはや、私の人生には欠かせない存在とでも申しますか……」
老人は、あまり多くを語らない。
「では、久々のご対面ですね」
「いいえ、初対面です」
「え?」
「実は顔も声も知らないんです。これまで、メールだけで連絡を取り合っていました。時代遅れも、いいところですねぇ……」
三縁は思った……俺たちと同じだ。
「僕も彼女と、メールだけで会話してました。懐かしいなぁ……」
「これから、お迎えする方ですか?」
「そうです」
「それは奇遇ですね。私の隣に座りませんか?」
老人と三縁は笑顔を交わし、三縁はベンチに腰を下ろした。
「私の友人は、体調を崩してしまって……だから、彼と約束をしたんですよ」
「約束?」
老人は、すっかり三縁に気を許したらしい。
「そう。彼の病気が治ったら、私のところに遊びに来ると。今日という日を、私はどんなに待ちわびたことか。彼と一緒に、お昼は讃岐うどんを食べるんです。それと、一緒に行きたい場所もあるし……先生のお勧めのうどん屋さんって、ありますか?」
「だったら、ゲンちゃん一択です!」
三縁は迷うことなく、うどん屋ゲンちゃんを勧めた。
「あぁ、有名だものね。うどん屋巡り一軒目は、ゲンちゃんうどんにしようかな……」
「猛暑ですから、冷え冷えのざるうどんがお勧めです。麺が氷くらい冷たくて、喉ごしも抜群です」
「それは美味しそうだ。親友も喜んでくれそうです」
少年のような笑みに、三縁は花音に感謝した。遅れてくれて、ありがとう。
三縁と老人と会話は弾み、あっという間の一時間が過ぎてゆく。カンカンカン……下り列車の踏切の音。それが聞こえると、途端に老人の顔が神妙になり、口数が少なくなった。ベンチを立ち上がると、三縁は老人を誘った。
「さぁ、行きましょう」
「そうですね……」
老人は緊張でカチカチになっている。足取りもぎこちない。
「こんな姿の私を見たら、彼はガッカリしないでしょうか? 逃げ出したい気分です」
大切な人に己を見せる恐ろしさ。花音との初対面。老人と同じ心境になった三縁である。だからこそ、三縁は全力で老人を励ました。困難を乗り越えたふたりに、杞憂など不要なのだ。
「大丈夫ですよ。自信を持って! 親友さんだって、同じ気持ちだと思いますよ」
「そうですね、しっかりしないと」
駅のホームに電車が止まると、改札口の前でふたりは待った。依然として、老人の表情はカチカチだ。むしろ、さっきよりもガチガチである。テテテテテ……最初に改札を抜けたのは花音であった。慌てて電車を飛び出したのだろう。うっすらと、花音の額が汗ばんでいる。
「ごめんさい、遅れました」
ペコリと頭を下げると、花音の白い手のひらが、三縁の指を優しく包んだ。
「全然大丈夫だよ、逆によかった。ありがとね、花音」
「え?」
三縁は老人に向かって会釈をしたが、老人の目には三縁の姿が入らぬようだ。真剣な面持ちで、人の流れを見つめている。
「先生~! 小説、拝読しました。今回も素晴らしかったです」
声の主は、キャリーバックを引く背の高い人物だった。老人と同じような年恰好の男性が、にこやかに手を振っている。
「遠路はるばる、ありがとうございます」
老人は手を振り返して歩み寄る。老人もまた、三縁と同じ小説家であった。手を取り合うふたりの目から、大粒の涙が溢れていた……。
咄嗟に、三縁は花音の手を引いた。この場に留まるのは野暮である。そう判断した三縁は、花音と並んで駅を出た。とはいえ、改札口から駅の出口までの距離は、歩いて二十歩程度しかないのだが。
「花音。俺んちで、みんなが待ってるよ。お昼はふたりで、ゲンちゃんうどんを食べに行こなぁ~」
「はい! 楽しみです。でも、なんかねぇ……どうしたの?」
不思議そうな面持ちで、花音が三縁の顔を覗き込む。
「俺、小説家になってよかったなって。ついさっき、実感したわ。だって、ほら! いい顔してるじゃん?」
三縁と花音が振り返ると、ふたりの老人が楽しげに語らっている。それはまるで、遠い昔からの親友との再会と同じであった。彼らに何があったのか? それを、三縁が知る由もない。けれど、数多の障害を乗り越えた絆と強さ。それを、三縁は心の底で感じていた。
「なんかねぇ~。三縁さんも、いい顔してる」
「ゲンちゃんで話してあげるよ。とっても、とっても、いい話」
「はい、そっちも楽しみです!」
目を細めて花音が笑った。
抜けるような夏空に、ぽっかりと浮かんだ入道雲。それを眺めて三縁は思う。青葉さんと、あんなふうになれたらいいな、あのふたりのように……なりたいな、と。
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