000 出会いと別れ
―――猫は飼い主を選んで姿を現す。飼い主に寄り添い、支え、癒やし……その短い生涯を終える。飼い主から、深き愛情を受けた猫は、毛皮を着替えて転生し、再び飼い主の前に現れるという……。
「ア、アっ」
夏の雨の日、夏期講習の帰り道。俺は猫に呼び止められた。猫ってのは昔から「ニャー」って泣くもんじゃねーの? その独特な鳴き声に、俺は心底驚いた。くっきりと猫の額に描かれた〝M〟の文字も個性的。たぶんこの柄は、キジトラだったと記憶している。猫は俺に近づくと、足元に顎を擦りつけ、俺を見上げてを繰り返す―――その仕草に、俺の心臓がたゆとうた……
「うちの子に、なっちゃう?」
猫は大きな瞳を見開いて「ア、アっ」と返事した。俺が歩くと雨の中。長い尻尾をピーンと立てて、猫は意気揚々と俺の後をついてきた。その足取りに、猫もスキップするんだな……なんとなくそう思った。その日の光景は、深く俺の記憶に刻まれた。
「名前がいるよな?」
「ア、アっ」
俺は猫に〝サヨリ〟という名をつけた。ヒラメ、ハマチ、カサゴにオコゼ……釣り好きな俺が、思いついた魚の名前で呼ぶと、サヨリで反応したからだ。他の名前じゃ無反応なのに、サヨリと呼ぶと返事を返す。どうしたお前、可愛いじゃん。
「サヨリがいいの?」
「ア、アっ」
その日から、趣味のブログに新たなメンバーが加わった。バズるとまではいかないが、サヨリは多くの読者に可愛がられた。
あっという間に月日は流れ、二十年後の秋雨の夜。サヨリは、眠るようにこの世を去った。微笑むような死に顔だけが、俺の心を支えていた。出会ってから最後まで、俺たちは幸せだった。
カギ尻尾を持つ猫は、幸運を招くのだそうだ。それを証明するかのように、サヨリはブログを通して、俺に多くの幸運をもたらした。
その中に、トビちゃんとの出会いがあった。彼女とは、書き手と読み手の関係だった。もしも前世があるのなら、きっと身近にいたような、強い絆を感じる人だ。
彼女とメールを交わす年月の中で、サヨリは徐々に老いてゆき、やがてブログの中から姿を消した……。サヨリの写真を貼ればよいのだが、老いゆくサヨリの姿を晒すのが、俺にはとても辛かった。最後の日まで、彼女は俺の気持ちを汲んでくれた。
―――サヨリさんは、お元気ですか?
いつだって、彼女はメールでサヨリの身を安じていた。だから記事の中に言葉を添えた。
―――今日もサヨリは元気です(笑)
これは、彼女の不安を払うためだ。俺が彼女にできるのは、記事を書くことだけだった。おはよう、こんにちは、こんばんは、じゃまたね……。死と対峙した人の言葉は、挨拶だとて尊いものだ。彼女は医師から余命宣告を受けていた。だからこそ、俺たちは今日という日を楽しんだ。そして、彼女からの連絡は途絶えた……。
〝意識がなくなる直前まで。あの子の手のひらには、あなたのブログがありました。本当にありがとうございました……〟
連絡が途絶えてから一ヶ月後、彼女の親友から訃報が届く。それだとて……晴れの日も、雨の日も、風の日も―――今日もサヨリは元気です(笑) 彼女へ向けたメッセージを、サヨリが旅立つ二日前まで。俺は休むことなく書き続けた。
ふたりはこの世に……もういない。
それでも、俺はブログを書く。ここがふたりの場所だから。天で迷子にならぬよう。ふたりが寂しがらぬよう。天へ届けと記事を書く。
サヨリが旅立ってから二度目の秋。俺はコンビニの中にいた。窓を打ちつける雨粒に、あの夜の記憶が蘇る。なぁ、サヨリ、お前は幸せだったかい? 天国でトビちゃんと……逢えたかい?
「こりゃ、本降りだな……」
深夜のコンビニから外へ出ると、俺の行く手を阻むように、冷たい雨が激しさを増した―――
「ア、アっ」
「え?」
雨音に紛れて、聞き慣れた声が微かに聞こえた……空耳か? それが妙に気になって、俺は声がする方へと足を進めた……。
コメント