001 ワシが死んだ日
つい……うっかり眠っておった。
ワシの名はサヨリという。主との付き合いも、かれこれ二十年ほどになるのかのう。ワシもすっかり年老いて、今じゃ、立つのもままならぬ。にしても……ワシの体が浮かんでおるようじゃが? あれはなんじゃ? 主がワシを抱きかかえておるようじゃが? はて……ワシもついに、ボケたかのう。もう一匹のワシがおるとは……。
「ボケてなんていませんよ。つい、うっかり、ついさっき。サヨリさんは死んだのです」
ワシの前に少女がおった。大きな丸眼鏡をかけた人間じゃった。気のせいか、少女の体も浮いておる。
「人間のお嬢ちゃん。年寄りに冗談を言うもんじゃない。寿命が縮んだらどうするんじゃ」
「こんなところに、冗談を言いになんて来ませんよ。私はチハル。死神で……へへ、すいません。猫さんたちには、先達さんと呼ばれてますよ、へへへへへ」
「先達とな? そっか、そっか。ワシは、いつの間にやら死んだのか……」
「安らかにとか、眠るようにと申しますが、あなたのような最後は稀ですよ。サヨリさんの最後は、本当に眠るように穏やかでした。ちょっぴり私……感動ですよ、へへへへへ」
ワシがチハルと話しているうちに、主がワシを抱いて家を出た……はて? ワシの体をどうするつもりじゃ?
「ご主人さまに、ついて行きますか?」
「え? いいの」
「一日くらいなら構いませんよ。途中で私は、ご飯を食べに抜けますけれど? おじさんがおいしいご飯を作って、私の帰りを待っていますから。それでよければ、ご自由になさってください」
「先達なのに、飯を食うのか?」
「当然ですよ。私は、おじさんのハンバーグが大好きなんですよ、へへへへへ」
「じゃ、遠慮なく」
「どうぞ、どうぞ。いってらっしゃい。サヨリさん、壁はすり抜けられますよぉ」
「本当か……?」
「すりすりです!」
チハルの言葉に、ワシはドアをすり抜けて、一目散に駆け出した。ワシの亡骸を抱いた主は、傘を片手にトボトボと、いつもの散歩道を歩いておった。今夜は別れの散歩道と呼ぶべきじゃろうか? 主の吐く息が白かった。風邪をひかねばよいのじゃが……ワシは主の身を案じた。
いつもの街灯、いつもの公園、いつもの陸橋の上から、車のヘッドライトを共に眺める。何もかも、いつもどおりの光景じゃった。ワシは、ここからの眺めが好きじゃった……。
「なぁ、サヨリ。そこにいる?」
流れるヘッドライトを眺めながら、主がワシの亡骸に話しかける。
「ア、アぁ(おるぞ。ここじゃ)」
いくら主に叫んでも、ワシの声は届かんかった。ワシの亡骸を抱きしめる、主の背中が痛々しい。主は静かに話を続けた……
「人間は三途の川だけれど……猫って、死んだら虹の橋を渡るらしい。虹の橋のてっぺんで『トビちゃん』って叫んでごらん。トビちゃんが、雷電に乗って迎えに来るから。雷電って分かるかな? 緑色の飛行機だよ」
「ア、アぁ(分かった)」
主の言葉に従おう。知っておるぞ、トビちゃんを。主のブログの読者じゃからの。いいや、それ以上の関係じゃ。互いに顔も知らん間柄じゃが、目に見えぬ、絆のようなものが、そこにはあった。
去年じゃったか? トビちゃんは、この世を去った。主は元気そうに振る舞っておったが、精神的ダメージは相当なものじゃった。時折、涙を零しておったかの……それが、とても見ておれんかった。ワシはその度に、主の膝を温めたものじゃ。
そうじゃった……思い出した、思い出した。ワシの命も危うかったが、主を置いては死ねやせぬ。ワシは必死で、今日まで生きた。名残惜しいが限界じゃった。これから主は、ひとりぼっち。大丈夫かのう、我が主殿は……。
「どうします? もう少し残ります?」
チハルが様子を見に来たようじゃ。ワシは後ろ髪を引かれる思いじゃったが、死んだものは生き返らん。今のワシにできるのは、トビちゃんに会うことだけじゃ。それが主の願いじゃからの。トビちゃんに会ったら、主の自慢でもするとしよう。最高の主じゃったと……な。
「いいや、主の気持ちは理解した。虹の橋というところに、先達よ。ワシを案内してくれんかの?」
「じゃ、行きましょう! 虹の橋へ」
チハルはにこりと微笑んだ。ワシはチハルに聞こえぬように、小声で主に別れを告げた。
「さようなら……お父ちゃん」
チハルに悟られぬよう……ワシは、少し泣いた。
「ちょっとだけ、気持ち悪いかもしれませんよぉ~」
「心配には及ばん!」
「へへへへへ、それは心強いです!」
チハルがワシの前足をつかんだ。すると、ワシの体が天高く、月に向かって舞い上がる。あの世とは……やはり、天空にあるのじゃな。漠然とワシはそう思ったのじゃが―――うげーっ! 気持ちが悪い……。気持ち悪さにチハルの手を振り払うと、チハルのパンツがチラリと見えた。
「見ましたね?」
「なんの話じゃ?」
「ちっ!」
チハルは舌打ちしながら、惚けたワシの前足をつかみ直す。チハルのパンツはイチゴ柄じゃった。
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