003 橋のてっぺん
どれくらい走ったじゃろうか? 近いような、遠いような……。この橋のてっぺんから、トビちゃんの名を叫べばよいのじゃな。簡単じゃ。巨大な虹の袂で、ワシは気合を入れ直し、足取りも軽く一気に駆けた―――
こ、こ、こ。ここからワシが飛び降りるのか? 腰をかがめて橋の下を眺むれば、そこは底なしの沼のよう……猫でも分かる。落ちたら死ぬのに決まっておる。どれくらい考えたじゃろうか? ガタガタと震えながら、ワシの腰は引けておった。
「やっぱりでしたか! サヨリさん。震えているじゃありませんか、へへへへへ」
ワシの背後にチハルがいた。なんて意地悪そうな笑顔なんじゃ……。
「びっくりしたぞ。何しに来たんじゃ? シャーっ!!!」
ワシは怒りをあらわにした。この小娘がっ! 年寄りを脅かすもんじゃない。
「まぁ、まぁ。怒らないでくださいよ。ここから飛び降りるには、勇気がいりますからね。きっと、こうなると思っていましたよ。ここからは、すべてを私に任せてください、へへへへへ」
ワシに向かって、チハルが満面の笑みを浮かべておった。にしても……ワシの中で、ひとつの疑問が浮上した。
「ところでじゃ。猫のワシに、どうして人間のソナタが先達しておるのかのう……?」
チハルは、ハッとした顔つきだ。はっはーん! チハル。お前、言い忘れたじゃろ?
「そうですね、そうでした。全世界的な猫ブームの影響で、現世の猫さんの数が一気に増えてしまっちゃいまして……で、猫の先達さんの数が足りません。猫の手も借りたいって状況なのですよ、へへへへへ」
「人の手を借りとるがの」
「まぁまぁ。ですから、飼い主に愛されて、寿命を全うした猫さん限定で、私のような死神がお供するように。そう、神さまからのお達しがあったんですよ。こちらも、少子高齢化の影響で、割と忙しいのですけれど。サヨリさんのような猫になると、神さまも特別に、依怙贔屓をするようです」
ほう……神さまとやらも、見る目があるわい。
「私がここまで足を運んだのも、特別なことなんですよ、へへへへへ。じゃ、そろそろですね」
「どうした、急に!」
チハルはワシを抱きかかえ、ワシの耳に向かって、こう言った。
「さぁ、トビちゃんと叫んでください」
「待て、待て、待て。叫んだら、どうするつもりじゃ」
「チハル、投げまーすっ!」
この娘、侮れん……ワシは固く口を閉ざした。そんなことなどお構いなしに、ワシの体を揺らしながら、チハルは楽しげにリズムを取った。
「トビちゃん、トビちゃん。はい、はい、はい」
「……」
バカにしとんのか? ワシに構うな! チハルの奇行が止まらない。
「サヨリさん。もう一度! はい、はい、はい! トビちゃん、トビちゃん。はい、はい、はい!」
「トビちゃん、……。……、……、はい」
楽しげなチハルの笑顔に、ワシも少し楽しくなった。
「お上手ですね。では、さっきよりも大きな声で。もう一回! はい。トビちゃん、トビちゃん、はい、はい、はい!」
「トビちゃん、トビちゃん。はい、はい、はい、にゃー!」
なんだか、とても楽しい気分じゃ。
「じゃ、ラスト。はい、はい、はい! はい!」
「トビちゃーーーーーん!」
「へへへへへ。やっぱり、サヨリさんも猫ですね」
そう言うと、チハルの口角がニヤリと上がった。死神というよりも、悪魔のような笑顔じゃった。しまった。まんまと小娘に乗せられてしもうた……。
静まり返った虹の橋。ブーン! 謎の羽音に果てなき空を眺むれば───なんじゃあれは? 我が主の予告どおりに雷電が、ワシに向かって一直線に飛んできた。主と作ったプラモと違うのは、翼の赤い日の丸が、黄色いひまわりの花じゃった。
「それでは、サヨリさん。ごきげんよう!」
「ちょと待て、ちょと待て、チハルさん!」
「ダメですよぉ~! へへへへへ」
チハルの高笑いと共に、ワシの体が宙を舞った。
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