020 タロウ
「サヨリ兄さん。自分ちょっと、いいっすか? 放っとけないっす」
チョコは一目散に、木の根元へ駆け出しました。白い子犬の姿が見えます。ボクは帰りが気になったけれど、チョコを置いて帰れません。ボクもチョコの後を追いました。
「そこのワンちゃん。何か心配事でもあるのかい? ウチはそういうの、放っておけない性分でね。事情を話してごらん。役に立てるかもしれないよ」
チョコの口調は、相手によって変化します。今の口調は、ボクと最初に言葉を交わした時の口調です。
「別に……」
素っ気ない返答に、チョコは被せるように言いました。
「いいからさ、話してみなよ。ウチは十四まで生きた猫だよ。そして、このお方が〝大往生〟のサヨリ兄さんっす! 動物界で、大往生の威厳は共通のはずっすよ!」
チョコの口調が戻りました。チョコに丸投げされた思いです。
「大往生……さま?」
「サヨリ兄さん、一言どうぞ」
「は、初めまして……」
子犬は立ち上がると、姿勢を正して丁寧に、ボクにお辞儀をしました。ボクもお辞儀を返します。
「僕はタロウ。保健所で最後を迎えた老犬です」
「「保健所?」」
保健所は怖いところです。ボクの心が痛みました。ボクの隣で、チョコがブルブル震えています。
「飼い犬だったら……」
悲しげなタロウの瞳に、ボクは言葉を飲み込みました。
「そうでございます、大往生さま。年老いた僕は、あっさりと捨てられました。でも僕は、主人と暮らした日々を忘れることができません。子犬の頃、主人は僕を可愛がりました。毎日、僕と遊んでくれました。僕は片時も、主人のそばを離れませんでした。僕は主人が大好きだった……」
ボクの頭にお父ちゃんの顔が浮かびました。そして、寂しくなりました。
「主人が老いた僕に興味をなくしてから、数年が過ぎたある日のこと。『タロウ、散歩へ行こう!』その言葉が、うれしくて、うれしくて───僕の心は躍りました。主人は僕を車に乗せて、山の中へ連れてゆきました。昔のように、遊んでもらえる。そう思っていた僕は、天にも昇る気持ちで、主人が投げたボールを追いかけました。ボールを咥えて振り返ると、車は走り去る途中でした。僕は必死で追いかけました。でも、前足を挫いてしまって、そのまま走れなくなって……」
「それは人間じゃないよ、そんなの鬼だ!」
ボクは声を震わせました。
「悪く言わないで、大往生さま。僕には大切な主人なのです……」
犬は忠実な動物です。何をされても主人に尽くします―――ボクら猫だって尽くすけど、お父ちゃんが好きだけど、タロウの主人の仕打ちはあまりにも酷いです。
「……」
タロウの悲しげな表情に、ボクは言い返すことができません。
「犬には帰巣本能があります。本能に従って、僕は足を引きずりながら、何日も歩きました。いや、何ヶ月……何年だったかもしれません。ようやく主人の町に入り、やっとのことで主人の家まで辿り着き、思い出の庭に愛しい主人の姿を見つけると、主人は見知らぬ女性の隣で、赤ちゃんを抱いてあやしていました……そういうことかと思いました」
「それにしても!」
沸々と湧き上がる、ボクの怒りが収まりません。
「もう、老犬など用済みです。主人の幸せを祈りながら、僕は捨てられた場所へ戻ろうと思いました。それが僕の行き場所です。その途中で、僕は人間につかまったのです。みすぼらしい老犬の末路……これ以上は、勘弁してください」
悲しくて、寂しくて……ボクらは、タロウの体に寄り添いました。
「でも、どうしてここへ?」
「僕を迎えに来たチハルさんが言いました。『あなたのママが待っている』と。『あなたをとても心配している』と。『神さまから特例が出た』と。僕は主人の母親に、面倒をみてもらっていたのです。でもそれは、人間の世界でよくある話です。僕が捨てられたのは、ママが死んだ後のことでした。僕はお世話になったママの助けになればと、ここへやってきたのです」
「そのママは?」
キョロキョロと、チョコが辺りを見渡します。どこにもママらしき姿は見当たりません。
「数日前、天に帰りました……赤い蛍火でした。待つ人を失って、ママは天国へと旅立ちました。とても穏やかなママの顔に、それだけで僕は、来た甲斐があったと思います」
チョコは、黙っていられなくなったようです。
「タロウちゃん、自分と一緒に行かないっすか? 心優しい十蔵ちゃんなら、事情を話せば、タロウちゃんを受け入れてくれるっす!」
タロウは首を横に振りました。
「そうすれば、この木が消えてなくなってしまう。僕の四十九日まで後わずか。ここで、ママの木を守るのが……僕の最後のお役目です。でも、大往生さまに会えるだなんて、冥土の土産ができました。ありがとうございます」
タロウはボクに向かって、再び頭を下げました。ボクはタロウに訊きました。
「タロウさんは、どの選択をするの?」
「ママの所へ行きます!」
その時の、タロウの顔は晴れやかでした―――
「人間の中には、悪魔のようなやつがいるっすね!」
大冒険の帰り道。気が収まらないチョコは怒髪天です。ボクの怒りも静まらないけど、タロウの幸せは、最後までママの木を守ること。その邪魔はできません。ボクらは急いで、トビちゃんの所へ帰りました。
「あら。ふたりとも、浮かない顔して何かあったの?」
ボクは今日の出来事をトビちゃんに話しました。トビちゃんは、頷きながらボクの話を聞いてくれました。話の途中でふとチョコが気になりました。今夜の十蔵の木には、蛍火が多いような気がします。
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