021 天国の階段
ここへ来てから十五日目の夜。寂しい事件が起こりました。
十蔵の木の方角から、疾風の如く黒い毛玉が駆けてきます。チョコが血相を変えて、ボクらの所へやってきました。
「助けてぇー、サヨリ兄さん! 十蔵ちゃんが、大変なことに!」
十蔵の木に目を向けると、赤い光が集まっています―――蛍火です。その輝きに、トビちゃんはすべてを察しました。
「サヨリさん。行きましょう!」
「チョコちゃん、戻ろう!」
「サヨリ兄さん、大好きっす!」
気が動転しているのでしょう。チョコの言動が壊れています。ボクたちは十蔵の所へと駆けつけました。ボクの予想と違って、イケメンの十蔵は、さっぱりした爽やかな表情です。
「やぁ、みんな。こんばんは」
十蔵の顔を赤い光が照らしています。その美しい微笑みに、ボクらは言葉を失いました。
「ヒカルに新しい彼氏ができたんだ。だからもう、ここに俺はいられない。そこで、トビちゃんにお願いがあるんだけど?」
十蔵がトビちゃんに言いました。
「うん……分かってます。分かっていますとも。チョコちゃんのことですね」
トビちゃんの視線が、十蔵から足元のチョコに移りました。チョコを抱き上げながら十蔵は言いました。
「チョコは、このとおりの我がままで……でもね、根はいい子だから。だから四十九日まで、チョコをよろしく頼みます」
「了解です!」
十蔵に向かってトビちゃんは、ピシッと敬礼をしました。チョコは泣きながら、十蔵の胸にしがみ付き、涙ながらに言いました。
「十蔵ちゃん、大丈夫? チョコは、十蔵ちゃんの所へ来られて、とても幸せだったよ。ありがとう。十蔵ちゃん」
十蔵は、優しくチョコの頭を撫でました。ゴロゴロと、チョコは喉を鳴らしています。
「チョコと会えて、俺も幸せだった。少しの時間だったけど、ヒカルの子と暮らせたからね。俺にとって、それはとても幸せなことなんだ。トビちゃんの言うことを聞いて、我がままを言わないようにね」
「分かった、いい子にする。天国で会おうね、十蔵ちゃん」
チョコの言葉に十蔵は、諭すように答えます。
「いや、それは違うな。チョコは、四十九日までしっかりと考えるんだ。俺は天国からヒカルを見守る。それが俺の幸せだから。でもチョコは、俺のことを気遣ってはいけないよ。チョコにはチョコの未来がある。決断の日まで、それをしっかり見極めるんだ。そのために、チョコはここへ来たんだよ。分かるかい?」
チョコは、十蔵を見上げて答えます。
「……チョコ。サヨリ兄さんと考えるね。一生懸命考えるから。それでも天国に行きたくなったら、十蔵ちゃんの所へ行くね。それは、いい?」
チョコの瞳から涙が溢れています。
「もちろんさ」
そう言って、十蔵はチョコを肩に乗せました。チョコは肩の上から、十蔵の横顔を見つめています。
「サヨリちゃん。チョコのことをお願いしても……いいかな?」
ボクは大きく頷きました。
「チョコちゃんのことは任せてください。ボクもチョコちゃんと考えます。ボクたちの未来を」
十蔵は安心した表情を見せました。そして、天に向かって叫びます。
「天昇、お願いします!」
すると、赤い光が輝きを増して、十蔵を包みました。そして十蔵の前に、金色の階段が姿を現しました。天に向かって続いています。虹の橋は美しかったけれど、天国の階段は崇高な風貌です。
「トビちゃん、さらば……チョコを頼む」
「任せてください」
十蔵はチョコをトビちゃんに預けると、階段を上ってゆきました。ボクたちは金色の階段が消えるまで、十蔵の背中を見送りました。階段が消えると、十蔵の木も消えました。
「さよなら、十蔵ちゃん……」
トビちゃんの肩の上から、チョコが大粒の涙を流しています。ボクは、チョコの涙で不安になって、トビちゃんに訊きました。
「お父ちゃんに好きな人ができたら、トビちゃんも天国へ行くの? それとも……転生して、新しい人生を歩むの?」
「わたしは天国に行くの。天国でお月さまを待つの。ひと目だけでも、お月さまに会いたいの。叶わなかった夢だから……」
やっぱり答えは、蛍火の夜と同じでした。
「でも―――トビちゃんは、悲しくならない?」
「悲しくないよ。おいしいご飯を作ったり、身の回りのお世話をしたり。お月さまを大切にしてくれる人ならいいの。それを、わたしがしたかったから。そして、お月さまがいつまでも健康で、楽しく長生きをしてくれたなら、それがわたしの幸せなの。ステキな人と出会えたらいいなぁ……お月さま」
それは、今の時代にはそぐわない。ボクは、そう思ったけれど……口に出すのを止めました。
「でも、それって……」
すかさず、チョコが口を開きます。チョコが言わんとしていることは、ボクと同じなのでしょう。咄嗟にボクは、チョコの口を阻んで、トビちゃんを守りました。
「チョコちゃん、口チャック!」
「うぃっす、サヨリ兄さん」
チョコがペロリと、赤い舌を出しました。
「ふふふ……ほんと、仲良しさんなんだから」
ボクらの会話にトビちゃんが、クスクスと笑いました。天を漂う蛍火を眺めながら、トビちゃんが言いました。
「これから、お月さまの寝顔を見に行きませんか?」
「うん!」
「うぃっす!」
ボクらが湖の水面を覗くと、お父ちゃんは起きていました。パソコンに向かって、やっぱり何かを書いています。何を書いているのかな? それはボクにはさっぱりだけれど、トビちゃんは微笑んでいます。期待に満ちた微笑みでした。
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