032 産神チフユ
人間が忌み嫌う死神は、どうして千の春と書いて〝チハル〟と呼ばれているのか? 魂を現世へ誘う産神は、どうして千の冬と書いて〝チフユ〟と呼ばれているのか? 死と生とを鑑みれば、逆だと感じる名前です。けれども、現世の外側に身を置けば、自ずと答えは見えてきます。
その証拠に、人も動物も天国を希望します。天国とは苦しみなき世界です。食欲、性欲、物欲、感楽欲、承認欲……苦しみとは、これらの欲が生み出す負の幻想にすぎません。心の中に欲がなければ、どこで暮らしても幸せです。つまり天国とは、すべての欲望から解き放たれた世界なのです。
トビちゃんと、ここで暮らしていたかった……でもボクは欲を選びました。
「大往生のサヨリよ。お主は、どうして転生を選んだのじゃ?」
ボクに産神さまが、問いました……。ボクには、産神さまが父ちゃんの姿に見えました。黒いスーツ姿で、右手にアタッシュケースを持っています。スーツを着たお父ちゃんは、いつもと違って別人のようにも見えました。
「お父ちゃんに逢いたい欲。トビちゃんを安心させたい欲。ボクは、その欲を捨てることができません。だから転生を希望しました……」
「ほう……そなた、この世界の真理を理解しておるな。心の叫びが聞こえておるわ。記憶を失くして、その希望どおりに生きられるのか? その保証はないのじゃぞ」
産神さまの目線がチョコに移りました。
「ヒカルちゃんさま。自分は、大往生の花嫁になる猫っす!」
チョコには、産神さまがヒカルの姿に見えているようです。
「そんな理由で転生するのか? にしても……『大往生の花嫁』とは、大きく出たの。天国の方が何万倍も楽しいというのに……そこまで大往生を好きになったのか?」
「激ラブっすよ!」
一点の曇りもない眼差しで、チョコは産神さまを見つめています。ため息混じりに産神さまは言いました。
「神の気まぐれとやらに、期待するしかなかろう。が……しかし、お主らの意思が強ければ、起こるやもしれんぞ、奇跡が。自分勝手で、我がままで、自由気ままな神ではあるが、大往生に対する依怙贔屓……かつて、あるにはあったかのう……」
「「あるの?」」
チョコがニヤリと微笑みました。
「それはそうと、頭の上におる蛍も連れてゆくのか?」
「はい。この蛍は、トビちゃんの心ですから」
産神さまは、諭すように言いました。
「お主の想い、そなたの想い、そして……そこの人間の想いのすべて。それが、無駄に終わるやもしれんのだぞ? それでも、転生の道を選ぶのか?」
「はい!」
「うぃーっす! たとえ自分が忘れても、大往生のサヨリ兄さんが自分を探してくれるっす!」
チョコは、未来をボクに託します。すると、産神さまが声高らかに笑いました。
「はははは……、面白いのう。最近は、少し脅せば意思を変える者ばかりじゃが。それでも、己の意思を貫くと申すのか?」
「はい」
「うぃーっす!」
「では。チョコとやらには、これを授けよう───はなむけじゃ」
産神さまがアタッシュケースを開くと、中には白い毛皮とオッドアイのコンタクトが入っています。
「サヨリ兄さん、覗いちゃダメっすよ!」
毛皮とコンタクトを咥えたチョコは、そう言い残すと木の陰に身を隠しました。しばらくすると、白い子猫が木の陰から姿を現しました。雪のような毛皮の白さが、宝石のように美しいオッドアイを引き立たせています。てか、雰囲気まで変わったような……チョコなの? 子猫は猛烈な勢いで、ボクの所に駆け寄りました。
「サヨリ兄さん、どうっすか? どうっすか?」
やっぱりチョコだ───ピョンピョンと、チョコはボクの前で飛び跳ねています。
「なんで二度も言うのかな?……チョコちゃん、すごくキレイだよ」
チョコのピョンピョンがピタリと止まりました。
「今……なんと? サヨリ兄さん! さっきのおかわり───いいっすか?」
「チョコちゃん。すご……うわぁ!!!」
ボクが返事をする前に、チョコが上機嫌で抱きつきました。すると、産神さまからの咳払い。
「ううっん!!! お前たち、これから現世への扉を開くぞ。何があっても強く生きるのじゃ、我が子たちよ!」
「「はい!」」
「扉よ、開けぇ!」
ボクとチョコの前に、大きな扉が現れました。この扉の向こうが、お父ちゃんが住む世界です。
「産神さま、ボクに少しだけ時間をください」
「よかろう」
ボクはトビちゃんの胸に抱きつきました。
「ボクがお父ちゃんを見守るから、ボクたちを見守っていてね」
「うん。サヨリさん、ありがとう。お月さまをお願いします」
ボクとチョコは、ふたり並んで扉の中へ入りました。扉の向こうに小さいけれど、とても明るい光が見えます。離れ離れにならないように、ボクたちは互いに長い尻尾を絡めました。道案内をするように、蛍がボクたちの前を飛んでいます。
「自分、サヨリ兄さんの花嫁っすよね?」
チョコが最終確認のよう訊きました。
「ボクとチョコは依依恋恋だよ」
ボクは照れ隠しで、難しい言葉を使いました。
「いいれんれん……?」
チョコが小首を傾けます。
「その意味は、来世でゆっくり教えてあげるね」
「楽しみっす!」
「あ、それと。来世のボクは、大往生じゃないかもだよ?」
「自分。肩書きで相手を決めるような、そんな安っぽい女じゃないっすから───そこんところ、よろしくっす!」
ボクの肩にグイグイと、チョコが白い肩をすり寄せました。ボクたちは光を目指して歩きました。そして───すべてを失いました。
ボクは……誰ですか?
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