この家で暮らし始めてから、数日が経ちました。雨のコンビニで、ボクを助けてくれた男の人は、いつもニコニコしています。そして「お父ちゃんだぞぉ〜」と言って、ボクに高い高いをしてくれます。だからボクは、この人をお父ちゃんと呼んでいます。
高い高いをしてもらうと、上からとか、下からとか、斜めからだとか……ボクから見えるお父ちゃんの顔が、色んな角度から見えて楽しいです。
ボクを高い高いするお父ちゃんは、ボクの顔を下から見上げて微笑むと、次はボクのお腹をジッと見て「ヨシ、健康!」と言って喜びます。その後で、ボクの鼻に自分の鼻をくっつけて笑うのです。
でも、不思議です。ずっと前から、ボクはここにいたような気がします。高い高いだって、お父ちゃんに何度もしてもらった気がします……。どうして、そんな気持ちになるのかな?
先日は、モモという名前の白猫と遊びました。オッドアイの可愛らしい女の子です。飼い主のヨネさんは
「モモの肉球って桃色なの。だからモモ」
と言っていました。よその町で会った時、ボクはヨネさんが怖くて逃げたけれど、今ではすっかり仲良しです。
ボクがモモと遊んでいると、お父ちゃんがヨネさんに、プリンタで印刷した小説を渡しました。ヨネさんは小説を受け取ると
「ありがとう……すぐに読むわね。それにしても、いいお顔ね。ほんと、便利屋さん。いいお顔になったわ。きっと、サヨリちゃんのお陰ね───」
ヨネさんは、笑いながら泣いていました。お父ちゃんは、困った顔で笑っています。ふたりの笑顔に、なんだかボクまでうれしくなりました。この気持ちを伝えたい。そんな大切な人がいるはずなのに、それが誰なのか? ボクには思い出せません。
「いいれんれん……覚えてるっすか?」
白くて長い髭を前に伸ばして、モモがモジモジしています。ボクたち猫は、興奮すると髭を前に伸ばします。
「なんか……ごめん」
ボクが首を横に振ると
「大丈夫っす。生まれる前から、自分の心はひとつっす。サヨリ兄さんが、自分を見つけてくれただけで、モモは世界一の幸せ者っす!」
大きな瞳を細めると、モモが寂しそうに笑いました。モモの笑顔に、ボクは切なくなりました。でも、その理由さえも分かりません。ただ、胸が苦しくなるだけです。その日の別れ際にも
「にゃぁぁぁーーー(いいれんれん)」
と、モモが大きな声で鳴きました。その声が、今も耳について離れません……。
***
お父ちゃんの机の上には、柔らかくてふわふわの、シロクマ柄のクッションが置いてあります。お父ちゃんがパソコンをする時、ボクはお父ちゃんの膝の上か、ふわふわクッションの上に座ります。そして、お父ちゃんを見守るのです。よく分からないけど、それがボクのお役目です。
お父ちゃんがパソコンをしていると、スマホのアラームが鳴りました。
「……心ちゃんか」
そう言って、ボクが座るクッションの縁に、スマホを立てかけたお父ちゃんは、ハンズフリーボタンをタップします。
「やぁ、久しぶり。心だよ。僕の結婚式以来だね。君の小説を拝読した。とても素晴らしかった。トビちゃんを想い出して、正直なところ、泣いてしまった……」
心ちゃんの声が震えています。はて? 心ちゃんとトビちゃん……どこかで聞いたような名前です。
「ありがとう。それもこれも、心ちゃんのお陰だよ。旦那さんと赤ちゃんにも、よろしくお伝え願えるかな?」
「うん、ありがとう。話は変わるが、たった今。君にメールを飛ばしたよ」
「なんのメール?」
「君の小説が完成したら、渡してほしいと頼まれていたんだ。トビちゃんからの動画だよ。たぶん、スマホの自撮り動画だと思う。安心してくれたまえ。僕は動画の内容を知らない。ただ、病院からの外出時に撮影したものらしいことだけは伝えておくよ」
お父ちゃんの顔から笑顔が消えました。ここへ来てから初めて見る表情に、ボクは不安になりました。
「トビちゃんの死期を早めた最後の外出……あれさえなければ、トビちゃんは……だって、そうだろ? 本とかお茶とかお菓子とか……それこそ、心ちゃんに頼めばよかったんだ……」
お父ちゃんの声が強ばりました。すると、心ちゃんが優しい声で答えました。お父ちゃんの背中をさすりながら、語りかけているような声でした。
「いいかい、それは大きな誤解だよ……あの日。トビちゃんは、君のお陰で幸せな時を過ごせたんだ。大好きな人への贈り物を、お店で選んで、自分の手で送れたんだ。その気持ち、僕は女だからよく分かる」
お父ちゃんは、口を閉ざしたままでした。
「トビちゃんにとって、その時間は一生分の幸せだったんだ。病室に戻ったトビちゃんの笑顔が、すべてを僕に証明してくれた。楽しそうに僕に話してくれたよ。『小包の中にね、小説の参考書も入れちゃった。これ、ずっと渡したかったの。読みたいなぁ〜、お月さまが書いた物語』ってね。それこそ、とびっきりの笑顔だったよ。子どもの頃から見てきた僕だって、トビちゃんのあんな笑顔は初めてだったよ……悔しかったよ、実際。君のことが憎らしく思えるほどに……」
お父ちゃんが、両手で顔を押さえました。
「その時、初めて耳にしたのだが……トビちゃんはね。君を本当の名前で呼びたがっていたんだよ。ハンドルネームじゃなくってね。その勇気が出ないって言ってた。でも……退院したら、そうするって。だから、死ねないって。君がブログを書いてくれるから大丈夫だって。君の記事がお薬だって。耳まで顔を赤らめて、可愛かったなぁ……あの時のトビちゃん。その望みは叶わなかったけれど……たぶん、動画の中に答えがあると思う。そんな気がする……」
心ちゃんの声が、スマホの向こうで震えています。お父ちゃんは、ボクを膝の上に乗せました。そして、パソコンから動画を再生しました。画面に水色の空が映りました。それは、冬の空のように見えました。
空から山へ、山から海へ……風景がゆっくりと動いています。風の音と波の音が心地よく流れています。
画面に笑顔の女の人が映し出されると、お父ちゃんがギュッとボクの体を抱きしめました。こちらに向かって、女の人が手を振っています。その笑顔から、幸せが溢れていました。
ボクは、この人を知っています。誰だか分からないけど、知っています。この人は、ボクにとって大切な人なのです。そうに違いありません。
画面から流れる映像は、お父ちゃんの高い高いで、ボクが見た感じと似ています。女の人のスマホを持つ手が動く度に、ゆっくりと女の人と周りの景色がくるりと回って止まります。太陽の光に反射して、大きな瞳を縁取る長いまつ毛が、ピカピカ光ってキレイです。
画面が下から上へのアオリ角度になった時。オーバーオールの大きな胸ポッケが見えました───ボクは、あのポッケの中に入ったことがある───トビちゃんだ! チョコも、サチさんも、十蔵も……朧げにボクは思い出しました。この人は、ボクの大好きなトビちゃんです。
にこやかな笑顔と風の音と。その後ろに広がる大空で、海鳥が群れをなして羽ばたいています。やがて、トビちゃんの小さなピンクの唇が開きました。
「しゅんたさん、シュンタさん、俊太さん……」
トビちゃんが、お父ちゃんの名前を呼んでいます。鈴が転がるようなコロコロとした丸い声。それは、ボクが大好きな声でした。コンビニで聞いた蛍の声とも同じです。トビちゃんは、天国の待合所から、ずっとボクを守っていてくれたのです。
「アッ、あ!(トビちゃんだよぉ)」
鳴きながらお父ちゃんを見上げると、ボクのオデコに雨が降りました。ボクが転生を決めた日と、同じ涙の雨でした。
スマホのカメラが固定されると、トビちゃんがゆっくり後退りをしています。画面にトビちゃんの全身が映し出されると、トビちゃんは両手を広げて、軽やかに回って楽しそうに手を振ります。現世のトビちゃんはどの角度から見ても、天国の待合所の姿と同じで、眩いばかりの美人さんです。ボクもトビちゃんに前足を振りました。
広げた手のひらをほっぺに添えて、トビちゃんが何かを言っています。風の音で、何を言っているのか聞き取れません。その後で、両手を合わせて、海に向かって何かを祈ると、空の一点を目指すように、細くて白い指が伸びています。その先に、何があるのか分かりません……。ボクには分からないことだらけだけれど、トビちゃんの笑顔に見覚えがありました。それは、旦那さんをお迎えにゆくサチさんが見せた、幸せの笑顔とそっくりです。
テテテテテ……スマホに駆け寄って、トビちゃんが言いました。
「俊太さん。ありがとうございました。とても、とても楽しかったです。ほら、見てください!」
この笑顔は、世界中のキレイと可愛いを集めたような、最高の笑顔です。スマホのレンズが水色の空へと向けられました。そこに白い月が浮かんでいます。
「月がとても綺麗でした……」
その声で動画は終わりました。
「これからは、ふたりで眺めて過ごそうな……」
窓から見えるひこうき雲を眺めながら、お父ちゃんがそう言うと、刹那にボクの記憶が蘇りました。虹の橋のてっぺんで見た、トビちゃんが操縦する雷電の勇姿。トビちゃんのポッケの中の温もりと、天国の待合所で暮らした日々。神さまの気まぐれと奇跡。チョコとの約束───依々恋々……。
ボクは確信しました。ボクは奇跡を起こせたのだと。そして、自分の気持ちにも気づきました。だからボクは決めました。次はボクからチョコを抱きしめようと。そして、トビちゃんが笑顔で暮らせるように───今日もサヨリは元気です(笑)
ボクは元気で長生きしよう。ボクのなすべきことは、それだから───
コメント
優しさがいっぱい詰まった小説ですね。素晴らしい小説を読むことができました。ありがとうございます。雉虎さんのなすべきことも元気で長生きすることですから、頑張りすぎないように、どうかお体を大切になさってください。
らむさん、お久しぶりです。
サヨリへの想いを、いっぱい、いっぱい、詰め込みました。
そうですね、元気で長生きしないとデス!
サヨリの分まで元気で生きます(笑)
とてもステキな小説で最後は泣いてしまいました。かわいいネコの話というだけでなく、いろんなことを教えてもらった気がします。心に優しく響く小説を読ますていただき、ありがとうございました。
静香さん、最後まで読んでいただきありがとうございます。
天国のサヨリを想像しながら、ようやく書き終えることができました。
どうしてでしょうね? 自分で書いたのに、僕も読み返すと泣いちゃいます(汗)