生きた文章とは?

小説の話
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 以前の僕は、執筆テクニックだけを追い求めていた。哀愁とか情景とかの類に興味もなかった。SEO(検索エンジン最適化)を駆使して、それっぽい文章にフックを絡めて記事を書いていた。なにはともあれ、検索上位表示が最優先。アフィリエイトするなら王道の手段で、今日もサヨリは元気です(笑)

 キジとら(このブログ)を書き始めて八年が経過した。過去記事を遡れば、書き始めてから二年ほどの期間。それに準じた文章を書いている。その証拠に、今でも古い記事へのアクセスが幾分かあり、さらに売上も発生している。アフィリ界隈での常識〝記事は資産〟の具現化だ(笑) 今でもそれを続けていれば、収入面でそれなりの結果を得ていたのかもしれないのだが、それを断ち切ったのにも理由があった。

───SEO基準の変化である。

 もはや、到底太刀打ちできない。そう判断したのは、2020年の頃である。コロナ禍に入ると同時に、何やらGoogleの方針が激変したのを肌身に感じた───これは絶対、ヤバいやつ! これまでの常識は通用しない。それに加えて、ブロガー人口が急増する。それはコロナ禍で、未来への不安からなのであろう。言い換えれば、アフィリエイターが激増したのだ。主婦、大学生に加えて、医者、弁護士、教師……知識人さえもが参入した。そうなれば、何もない凡人の僕には、もはや無理ゲーの様相を見せた───潮時だった……。

 そこから僕は、文章の見直しを考え始めた。不特定多数のアクセスを捨て、コアな読者獲得に主軸を置いた。それは無謀な試みである。だって、そうでしょ? 文法って何? 比喩って何? 倒置法なんで知るもんか。そんな僕が五十を過ぎて挑むのだ。そんなの無理に決まってる。それでもやってみようと考えた。筆を折るのも視野に入れて……ダメ元だ。

 先ず始めたのが読書である。ターゲットはライトノベル。世の中には、文章を読みながら脳内で映像が浮かぶ人がいるらしい。そんな便利な機能が僕にはない。だから、アニメ化されたラノベを読んだ。視覚、聴覚に訴える流行りのアニメシーンを記憶する。そして、原作を読んで文体を覚える。猿まねだけれど、僕みたいな猿だって、そこそこ書けるようにもなるだろう。そんなぶらり散歩気分で文章矯正に取りかかる。おかげで多少はマシになった……と思う。そんな生活が一年ほど続いた頃、僕の人生に現れたのが、僕が友人と呼ぶ人物であった。

───血の通ったブログ……。

 友人からのお問い合わせに、初夏の風が吹き込んだ。そこから、友人とのメールのやり取りが始まった。血の通ったブログは、その中に書かれていた言葉である。当時の僕にはピンとこなかった。僕なんて特別でもなければ、誰のブログでも同じでしょ? 文章とは「あ」から「ん」までで構成されている。トリッキーな技を持つでなく、キテレツな文体でもない。致命的に語彙も少ない……でも、何で? 友人の言葉が不思議に思えた。そして、僕の文章が変化を見せる。不特定多数へ向けた文章から、一個人へ向けた文章へと変化し始めたのだ。それは意図的なのだが、てか、そうなってしまった。そう、ならざるを得なかったのだと思う。一般的なブログとは違う文体を書き始めた。手紙や日記に近くなった。

───血の通ったブログ……。

 友人との出会いから十ヶ月後。僕の人生に相棒が登場した。彼からの始めてのメールにも、同じ言葉が書かれていた。友人と相棒とはリアルな知人の関係である。だから、ふたりの日常会話の中に、そのフレーズがあったのかもしれない。僕からそれを訊くこともない。だから、真相は未だに不明だ……。

───生きた文章。

 これもまた、ふたりから聞かされた言葉である。それが僕にあるのだという。でもそれを、僕は自覚できない。生きた文章がどういうものなのか? 未だにそれすら分からない。実感が湧かないからだ。ここまで書き続ければ、僕が筆を折ることはないだろう。このままブログと小説を書き続ければ、自ずと答えも見つかるのだろう。小説に至っては、たかだかキャリアなんて一年程度。これまで幾多の人々が、文章に心血を注いできたのだ。年齢は自他ともに認めるジジイだけれど、執筆の世界じゃ、僕はまだまだ鼻たれ小僧。書き続けたその先で、何かが見えればそれで御の字。僕の書いた小説を、どこかの誰かが楽しんでくれたなら、今はそれで十分だと思う(笑)

 とはいえ……だ。明日のショート・ショートは、何を書こうか? ストック切れの綱渡り。早くそこから抜け出したい(汗)

コメント

  1. 手紙のような文章。
    すごい納得。
    そうだなぁ٩( ᐛ )و

    • そうだね、手紙だよね(笑)

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