009 それを、ゴリラに伝えなきゃ!
オタは可愛い、だれにも渡したくないほどに。それがオタにとって特別な、ゴリラ……否、有友涼平だとしても。
「ゴリラがさぁ……」とか、「ゴリラがねぇ……」だとか。オタが彼を話題にするたびに、ボクは何食わぬ顔で相づちを打つ。作り笑顔で平静を装いながらも、嫉妬の炎がボクの心を焼いていた───
「お・じゃ・まぁ~」
学校でもバイト先でもボクが執筆を始めると、ボクに小さな肩をくっつけて、オタは隣で本を読む。オタから漂う甘い香りに、いつもボクはほっとする。
今日は、どんな本を読むのだろうか? コツンとオタに肩を当て、ボクはそれを問うてみる。
「ねぇ~、オタぁ。今日は、なにを読んでるのぉ?」
「ん? 『キャリー』だよぉ」
よりにもよってホラーとは、怖がりのオタにしては珍しい……。
「スティーブンのぉ?」
「そう、豚の血のぉ……学校で本編を読み終えたから、解説のところを読んでるの。ゴリラお勧めの一冊ですぞぉ」
また、ゴリラ……か。
「それ、怖かった?」
オタがぷっと吹き出して、ボクの肩をバシバシ叩く。
「怖いのは、太宰とキングだよ」
なんで、太宰が出てくんの?
「キャリーはね。あ、キャリーは主人公の女の子ね。ママや学校から、性教育を受けていないの。そんな女生徒が初潮の日を迎えたら……どうだろう? あ! ネットのない時代だよ」
「大きな病気で死ぬかと……思う」
たぶんボクなら、そう思う。
「だよねー。それが運悪く、学校のトイレで迎えたの。そしたらさ、女子たちがパニクってるキャリーに向かって、『これでも詰めとけー』って、生理用品をぶつけるの。エグくない?」
いくらなんでも、それは……エグい。
「そんな描写を、おっさんが書いたんだよ。あれは、男の発想じゃないね。こえーわ、キング。少女かよ?」
それで太宰の『女生徒』か……どうやらオタは、キングのからくりを知りたくて、あとがきや解説をむさぼるように読んでいる。「それも読書の醍醐味だよ」そう語るだけに書評も鋭い。そんな彼女が、ボクの小説を気に入ってくれているのが、実のところ不思議だった。
「天才だよねぇ……」
そう言って、ボクはスマホに意識を戻す。ボツにボツを重ねて、これで何本目になるのだろう。これまでスラスラ書けていたのに、天道いろはの『五月の雨』が、ボクのハードルを上げていた。
なんだかなぁ。イメージと違うんだよねぇ。でもこれってさ、どうやれば、あんなふうに書けるのよ? そもそも読み終えた後の余韻はなんなのよ? 教えてほしい、でも訊けない。
いくら作者が高校の先輩だとて、とても身近な人物だとしても、ボクには踏み込めない領域だった───
来年のあなたは、なにをしていますか?
来月は?
来週は?
そして、今は?
生きて……くれますか?
これが、『五月の雨』の冒頭文だ。読了後、すべてがこの文頭へと帰結して、ボクは読み返すたびに涙する。だれのセリフともわからぬ、一文に……。
最大の謎は題名だ。作中に『五月』の描写と『雨』の描写がまるでなく、本文にそぐわぬ題名に、読者は違和感を感じていた。
それこそが『五月の雨』最大の論点であり、ファンによる考察記事がネットで乱立しているのだけれど、納得できる考察がまるでなく、ボクの心のモヤモヤが、いつも心の奥底でくすぶっていた。だから何度も……幾度も……読み返してしまうのだ。
加賀美仁と日向月奈。ふたりの純愛と兄の手ほどき。それぞれの想いが幾重にも、らせん状に絡み合いながら、少年漫画の熱量で物語は突き進み、ハッピーエンドで幕を閉じる。だた、ストーリーそのものはありきたり。
なのにどうして?
行間に潜む本質に、凡人のボクは踏み込めない。それがボクの筆を鈍らせる。これについては、オタと考察をすり合わせたけれど、腑に落ちる解答は得られぬままだ。
もしも、書店の棚の片隅で『五月の雨(天道いろは)』の背表紙と出会ったら、ぜひ手に取ってほしいとボクは願う。まごうことなく『五月の雨』は、天道いろはの代表作なのだから。
「はぁ……」
これもボツ、です。
深いため息と弱い指先で、ボクはスマホをタップした。すると、オタがボクの肩に、小さな肩をコツンと当てた。
「また、ボツですかぁ? さよちゃん先輩は優しいけど、また、豊田先輩と本田先輩に嫌みを言われちゃいますよぉ~、遅筆だね……って」
今、それ言う? あのふたりは、苦手だな……。
二年の豊田ひかりと本田こだまは、AIを駆使して小説を書く。いわゆる量産タイプのスタイルだけれど、ボクにはAIなんて使えないし、それをやっちゃうと自分で書いたような気にもなれなくて、ボクはAI推進派から距離を置いていた。
「オタぁ~。あの、クマのぬいぐるみってさぁ、UFOキャッチャー? 可愛いね。写真撮ってもいーい?」
とっさにボクは、話題を逸らす。
オタのぬいぐるみコレクションの真ん中に、ちょこんと白いクマが座っている。どんなに配置が変わっていても、クマのぬいぐるみはセンターにいる。
「違うよぉ。あ、写真は許す。なんかねー、入院したの。覚えてないけど、ちっちゃいころ。そこで、あのぬいぐるみを気に入ったらしくてね……それ、入院していたお姉さんのだけれど、うちが『ほしい』って、泣きわめいたものだから、お姉さんが貸してくれたの。でも、返すの忘れちゃってさ。でもママが言ってたの。ふたりとも近くに住んでるって」
「ふたりとも?」
「もうひとりは、お姉さんのお友だち。毎日のようにお見舞いに来てたんだって。だから、いつかお姉さんに返す子なんだぁ~。いつになったら、会えるのかなぁ……大人になるまでに会えるといいなぁ……っていうか、それ。前にも言ったし!」
そう言うと、「きみ、しっかりしてよ!」って感じで、オタがゴツンと肩を当てた。
「だよねー。今回もボツでしたぁ~」
ボクも肩を当て返す。
「ねぇ~え、きみぃ。うちは気づいてしまったの……」
出た、得意の気づきだ。
いろはさんの本棚の気づき。あれは、気まずかったなぁ。あれから、おじさんと本棚の話題が禁句になっちゃったわけだし……なのに、本棚の本は減ってゆくし、おじさんの本はそれっぽいし、モヤモヤするのよねぇ。
「で、どしたぁ。オタ」
「ボツにした原稿ってさぁ、きみって削除しているのかにゃ?」
まあるい黒目が、ボクを見上げて問いかける。子猫のような大きな瞳。オタの「にゃ」が、ボクの琴線をポロンと鳴らす。
きゃわいい……じゃん!
あまりの愛らしさに、もうたまらん。ボクはオタの頭を撫で回す。この、この、このぉ~。
「ボツフォルダに入れてあるけどぉ? そんなことより、今日のオタも可愛いにゃぁ、ちゅーる食べる?」
今さらだけれど、ボクらは今。オタのベッドの上でじゃれている。
「や、め……れぇ、にゃぁ~……!」
オタが子猫のように転がって、素早くボクの魔の手から脱出すると、特撮ヒーローみたいなポーズを取った。
「やんのか? てめぇー。うちは、ちゅーるよりもケーキがいい…………ぷっ」
「……ぷっ」
その返しに、ボクの口角が上がってしまう。もう今夜、パジャマパーティとかやっちゃわない?
こんなふうに書いてしまうと、ボクらがユリユリのように思われそうだけれど、そんな気持ちはどこにもなくて、阿川家が暮らす県住は狭く、ボクらが落ち着いて座れる場所が、オタのベッドの上になっていた。
さしずめそれは、海外ドラマのハイスクール女子のよう。だって彼女たちは、ベッドの上で宿題とかしてるでしょ? ボクらは壁に背中をあずけて、体育座りのように膝を曲げ、ボクはスマホで小説を書き、オタは隣で本を読む。
ときどき、ボクの肩に頭をあずけて、小さな寝息を立てるオタ。幼女の面影を残した横顔に、にやけが止まらぬボクである。
「ねぇ~え、きみぃ。うち、来る? 静かですよ、狭いけど……」
「いいけど……いいの?」
こんな会話が切っ掛けで、ボクはオタの部屋に入り浸るようになっていた。ほんとに静かで心地いい。それは、オタの両親にも公認されていることである。
というのも、オタの両親はキッチンカーで移動しながら、たこ焼きを販売している。ふたりとも、夜にならなければ帰れない。仕事柄、遅くなる日だって多分にある。その間、オタはひとりで過ごしている。子煩悩なオタパパは気が気じゃない。
「貴美子ちゃんがいてくれると安心だ。たこ焼きは食い放題だよ。いつでも遊びに来てやってぇ!」
娘の身を案じるオタパパからすれば、ボクの訪問は願ったり叶ったりなのである。ボクとしても好物のたこ焼きが、オタパパから振る舞われるものだから、その言葉に甘えている。
あの日。きちんとオタの過去と向き合えた日。オタの両親から信頼を得られたのだとボクは思う。
それよりもなによりも、こうしてオタと肩を並べる放課後が、ボクの至福の時間になっていた。オタとの高校生活がとても楽しい。
それはともかく、今日の気づきはなんだろう?
「ねぇ~え、きみぃ。これ、読んでみ?」
そう言うと、オタが『キャリー』を手渡した。なにゆえ、ホラーを?
「どこ? どこ?」
パラパラと、ボクは文庫本のページをめくる。
「ここだよ、ここ。解説のところ。てか、購買の〝めんたいパン〟って、おいしいらしいね」
「そうらしいね、めんたいパン。あ、ここですなぁ~。どれどれ……」
オタが開いたページには、キャリーの誕生秘話が書かれていた。要約すると、こうである。
売れない作家、認められない作家。将来への不安と貧困にあえぐスティーブン・キングを救ったのは、ほかならぬ彼の妻からの助言であった。彼の妻の名を『タビサ』という。
タビサは、キングがゴミ箱へ捨てた三枚のボツ原稿を読み上げると、キングに続きの執筆を勧めた。タビサ自身も小説家である。
妻の提案に、多感な少女の気持ちが書けないと拒否するキング。するとタビサは、「わたしが女だってこと忘れてない? なんでも訊いて」と言葉をかける……これが、ホラーの帝王誕生の瞬間となる。
そっかそっか……うっすらと、オタの思惑が見えてきた。
「つまり、ボツの中に面白いアイディアが眠っていると? オタはそう言いたいわけ?」
オタの口角に連動して、丸いメガネがニーっと上がる。そして、別のページを読み上げる───
「わたしをそれに巻き込み───ついでそこから救い出したタビーに捧げる」
さらに続けて、
「きみっ、行くよっ!」
オタが〝くのいち〟のような身軽さで、ベッドの上から飛び出した。
「行くって、どこへ?」
ボクにとっては、そっちが大事。
「決まってんじゃん、ゴリラだよ。ゴリラもこれに巻き込むのぉ。これから、ゴリラのお家に突撃ですわよぉ~。おーっ、ほっ、ほっ、ほぉ~!」
ドタドタと、オタが玄関に向かって駆けてゆく! その笑い声は、下品な港小夜子という感じ。
「ゴリラ、ゴリラって……そんなの有友君に失礼だよ。そりゃ、出会ったときはゴリラだった。でも今は、髪が伸びてイケメン君になってるじゃん。そんなことよりも、急に押しかけたら有友君だって迷惑でしょ? そういうとこだよ、よくないよ!」
ボクは言葉でオタを引き留める。するとオタがくるりと回って、満面の笑みでボクを見て、とんでもないことを口走る。
「ゴ、ゴリラがイケメン? それを、ゴリラに伝えなきゃ!」
しまった、言うんじゃなかった! 水を得た魚のように、オタの動きが加速する。
「ちょ、ちょ、ちょ! そんな意味じゃないからぁ。てか、待ってぇ~。玄関のカギぃ~、閉めないとぉ!」
小さな背中をボクは夢中で追いかけた。階段で転ばないかと、オタの身を案じながら……。

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